31 やることリスト
目を覚ましたのは、あの教室だった。
月明かりに照らされた部屋には、誰もいない。いるはずもない。
何も聞こえない。静かだった。
瓦礫が散乱したままの、泥だらけの校舎は、あの日の惨劇を物語っていた。
ずっと手にしていた本は、真っ白ではなく、最初に読んでいた、泥まみれの本に戻っている。
行かなきゃ。先輩の最後の願いを叶えなくてはいけない。
俺は無我夢中で、教室を出て、夜の街を走り出した。
しばらく運動をサボっていたから、すぐに息が上がる。
何度も転びそうになりながら、必死に先輩の家を目指した。
街を見下ろせる高台に作られた一軒家は、被害を受けなかったのだろう。とても綺麗なままだった。
もし先輩が、学校になんかこなければ。助かっていたかもしれない。そんなたらればを言ってもしょうがない。
違うだろ。先輩の願いを叶えるために戻ってきたんだ。
しっかりしろ、俺。
息を整えてから、インターホンを押した。
「あら、いらっしゃい。どうしたの」
「すみません、こんなに遅くに」
出迎えてくれたのは、先輩の母親だった。
初めてこの家を訪れた時は、玄関には、先輩や父親の靴も並んでいた。今あるのは、大人の女物の靴だけだ。
もうみんないないんだという、当たり前のことを、再認識させられて、心が折れそうになる。
「やっとうちに来てくれたのね。ずーっと待ってたのよ。本当に、元気になって良かった」
あの日、俺は泥の中に、ほとんど体が埋まった状態で発見されて、救出された後も、しばらく入院生活が続いていた。
ヘドロなどを含む黒い水に溺れたことで、肺炎を発症し、なかなか症状が改善されなかったのだ。肺を洗浄し、何度も生死をさまよい、ようやく回復した時には、もう先輩の葬式は終わっていた。
途方に暮れて、吸い寄せられるように、あの日、教室に足を運んでいた。ほとんど朦朧とした状態で、何もかも終わりにしようと思って、あの場所に向かったのだ。
「きっと、あの子も寂しがってるだろうから。よかったら、あの子に焼香をしてやってね」
案内された仏壇の前には、かろうじて見つかった遺骨を入れた箱が二つ並んでいた。
さっきまで、一緒に喋っていたのに。あの二人は、もう骨になっているなんて。
なんだか不思議な感覚だった。
「お墓も流されちゃったみたいで。新しいところが見つかるまで、今はまだ、ここにいてもらってるの」
昔は女子サッカーチームで活躍していたという先輩の母親は、色白な先輩や父親とは対照的に、いつも小麦色の肌で、元気一杯の肝っ玉母さんみたいな印象だった。
だが、今の彼女は少しやつれていて、以前ほどの覇気がなかった。
「あの子の部屋も、覗いていく? なんなら日記なんかも、勝手に見ちゃってもいいわよ。今なら絶対に怒られないから」
先輩の母親は、無理に笑おうをするが、すぐに涙ぐんでしまう。
まだ心の整理がついていないのだろう。きっとこの家には、先輩も、父親も、みんなが暮らしていた思い出が、いっぱいつまっているはずだ。
ただ生活をしているだけなのに、そこかしこに、幸せな思い出の亡霊が、ゆらりと姿を見せ続ける。その錯覚が、生者の心をさらに、締め付けるのかもしれない。
高校に上がって、俺たち二人が正式に付き合い始めてからも、先輩の部屋に入れてもらえることはなかった。あの父親がガードしていたからだ。
だから部屋に入るのは、今回が初めてとなる。
二階にある先輩の部屋は、わりとシンプルだった。
カーテンもベッドカバーも白い。机やクローゼットも、すべての家具が白かった。
かろうじて女の子らしい部分といえば、棚の上に並べられた、いくつかのぬいぐるみや、可愛らしい小さなオブジェぐらいだろうか。それすらも、すべてが白かった。
どんだけ白が好きだったんだよ。徹底している。ちょっと笑ってしまった。
「まるで病院みたいでしょ。でもあの子、これがいいっていうから」
母親も苦笑いをしている。
机の引き出しを開けて、ノートを取り出した。
「特別に読ませてあげる。もし、夢の中であの子に怒られても、責任は取らないけど。私もいっぱい怒られたから、共犯者を作ろうと思って」
先輩がいたずらっ子のように笑うのは、もしかしたら母親譲りだったのかもしれない。
受け取ったノートをめくると、「やることリスト」と書かれたページがある。その中の一つに、「学校の屋上で結婚式をする」という項目があり、ぐるぐると赤ペンでマークされていた。
「君には絶対に内緒にしておいてと、言われてたんだけど、実はあの日、入院することが決まっていてね」
「入院?」
「あの子、昔から我慢強くて、痛くても痛いって、辛くても辛いって、あんまり言わない子だったの。どうでもいいことは、いろんなわがままを言うくせに、そういうところだけ、遠慮する子だったのよね」
母親は、力なく笑みを浮かべる。
「だから手遅れになっちゃったんでしょうね」
「手遅れって」
「手術が難しいところまで進行していて、抗がん剤治療に望みをつなぐはずだったんだけど、それでも少しだけ、余命を延ばす程度の効果しかないかもって、先生に言われてね」
そんな。俺は何も知らなかった。
「きっと入院したら、二度と出ることは、難しいんじゃないかと思ったんでしょうね。だから最後にあなたと、形だけでも結婚式を挙げたいって、わがままを言い出して、勝手に病院を抜け出して、私の古いウエディングドレスを持ち出して、学校に行ったみたいで」
母親の肩は揺れていた。必死に涙をこらえようとしても、涙が止まらないようだった。
「……ごめんなさい。俺のせいで」
「むしろ謝らないといけないのは、私のほう」
母親は首を横に振る。
「今でも思ってしまう。あの日、無理やりにでも、あの子を引き止めておけば、病院も、この家も、高台の上にあったから、もしかしたら、まだ生きてたかもしれないって。あなただって、巻き込まずに済んだかもしれないって」
涙をぬぐった母親が俺を見て、必死に笑顔を作ろうとしていた。
「でもきっと、あの子は一番幸せな時に、あなたと一緒にいられたんだから、むしろあなたには感謝してると思う」
そうだろうか。本当にそうだったら、いいけれど。
母親は違う引き出しを開けて、古いノートを出してきた。小学生が書いているような文字が記されている。
「あの子が死んでから知ったのだけど、日記にね、小さい頃は、毎日のように、ずっと死にたいって書いてたの、あの子」
幼い先輩がサインペンで綴った文字は、所々にじんでいる。
「表向きは、なんでもないような顔をしてたのに、そんなに辛い思いをしてたなんて、私は知らなかった。見た目のせいで、いじめられてるなんて私達に知られたら、悲しませると思ったんでしょうね。あの子は優しい子だから」
きっと書きながら、いくつもの涙を、ノートに落としていたのだろう。
「でも、あなたに出会ってから、やっと明日のことを、書くようになったの」
何冊目かのノートを開いた母親は、嬉しそうに、あるページを俺に見せてくる。
「ほら、ここ。あの子にとって、あなたに会えることが、未来につながってたの。ありがとう、あの子を救ってくれて」
俺だって知らなかった。
先輩がこんなに辛い思いを抱えていたなんて。




