4 「変化熊は、駆除するきまりだ」
靴を脱ぎ、がらりと戸を開けて阿津麻が部屋に姿を現した。
室内に魔道士の姿を認めると、阿津麻の顔色が変わった。誰だと問うことも、事情を訊ねることもしなかった。
阿津麻は恐怖にかられた様子ですぐさまきびすを返し、靴も履かずに外に逃げだそうとした。
けれども魔道士が何かつぶやいてさっと手を突き出した途端、阿津麻の大きな身体はひとりでにどたん!と倒れた。
倒れた阿津麻の全身に、虹色に光る蛇のようなものが絡みついていた。
「な、何をするんですか!?」
佳澄は驚いて叫んだ。
「変化熊だ」
魔道士は冷静に告げた。
倒れた阿津麻は蛇のようなロープのようなものに身体を締め上げられ、うめき声をあげながらそれを引きちぎろうともがいている。
「違います!この人は変化熊なんかじゃありません!」佳澄は叫んだ。
「違わない」魔道士は言う。
「違うことだってありえます、そうでしょう!?」佳澄は叫ぶ。
――もちろん、ないとは言い切れない。
先程までと同じように、今度も魔道士はそう答えてくれるものだと、そう佳澄は思った。
けれども魔道士は断言した。
「『これ』は間違いなく、変化熊だ」
阿津麻に巻き付いているロープのようなものは、いったん光を失って黒っぽいただのロープのようになっていたが、阿津麻が動きをやめないでいると再び光を放ち始め、鎖のようなものに変化した。
さらに強く締め上げられながら、それでも阿津麻は鎖をガチャガチャと言わせ、床の上で何とか逃れようとあがき続けている。
「何かそういう体質の人がいるのかも」
佳澄は訴えた。
「ありえない」
魔道士は短く言い捨てる。
「誰か悪い人がこの人に変な魔術をかけたのかも」
佳澄はなおも訴える。
「ありえない」
魔道士は繰り返す。
「変化熊はきっと別にいて」
それでも佳澄は訴える。
「ありえない」
魔道士は佳澄のすべての言葉を否定しながら、冷ややかな目で阿津麻を見下ろしていた。
床に転がった阿津麻のこめかみや首筋には太い血管が浮き上がっている。
逞しい身体に鎖はますます食い込み、それでもなお抗い続けようとする阿津麻の喉からは、「ぐ、ご、がへ」と苦しげな音が漏れ始めた。
その口からはよだれが流れ、剥いた白目からは涙があふれ出している。
「もうやめて!」
佳澄は阿津麻の元に駆け寄ろうとした。
が、そのとたん、ぐん、とゴムに引っ張られるようにして室内に戻されてしまった。
見ると佳澄の腰の辺りにも細いロープのようなものが巻き付いていて、その端は部屋の奥の柱に結びつけられている。
「・・・・・・その拘束はもがけばもがくほどきつく締まる。暴れない方が身のためだ」
ひゅーひゅーと苦しげな息を繰り返す阿津麻に向かって魔道士は言った。
「うそ、嘘です。そんなはずない。だって私は二年も・・・・・・熊に変身するようになったその人と二年も一緒に暮らしてたんです。その人が阿津麻じゃないなんて、人間じゃないなんて、そんなの絶対間違いです!」
佳澄は部屋の中に座り込んだまま、泣きながら訴えた。
阿津麻が熊に変身するのを佳澄が目撃したのは、結婚してからまだ一年も経っていない頃だ。
佳澄が夫婦として暮らした相手は、ほぼ今の、「熊に変身する」阿津麻なのだ。
二年の間に、思い出話だって幾度となくしたことがある。
幼い頃はそんなに親しくはなかったけれど、だからこそ、同じ出来事について話をするのは楽しかった。ある年の祭りで起きた事件の話や、長老の孫が生まれた時のエピソード。
それに、付き合い始めたばかりの頃のことだって、ふとした拍子に語りあうことはよくあった。
初めて一緒に出かけて見た花火のことだとか、初めてふれあった日のことも。
違和感を覚えたことなんて一度もない。
すべて間違いなく、阿津麻は阿津麻として、全部を知っていた。
なのにその阿津麻が偽物だなんて、そんなことがあるだろうか?
しかもその偽物が、本物の阿津麻を殺していた、なんて。
そんなこと、ありえるんだろうか?
「・・・・・・殺す・・・・・・んですか?『その人』を・・・・・・」
佳澄は魔道士に訊ねた。
「『変化熊』は駆除するきまりだ」
「ちがっていたら、あなたは人殺し」
「ちがっていたらな」
戸口のところに立ったまま冷やかにそう言い捨てた魔道士は、先程まで佳澄にいろいろ親切に説明してくれた魔道士とは別人のようだった。
これまで佳澄がたった一人で誰にも相談できずに抱えていた問題をもしかしたら解決してくれるかもしれない、ついさっきまでそんな風に信じていた自分が、今となってはあまりにも愚かで、情けない。
「世の中には絶対なんてない。あなたは凄い魔道士なのかもしれないけれど、間違える可能性だってある」
佳澄は言った。
ふ、と魔道士は鼻で嗤ったようだった。
そのまま佳澄の方に向かってゆっくり歩いて近づいてくる。
怒ったのかもしれない。
腰に魔術のロープを巻かれて動けずにいる佳澄の喉元に、魔道士は手を伸ばした。
丸く開かれた手のひらが、佳澄の白い首筋に触れるか触れないか、というところでいったん止まる。
魔道士は、阿津麻が見ているかどうかを確かめるように戸口の方に目をやった。
縛められなすすべもなく転がされながらも赤い目にらんらんと殺意をみなぎらせている阿津麻を確認すると、魔道士はうっすらと残酷そうな笑みを浮かべた。
「・・・・・・おまえの拘束は、数分後には解ける。だが外への扉は開かないようにしておくから、追ってこようとしても無駄だ」
佳澄に向かって魔道士は言った。
結局佳澄に何もせずにすっと手を下ろすと、魔道士は再び戸口の方へと向かった。
さすがに佳澄の目の前で阿津麻を殺すのは気がとがめたのだろうか。魔道士は自分の靴を履くと、
「立って靴を履け」
と阿津麻に命令した。
その途端、阿津麻に巻き付いた鎖のうち、足を縛っていたものだけが消えた。
阿津麻は大人しく従って、魔道士とともに外に出て行った。
たん、と戸が閉じた。
静まりかえった部屋の中に、佳澄は一人残された。