22 ムカついたカラス
「たまにいるんだ。こういうやつが」
いつの間にか、背後に立っていたのは、白髪少年がいつも、おっさんと呼んでいる、黒いフード付きのコートを着た男だ。
「本に食われたショックで、ごっそり記憶を封印しちゃうやつが」
記憶を封印って、どういうことだ。
「無意識のうちに、辛い記憶を、何もかもなかったことに、しようとしてるんだろうな。現実逃避ってやつだ」
黒いフードを脱いで、丸い黒メガネをはずすと、男は白髪少年と同じような、真っ白な髪と、赤い瞳をしていた。
「知ってるか。物語ってのは、帰る場所があってこそ、楽しめるもんだ。片道切符の物語なんて、つまんねぇんだよ。ここはお前の物語じゃない。だから、この世界に、あんたはお呼びじゃないってことだ」
お前の物語じゃないとか、お呼びじゃないって言われても、そんなこと知るか。
気が付いたら、俺はこの世界にいて、カラスとして生きてきただけだ。
どうしろっていうんだ。
「カラスになってからの、夫婦ごっこは楽しかったか?」
夫婦ごっこだと?
俺たちのことを、バカにしてんのか。
「そろそろ自分の世界に、帰ってくれないか。あんたが残ってると、この世界が、どんどん暴走するんだ。ほら、街の向こう側、崩壊しかけてるだろ」
おっさんは、夕日が沈みかけている、西の方角を指差した。
大きな鉄塔が、ぐねぐねと折れ曲がるように小さくなって、消えていった。
あんな現象、ありえない。
一体、何が起こっているのか。
「きっと白い本は、念願のお前が、この世界にやってきて、衝動を抑えられなくなってるんじゃないかな。せっかく手に入れたのに、あんたが何もかも忘れてるせいで、思い通りにならないから絶望してやがる。この世界にあんたを閉じ込めて、この世界ごと、心中しようとしてるのかもしれない」
世界ごと、心中?
こいつは一体、何の話をしているんだ。
「すでに戻る場所のないオレたちは、この世界でしか生きられない。なのに迷惑なんだよ。お前のせいで、こんな不本意な形で、崩壊なんかされたら。どうせ終わるなら、安らかに終わりたかったのに。お前と心中なんて、まっぴらだ。だから、いい加減、目を覚ましてくれよ。役立たずの王子様」
役立たずという言葉が、必要以上に心に刺さる。
心がざわついて、無意識のうちに、カァカァカァと警告するような鳴き声を出していた。
「あぁ、悪い。オレはこいつと違って、動物の言葉はわからないんだ。そこまで特別なモブってわけじゃないらしい。まぁ悲しいかな、オレはその程度の扱いなわけだ」
おっさんは、苦笑いを浮かべる。
「そりゃオレは、嬉しかったよ。こっちの世界では、お前ら二人が、カラスとはいえ夫婦になって、子供まで作ってさ。あっちでは見られなかったからな。その点は良かったと思う」
急に何かを思い出したように、おっさんがこちらを睨みつける。
「つーか、どこまでラブラブなんだよ。見せ付けやがって。まったくお前らは。白昼堂々、交尾を見せつけられる、オレの身にもなれ」
は? 勝手に覗き見しておいて、なんだその言い草はっ。
白髪少年が吹き出すように笑う。
「おっさん、こいつ、勝手に覗き見しておいてって、怒ってるよ」
「知るかボケっ」
えぇー、なんで俺が逆ギレされてんだよ。
納得がいかねぇ。
遠くに見えている大きな建物が、また一つ、ねじれながら倒壊して消え去った。
おっさんが、西の方角を見つめている。
「もうすぐ、夜が来る。いつもは、日が暮れる頃には、崩壊が止まってたのに、今日はむしろ、崩壊のスピードが上がってるな。このペースだと、朝になるまで、この世界が持つかどうか、怪しいところだ」
沈みかけていた夕日が、完全に姿を消し、あたりは暗闇に包まれた。
路地裏の街灯や、店先の看板に、徐々に明かりが灯される。
かすかな光を反射して、白髪少年と、おっさんの赤い瞳は、より光っているように見えた。
「この世界も、そろそろ本格的に、おねむってことかな」
苦笑いを浮かべたおっさんは、両腕を上げて伸びをすると、大きなあくびをした。
「やっぱ寝るのって、気持ちいいよな」
急に何の話をしているんだ。また下ネタかよ。
「おっさん、また下ネタの話かよって、つっこまれてんぞ」
白髪少年が通訳をするみたいに、おっさんに伝える。
「アホか。そっちじゃなくて、純粋な睡眠のほうに決まってんだろ。そういう連想するやつのほうが、頭の中が汚れてるって知らないのか」
うるせぇな。いちいち、余計なことは言わなくてもいいだろ。一言多いなこいつ。
だからガキに舐めた態度、取られるんじゃないのか。
「あ、お前、今、オレのことバカにしただろ。カラスの言葉はわからなくても、そういうのはわかるんだからな」
おっさんが、ムッとした表情をみせる。
バカにはしてない。だが、ムカついたから、今からバカにしてやる。
アホーと一声鳴いておいた。
おっさんは、吹き出すように笑った。
「本当にお前、最高だぜ。そういうすぐにムキになるところ」
別にムキになんてなってない。
断じて、絶対に。
俺は冷静だ。
「変わってないな。試合中も、すぐに汚いラフプレーをしてくる相手にムカついて、テンション上げまくってさ」
おっさんは急に両手を挙げて、ガオーッと言っているような身振りをする。
「お前、卑怯なことをするやつ、大嫌いだったもんな。そういうやつを見ると、逆に燃えるみたいでさ、自分のチームにひどいことをするやつは許さねぇ、みたいなそういうやつ」
足を蹴り上げて、おっさんはガッツポーズを決めている。
「そのおかげで、逆上して、キレッキレになったお前のシュートで、何回もうちのチームは救われたよな。監督としては、お前みたいな選手がいると、助かってたよ」
シュートだ、チームだ、試合だって、何の話だよ。
俺はお前なんかを、助けた覚えはないのだが。
おっさんが、白髪少年をちらりと見る。
「こいつから聞いたんだけどさ、お前、オオタカ相手に、戦闘機同士のドッグファイトみたいなのをやってたんだってな」
思い出したくもない。あんなのは若気の至りによる、ただの黒歴史だ。
「やっぱお前、生まれながらのストライカーだなって思ったよ。まぁやられちゃったらしいけど。無鉄砲なところは相変わらずだな」
うるせーな。傷をえぐるようなこと言うなよ。
やっと忘れかけてきたところなのに。
つーか、ドッグファイトってなんだよ。俺はカラスだぞ。ふざけんな。
「あーまた試合やりてーな。無理だけど」
おっさんは、遠い目をしている。
それを見た白髪少年が言う。
「そんなにやりたいなら、あの人にお願いして、サッカーできる人を、いっぱい呼んでもらえばいいんじゃない」
「ばーか。ただでさえ、あっちの世界は、今大変なんだぞ。貴重な選手を、これ以上犠牲にできるか。冗談でもそういうことは言うな」
「……わかったよ」
白髪少年はふてくされたように、横を向く。
こいつらは何の話をしているのか。
用がないなら、俺は帰るぞ。
夜更かしが大好きな、お前ら人間とは違って、俺たちカラスは日が暮れたら、寝床に帰るのが、当たり前なんだからな。
それに、さっきから体がなんかおかしいんだ。頭が痛くてしょうがない。
きっと疲れてるんだ。とっとと眠って、体を休ませないと。
俺が飛び立とうとすると、白髪少年が声をかける。
「お前のせいで、この世界がこんなことになってるのに。逃げるのか」
逃げるもなにも、ただ寝ぐらに帰るつもりなんだが。
「今帰ったら、一生後悔するぞ。いいのか、それで」
一生後悔するって、何をだ。
白髪少年はまっすぐ、俺を見つめている。
「あんたさ、せっかく手に入れた幸せを、自分で壊しちまっただろ。いくら助けようとしても、必ず不幸になろうとする。おかげでこの世界の主人公様は、絶賛、意気消沈中だよ。そのせいで、この世界は崩壊寸前なんだよ」
は? あのわけのわからない現象が、全部俺のせいだっていうのかよ。
「そうだよ。だからそうだって、さっきから言ってるじゃん」
いつの間にか、白髪少年に責められてる。
どうしてこうなった。
あまりにムカついたから、アホーと鳴いて抗議した。