1 愛しい夫の秘密を、知ってしまった妻
山に囲まれた集落の端の家で、その若い夫婦は暮らしていた。
妻の名前は佳澄、夫は阿津麻といった。
佳澄は夫のことが大好きだった。
同じ村で生まれ育って、いつの間にか好きになっていた。
阿津麻は強い。
大柄で体格がよく、その力強い太い腕に佳澄はいつも惚れ惚れする。
さらに性格はとても優しい。佳澄のことを、とても大事にしてくれる。
けれども一つだけ、佳澄には気がかりなことがあった。
夫は熊に変身するのだ。
それは結婚して間もない頃だった。
阿津麻の体調に異変があった。
ふいに苦しそうに胸のあたりを押さえたり、食事の後に吐いたりした。
何かの病気ではないか、と医者を薦めても頑なに拒むので、佳澄は心配でたまらなかった。
そのうち症状は出なくなったので佳澄は胸を撫で下ろしたが、その頃から、今度は妙に精神が不安定になった。
それまではそんなこと一度もなかったのに、何度か佳澄に向かって声を荒らげたりもした。
ある晩、些細なことで腹を立てた阿津麻は外に出かけていき、何時間も帰らなかった。
佳澄はもう阿津麻が戻ってこないのではないかと不安でずっと起きていたけれど、ようやく帰ってきた阿津麻は妙にすっきりとした顔をして、佳澄に詫びた。
それから阿津麻は、以前のように優しい阿津麻に戻った。
ただ、その日から、阿津麻は毎晩外出するようになった。
(もしかして、別の女のところに)
そんなはずはない。佳澄は気にしないように自分に言い聞かせた。けれどもどうしても、毎晩夫がどこに行っているのか気になって仕方がない。他に女ができたことを想像すると、つらくてつらくてたまらない。
それである夜、こっそりと夫の後をつけてみた。
阿津麻は一人、山に入っていった。
ぽっかりと開けた小高い場所まで来ると、阿津麻は服を脱ぎ始めた。
月明かりの下で、阿津麻は全裸になって仁王立ちしていた。
しばらくすると、その身体がぶるぶると震え始めた。
息が荒くなり、やがて耐えきれなくなったようにがくん、と膝をつくと、四つん這いになり、地の底から響くようなうめき声を上げた。
がっちりとした逞しいその身体がみるみるうちに巨大化した。
白い肌から焦げ茶色の毛が噴き出すように生え、あっという間に全身を覆い尽くした。
阿津麻はもはや阿津麻の形をしていなかった。
器用に鉈や小刀を扱う長い指は見る影もなく、ずんぐりとした獣の前足へと変わっている。
精悍ながらも優しげな、佳澄の大好きな顔はなくなって、そこにあるのは表情の見えない黒い鼻の畜生の顔だ。
そこに人間はもういない。
月明かりの下で、夫は一頭の巨大な熊に変身していた。
熊は佳澄に気づくことなく、山の奥へと駆けていった。
佳澄は呆然と一人で家に帰り、考えた。
(他に女ができたのよりは、ずっとよかったではないか。)
佳澄は村から出たことがないし、世の中のことをよく知らない。
きっと、動物に変身する人間というのもいるのだろう。
阿津麻のことは子どもの頃から知っているが、たぶん前はそんなことはなかった。
変身するようになったのはきっと最近だ。
あの体調不良と関係しているのかもしれない。
病気にかかるようにそうなることがあるのかもしれないし、ある年齢になるとそうなる体質などがあるのかもしれない。
(放っておいても大丈夫なのだろうか)
(治す方法はあるのだろうか)
考え始めたらきりがなかった。
知りたいことはたくさんあった。誰かに相談したかった。
けれどもできなかった。
阿津麻は佳澄にさえ、熊に変身することを隠している。誰にも知られたくないのだろう。
そうであるなら、佳澄にできるのは、知らないふりを続けることだけだった。
(一番おそろしいのは、阿津麻を失うことだ)
佳澄は夫が熊になることを知らないふりをして、そのまま暮らした。
毎日、晩になると出かける夫を笑顔で送り出す。それ以外は普通の夫婦と変わらない。
阿津麻は働き者で、強くて優しい。
子どもはいらないと言っていて、それは佳澄も同意していた。
いつまでも、二人で幸せに暮らせたらそれでいい。
いつか夫は、熊に変身するということを自分に話してくれるかもしれない。
そうしたら、治す方法を一緒に考えよう、となるかもしれない。
その時を、気長に待とう。
佳澄はそう思っていた。