27 血は争えない
「すみません。守ってあげられなくて……」
ちゃんと声も出る。涙を拭くための手がある。
どうやら知らぬ間に、俺は人間の姿に戻っていたようだ。
「やっと思い出してくれたみたいだな」
そういうことだったのか。
俺はずっと何も知らずに、ずっと。
おっさんの手には、白い本が握られている。
「この白い本ってやつは、人間が物語を求めるように、物語もまた、人間の感情を欲するようになってしまったみたいでな」
「物語が、人間の感情を?」
「中でも、より寂しさを、より悲しみを、人間のどす黒い感情を、好んで欲しがるように変異してしまったらしい」
手の平の白い本が、白いカラスへと変貌し、窓から夕焼け空へと、飛んで行った。
「だから、悲しい人の前に、あの本は現れる。お前みたいな奴のところにな」
おっさんは、俺の胸を、トンと指でついた。
「この世界に人間を取り込んで、より絶望させて、その悲しみを餌にするために。ずっと人間を捉えて、悲しみの奴隷にしようとしてるんだ」
ちょっと格好いい感じで、窓の外を眺めるおっさんを、先輩が不服そうに見ている。
「モブのくせに、重要な台詞を言うとか、生意気だと思います」
「こういうのは年配者の仕事なんだよ。つーか、親に向かって、モブのくせにとか言うなよ。泣きたくなるだろっ」
おっさんは、必死に親の威厳を保とうとしているが、失敗に終わっていそうだ。
俺を見たおっさんは、にっこりと笑う。
「で、お前もその、被害者の一人だってことだな」
「……みたいですね」
そうだ。すべては、俺の心が弱かったからだ。
「オレの娘が作り出した『異世界放課後』って本は、作者の手を離れて、勝手に分裂し、人を食らう白い本となって、増殖を続けているらしい」
「増殖って、そんな」
「今もなお、悲しみのあまり、死にそうな人間の前に、こっそり近づいて、別の本に擬態して、うっかり読んでしまった人間を、白い本の世界に取り込んでしまうって寸法だ。迷惑な本だろ」
窓から見える街のあちこちに、白いカラスが飛んでいるのが見えた。
街中を歩く人々の元に、舞い降りた白いカラスは、再び白い本に姿を変えて、その手の平に収まった。
遠くに見える大きな建物が、また一つ、ねじれながら地面に吸い込まれていった。
その様子を見ていたおっさんは言う。
「いくらお前が記憶を思い出しても、世界の崩壊は止まらないみたいだな。一度壊れ始めたら、ダメってことなのかもな」
おっさんは、俺の目をじっと見た。
うっかりブドウを川に落としてしまって、覗き込んでいるキツネみたいな、そんな悲しい目をしていた。
「やっぱり、お前がこの世界に残っていると、この本は、絶対に終わらないんだと思う。だから頼むよ。現実世界に戻ってくれ。頼むから、今を生きてくれ」
「でも……戻るって、どうやって」
もし戻ってしまったら、もう二度と先輩には会えない。
ここにいたら、ずっと先輩と一緒にいられるんじゃないのか。
「また始まったよ」
声のするほうを見ると、いつの間にか、教室に入ってきていた白髪少年が、斜め前の机の上に、ドカッと座ってきた。
「この人、グダグダしょーもないこと、まーた考えてるよ」
って、人の心を勝手に読むなっ。
「しょうがないだろ。おれは特別なモブなんだから」
白髪少年は、偉そうなドヤ顔を向けてくる。
むかつく奴だな。つーか、お前は誰なんだよ。
「まだ、わかんないの? 本当におバカさんなんだね」
だから、いちいち俺をディスるなっ。
「こんなバカでみっともないやつが、おれの父親とか、本当に勘弁してほしい」
「は?」
今、父親って言ったか?
「耳、悪いの?」
「いや、え、どういう」
白髪少年が、先輩のことをちらりと見た。
「この人が、生むはずだった息子だよ」
「えぇーっ」
おいおいおい。ちょっと待て。
「普通なら感動のご対面とか、そういうパターンなんだろうけど、おれ、絶対、無理だから。あんたのこと嫌いだし」
よりによって、この白髪少年が息子だなんて。
聞いてねぇよ。
「言ってないけど、普通は気づくでしょ? しっかりしてくれよ」
まさか俺は、自分の息子から、何回も夕飯をくすねていたのか。どんだけクズ親だよ。
あまりに悲しすぎて、俺だって、感動のご対面なんかできるか、ハゲ。
「今さら、父親面されても困るけど。そもそも、この世界で、父親代わりに、おれを育ててくれたのは、このおっさんだし」
白髪少年はおっさんを指差した。
「目上の人間を指さすな。つーか、いい加減、おっさんって言うのやめろ」
「じゃあ、おじいちゃん」
「……おっさんでいい」
おっさんはムッとした顔をする。
くそっ、俺を差し置いて、仲良くしやがって。こんちくしょー。
俺だって、父親と息子みたいなこと、いっぱいしたかったんだぞ。
息子にサッカー教えて、一緒に試合とか、いろいろしたかったんだからな。
「つーかお前も、最初っから、オレのことを監督じゃなく、おっさん、おっさんって言い続けてたよな。本当にマジで失礼なやつらだな、お前ら」
なんだとー。失礼なやつとか言われても、おっさんは、おっさんだろう。
ムカついたから、思わずアホーと鳴きそうになった。
だがもう、今の俺はカラスじゃない。
「バカじゃないの」
白髪少年が、吹き出すように笑っている。
あーもう、なんだよ。笑ったらやたらと可愛くなるのは、先輩にそっくりじゃないか。
どうして気づかなかったんだ。まったくもって、俺は大バカ野郎だ。
「やっと気付いたの。本当におバカさんだ……んが」
白髪少年が先輩に口を塞がれた。
「ごめんね。この子、ちょっと口が悪いみたい。誰に似たんだろうね」
暴れる白髪少年を、押さえ込んでいる先輩が、苦笑いをする。
「血は争えないってこったな」
おっさんはニヤニヤと、俺たちを見ている。
「とはいえ、そろそろ家族ごっこも終わりだ」




