23 焦っているカラス
「まぁまぁ、そう追い詰めなさんな。何事にも順序ってやつがある。無理やりこじ開けようとしたって、無駄ってことだ。きっかけが必要なんだよ、きっと」
おっさんが、白髪少年の肩をポンポンと叩く。
「で、話を戻すけどさ、寝るのが気持ちいいってやつ。やっぱそれは、意識がなくなるからだよな」
なんだこいつ。俺の抗議は無視か。
どんだけ自分勝手なんだ。
どいつもこいつも人間ってやつは、なんでこんなに身勝手なんだ。いい加減にしろよ。
「なんか怒ってるみたいだよ」
「まぁ、黙って聞けよ。人間ってやつは、誰だって毎日心配しすぎだ。頭がパンクするぐらいにな」
白髪少年の通訳も無視して、おっさんは、自分の頭を指差した。
「明日のテストどうしよう、学校や会社に行きたくない、どんなに些細なことでも毎日のように、悩んで面倒臭くて、しぶしぶ嫌なことをこなしてる。そういう面倒ごとから、すべて解放されるのが、意識がなくなる瞬間だ」
おっさんは胸に手を当て、眠ってるみたいに、目を閉じる。
「でも寝てる時だけじゃない。起きてるのに意識をなくす方法がある。それが物語だ」
目を開いたおっさんは、コートのポケットから、白い本を出した。
ただの本なのに、なぜだかゾワッと、毛が逆立った。
よくわからないが、あれは、危険なものだ。そう体が認識しているようだ。
「物語に夢中になってる瞬間は、人は意識が飛んでいるようなものだ。自分ではない誰かになり、ここではないどこかに立っている」
おっさんは本をかざすように、片方の手を空に向けて、まっすぐに伸ばした。
「時間も空間も超えて、自分ではない人生を歩んでいる。その瞬間が気持ちいい。だからこそ人間は物語が大好きだ」
おっさんは、こちらを見て、ニヤリと笑う。
「自分じゃなくなるっていうのは、麻薬みたいなものだ。責任がないからな。楽なんだよ。それに慣れると、現実がしんどくなる」
白い本を、パラリ、パラリとめくっていく。
おい、やめろ。その白い本は。
いや、待て。なんで俺は、こんなに焦っているんだ。
「現実みたいな、やり直しのきかないゲームなんて、面倒臭いだけだからな。しかも、嫌だと思ってもやめられない。勝手に始まってたくせに、自分で降りることはゆるされない。そんな強制的な人生なんて、ただのクソゲーだ」
ページをめくるごとに、おっさんが、少しずつ黒い水に埋もれているように、コートだけが濡れていった。
「どうしても生きるのが向いてない人もいる。何をやっても上手くいかない人、頑張っても頑張っても報われない人、何もしていないのに不幸に見舞われる人、いろんな生きること自体がしんどい人がいる」
やめてくれ。
それ以上はもう、やめてくれ。
「しんどい現実に比べたら、物語の中は楽なもんだ。嫌だったら、読むのをやめればいい。見るのをやめたらいいだけだ」
おっさんは、白い本を空高く、投げ飛ばした。
だがその手には、また新しい白い本が握られている。
「本の中は、過去も未来も自由自在だ。本を読んでいる人が、どの時代でも、どの場所にでも飛んでいける。自分が好きな物、楽しい物、選り好みをして、吐き捨てるように、物語を消化すればいい」
白い本を何度捨てようとも、空から落ちてくるようだ。
明らかに、この世界は狂っている。
それは間違いなかった。
「現実に満足していない人ほど、得てして物語を強く欲する。ここではないどこかに、自分ではない誰かに、今とは違う時間軸で、違う何かになっている時だけが、救いの時間になってるような人がいるだろ」
それは俺だ。
いや、俺ではない。
頭の中が、ぐるぐると回っているみたいに、めまいに襲われる。
「でも時々いるんだ。いくら物語の力を持ってしても、救えないほどに深い悲しみに満ちた人が。あともう一歩で、暗闇に足を突っ込みそうになってる人が」
おっさんは、首元まで黒い水に溺れているみたいに、コートだけが濡れていた。
「そういう人を救いたくて、あいつは、この場所を作ったつもりだったんだ」
あいつって、誰だ。
この場所を作ったって、どういうことだ。
「ずっと自分ではない、何かになれる、偽物の世界を。同じ物語を読んでいるはずなのに、それぞれが違う物語を頭に思い浮かべて、誰もが幸せになれる不思議な物語の世界を。なのに、それを白い本が利用した」
おっさんが、両手を広げると、その手の上には、何十冊、何百冊という、白い本が積み上がっていく。
「あの白い本は、匂いを嗅ぎ取るんだよ。死にたがっている人間の匂いを」
白い本は、空高く見えなくなるほどに、増殖を続けていた。積み上げられた本が、まるで鳥が羽ばたくみたいに、浮かび上がっていく。
「苦しんで、辛くて、前にも後ろにも進めず、立ち尽くすしかなくなっている人間が、声にならない叫び声を上げているのを、あの本は見つけ出す」
空中にヒラヒラと浮いていた白い本たちが、白いカラスに姿を変えて、空に飛んでいく。
「この世界においでと、手招きをする。吸い寄せられるように、本当は読むつもりなんてないのに。夢中でその本を読まされている。気がついたらもう、そいつがいるのは、彼女が作った、この異世界の中だ」
街行く人が、皆、白い本を読み漁っている。
まるであの日の、俺のように。
俺は、あの時、何をした。
夕日が見える、あの場所は、どこだ。
「悲しんでいる人が、死んでしまわないように。永遠に終わらない物語の中に、閉じ込めてしまうんだ」
誰もいない廃墟と化した、あの場所に行ったのは、なぜだ。
頭が痛い。割れるように痛くて、目を開けていられない。




