表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/34

28 楽しい人生

「わかってんだろ。川に落としたブドウは、二度と戻ってこない。いくら川を覗き込んで待っていたところで、意味なんてない」


 おっさんは、柔らかい表情から、すっと険しい目つきになった。


「助けられなかったのは、オレだって同じだよ。でもお前はまだ、生きてるんだろ。これから新しい未来があるんだろ」


 立ち上がったおっさんは、俺の前に来た。

 じっと見つめてくるその瞳は、家族の大黒柱だったことのある、強い男のものだった。


「オレたちの代わりに、楽しい人生、送ってくれよ。お前が生きてて良かったって、思わせてくれよ。お前が笑ってくれなきゃ、オレたちは、死んでも死にきれないんだよ」


 胸ぐらを掴まれた。


「オレはお前になれないし、お前もオレにはなれない」


 おっさんは、当たり前のことを、当たり前に言う。

 なのに、そんな簡単なことも、今の俺はわからなくなっていた。


「自分の人生しか歩めないんだから、諦めろ。ちゃんと今を生きろ。わかるだろ」


 体を強く揺すられる。


「オレの娘が好きになった男は、こんな情けない男だったのか。違うだろ」


 おっさんの目には、涙が浮かんでいた。

 俺もまた、同じように涙で、前が見えなくなっていた。


「何度も死にたがって、こっちの世界に来ようとされても、迷惑なんだよ。ふざけんな」


 自分よりも辛い思いをした人に、こんなことを言わせるなんて、俺はなんて、だらしないんだろう。どうしようもないクズだ。


「贅沢言うな。生きろよ」


 これまでの間、どれだけ心配させたのだろうか。

 どれほどまでに、失望させたのだろうか。


 ずっと俺は、先輩を、父親を、息子になるはずだった少年を、傷つけてきたのだ。


「お父さん、落ち着いて」


 先輩に肩を叩かれて、おっさんは、掴んでいた手を離した。


「すまん、ちょっと熱くなりすぎた」


 二人を見ていた白髪少年は、不機嫌そうな表情で言う。


「さっきは、嫌いとか言って……ごめん」


 しばらく言いにくそうに、目を伏せていた。


「おれだって、まだガキだけど、少しはわかってるつもりだよ。誰だって辛いことが重なったら心が折れるのぐらい知ってるよ」


 何かに怒ってるみたいに、悲しんでるみたいな、そんな表情をしていた。


「だってしょうがないじゃん。しんどいんだもん。痛いんだもん。閉じこもるよ。拒絶するよ。八つ当たりもするよ。周りの人間を傷つけるよ。しょうがないよ。だって辛いんだもん」


 ようやく俺の方を見た。


「でもそれでも、人は立ち上がるよ。なにくそって、負けるもんかって。ふざけんなって。立って前に進むよ。それが人間なんだよ。そういう風に作られているんだから」


 その赤い瞳は、力強かった。


「なのに悲しいからって、ずっと優しい檻に閉じこもっておくのは違うよ。本当は生きてる人間が、こんな世界にずっといるのなんて、やっぱり間違ってると、おれは思うんだ」


 なかなか生意気なことを言いやがる。


「誰だって悲しかったら、立ち止まってしまうかもしれない。もう生きていたくないと、思う人もいるかもしれない。でもそんなに人間は弱くないよ」


 どうやら俺の息子になるはずだった少年は、ずいぶん立派に育っていたようだ。


「死にたいと言ったその口で、腹が減れば飯を食うんだから。それが人間ってやつでしょ。案外しぶといんだよ。ずっとこの世界でいろんな悲しい人を見てきた、このおれが言うんだから、間違いないよ」


 白髪少年は、窓の外に向かって、大きな声で呼びかけた。

 遠くに白いカラスが飛んでいる。


「おい、白い本。聞いてるんだろ。お母さんのそばには、ずっとおれがいるから。それで我慢してよ。この人を、もう解放してあげてよ」


 先輩が白髪少年を、背後から優しく抱きしめる。


「ごめんね。ありがとう。それ、私がお願いしなくちゃ、いけないやつだね」


 先輩もまた、窓の外を見た。


「もう十分満足したでしょ。可哀想な人を集めて、物語の歯車にして、もてあそんで。これ以上、彼の中に残ってる、私の記憶を汚さないで」


 白いカラスは、何も答えず、ただ空を飛んでいる。

 おっさんは、白いカラスをじっと見つめている。


「無駄みたいだな。やっぱ、あっちの世界に残ってる白い本を、すべて燃やさないと、ダメってことなのかもしれないな」

「すべて燃やすって」


 俺は、放課後の教室で聞いた、先輩の話を思い出していた。


「確かその白い本って、出版する前にすべて処分されたのに、なぜか図書室に出現するって話じゃなかったでしたっけ」


 あの日、俺が聞かされた先輩の話が、ホラ話じゃなければ、だが。


「しかも、いくら燃やしても、白い本は復活するって、先輩が言ってた気がするんですが」

「私、そんな話まで、君にしたことあったっけ?」


 先輩は不思議そうに、首を傾げている。

 可愛いすぎるから、やめろそれ。


 俺の心の声が、聞こえているであろう白髪少年が、俺の方をギラリと睨んだ。


 うるせー。自分の彼女を、心の中で可愛いって言って何が悪い。

 まだ下の毛も生えてないような、ガキにはこの気持ちは、わからないだろうけどな。


「それ、セクハラだからな」


 白髪少年は、プイッとそっぽを向いた。

 やばい。さらに嫌われた。


 先輩は、俺と白髪少年の顔を見比べて、不思議そうにしている。


「セクハラがどうかしたの?」

「な、なんでもないから」


 おっさんが、ニヤニヤしている。

 そのお見通しですみたいなの、やめろ。


「この世界に来る前に、先輩が俺に話してくれたんですよ。白い本はいくら処分しても、蘇ってくるって」

「おかしいな。私、死んでからずっと、こっちの世界にいるんだけど……あっ」


 先輩は何かに気づいたように、手をポンと叩いた。


「たぶんそれ、私の偽物かも」

「偽物?」


「白い本が、よくやる手口らしいよ。本の中に取り込みたい人間が、一番会いたいであろう人の姿になりすまして、言葉巧みに誘惑するんだって」


 確かに俺は、まんまと騙されたわけだ。

 情けなくて涙が出る。


「まぁ今ここにいる私だって、本当は死んでるんだから、偽物のようなものだけど」


 悲しげな表情を見せた先輩だが、ふいにニコニコしながら、俺のことを見た。


「でも、ちゃんと私のこと、一番会いたい人だと、思ってくれたんだね」


 やめろ。顔近いし。

 その顔、可愛すぎるから。あー抱きしめてぇーよー。


 ふと横を見ると、また白髪少年に睨まれていた。


「悪かった。気をつけます」

「何謝ってんの?」


 先輩が怪訝そうな顔をしている。


「なんでもないです」


 言えるかっ。抱きしめたいと思ってましたとか。

 むちゃくちゃ、ぎゅっとしたくて、たまんねーよとか。


 って、しまったっ。恐る恐る白髪少年のほうを見る。


「もういい。勝手にやってろよ」


 むちゃくちゃ、怒ってる。

 もうダメだ。俺は最低のクズ人間だと思われてる。


 何かを察したおっさんが、俺の肩をポンポンと叩く。

 やはり父親になったことのある男には、何か通じるものがあるのだろうか。


 確かに、何も言わなくても、わかってもらえるのは嬉しいが、わかって欲しくないという、複雑な気持ちでいっぱいだ。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ