28 楽しい人生
「わかってんだろ。川に落としたブドウは、二度と戻ってこない。いくら川を覗き込んで待っていたところで、意味なんてない」
おっさんは、柔らかい表情から、すっと険しい目つきになった。
「助けられなかったのは、オレだって同じだよ。でもお前はまだ、生きてるんだろ。これから新しい未来があるんだろ」
立ち上がったおっさんは、俺の前に来た。
じっと見つめてくるその瞳は、家族の大黒柱だったことのある、強い男のものだった。
「オレたちの代わりに、楽しい人生、送ってくれよ。お前が生きてて良かったって、思わせてくれよ。お前が笑ってくれなきゃ、オレたちは、死んでも死にきれないんだよ」
胸ぐらを掴まれた。
「オレはお前になれないし、お前もオレにはなれない」
おっさんは、当たり前のことを、当たり前に言う。
なのに、そんな簡単なことも、今の俺はわからなくなっていた。
「自分の人生しか歩めないんだから、諦めろ。ちゃんと今を生きろ。わかるだろ」
体を強く揺すられる。
「オレの娘が好きになった男は、こんな情けない男だったのか。違うだろ」
おっさんの目には、涙が浮かんでいた。
俺もまた、同じように涙で、前が見えなくなっていた。
「何度も死にたがって、こっちの世界に来ようとされても、迷惑なんだよ。ふざけんな」
自分よりも辛い思いをした人に、こんなことを言わせるなんて、俺はなんて、だらしないんだろう。どうしようもないクズだ。
「贅沢言うな。生きろよ」
これまでの間、どれだけ心配させたのだろうか。
どれほどまでに、失望させたのだろうか。
ずっと俺は、先輩を、父親を、息子になるはずだった少年を、傷つけてきたのだ。
「お父さん、落ち着いて」
先輩に肩を叩かれて、おっさんは、掴んでいた手を離した。
「すまん、ちょっと熱くなりすぎた」
二人を見ていた白髪少年は、不機嫌そうな表情で言う。
「さっきは、嫌いとか言って……ごめん」
しばらく言いにくそうに、目を伏せていた。
「おれだって、まだガキだけど、少しはわかってるつもりだよ。誰だって辛いことが重なったら心が折れるのぐらい知ってるよ」
何かに怒ってるみたいに、悲しんでるみたいな、そんな表情をしていた。
「だってしょうがないじゃん。しんどいんだもん。痛いんだもん。閉じこもるよ。拒絶するよ。八つ当たりもするよ。周りの人間を傷つけるよ。しょうがないよ。だって辛いんだもん」
ようやく俺の方を見た。
「でもそれでも、人は立ち上がるよ。なにくそって、負けるもんかって。ふざけんなって。立って前に進むよ。それが人間なんだよ。そういう風に作られているんだから」
その赤い瞳は、力強かった。
「なのに悲しいからって、ずっと優しい檻に閉じこもっておくのは違うよ。本当は生きてる人間が、こんな世界にずっといるのなんて、やっぱり間違ってると、おれは思うんだ」
なかなか生意気なことを言いやがる。
「誰だって悲しかったら、立ち止まってしまうかもしれない。もう生きていたくないと、思う人もいるかもしれない。でもそんなに人間は弱くないよ」
どうやら俺の息子になるはずだった少年は、ずいぶん立派に育っていたようだ。
「死にたいと言ったその口で、腹が減れば飯を食うんだから。それが人間ってやつでしょ。案外しぶといんだよ。ずっとこの世界でいろんな悲しい人を見てきた、このおれが言うんだから、間違いないよ」
白髪少年は、窓の外に向かって、大きな声で呼びかけた。
遠くに白いカラスが飛んでいる。
「おい、白い本。聞いてるんだろ。お母さんのそばには、ずっとおれがいるから。それで我慢してよ。この人を、もう解放してあげてよ」
先輩が白髪少年を、背後から優しく抱きしめる。
「ごめんね。ありがとう。それ、私がお願いしなくちゃ、いけないやつだね」
先輩もまた、窓の外を見た。
「もう十分満足したでしょ。可哀想な人を集めて、物語の歯車にして、もてあそんで。これ以上、彼の中に残ってる、私の記憶を汚さないで」
白いカラスは、何も答えず、ただ空を飛んでいる。
おっさんは、白いカラスをじっと見つめている。
「無駄みたいだな。やっぱ、あっちの世界に残ってる白い本を、すべて燃やさないと、ダメってことなのかもしれないな」
「すべて燃やすって」
俺は、放課後の教室で聞いた、先輩の話を思い出していた。
「確かその白い本って、出版する前にすべて処分されたのに、なぜか図書室に出現するって話じゃなかったでしたっけ」
あの日、俺が聞かされた先輩の話が、ホラ話じゃなければ、だが。
「しかも、いくら燃やしても、白い本は復活するって、先輩が言ってた気がするんですが」
「私、そんな話まで、君にしたことあったっけ?」
先輩は不思議そうに、首を傾げている。
可愛いすぎるから、やめろそれ。
俺の心の声が、聞こえているであろう白髪少年が、俺の方をギラリと睨んだ。
うるせー。自分の彼女を、心の中で可愛いって言って何が悪い。
まだ下の毛も生えてないような、ガキにはこの気持ちは、わからないだろうけどな。
「それ、セクハラだからな」
白髪少年は、プイッとそっぽを向いた。
やばい。さらに嫌われた。
先輩は、俺と白髪少年の顔を見比べて、不思議そうにしている。
「セクハラがどうかしたの?」
「な、なんでもないから」
おっさんが、ニヤニヤしている。
そのお見通しですみたいなの、やめろ。
「この世界に来る前に、先輩が俺に話してくれたんですよ。白い本はいくら処分しても、蘇ってくるって」
「おかしいな。私、死んでからずっと、こっちの世界にいるんだけど……あっ」
先輩は何かに気づいたように、手をポンと叩いた。
「たぶんそれ、私の偽物かも」
「偽物?」
「白い本が、よくやる手口らしいよ。本の中に取り込みたい人間が、一番会いたいであろう人の姿になりすまして、言葉巧みに誘惑するんだって」
確かに俺は、まんまと騙されたわけだ。
情けなくて涙が出る。
「まぁ今ここにいる私だって、本当は死んでるんだから、偽物のようなものだけど」
悲しげな表情を見せた先輩だが、ふいにニコニコしながら、俺のことを見た。
「でも、ちゃんと私のこと、一番会いたい人だと、思ってくれたんだね」
やめろ。顔近いし。
その顔、可愛すぎるから。あー抱きしめてぇーよー。
ふと横を見ると、また白髪少年に睨まれていた。
「悪かった。気をつけます」
「何謝ってんの?」
先輩が怪訝そうな顔をしている。
「なんでもないです」
言えるかっ。抱きしめたいと思ってましたとか。
むちゃくちゃ、ぎゅっとしたくて、たまんねーよとか。
って、しまったっ。恐る恐る白髪少年のほうを見る。
「もういい。勝手にやってろよ」
むちゃくちゃ、怒ってる。
もうダメだ。俺は最低のクズ人間だと思われてる。
何かを察したおっさんが、俺の肩をポンポンと叩く。
やはり父親になったことのある男には、何か通じるものがあるのだろうか。
確かに、何も言わなくても、わかってもらえるのは嬉しいが、わかって欲しくないという、複雑な気持ちでいっぱいだ。




