4月11日:君が君である為に
その日の三限目は現国で、俺にとっては貴重な読書タイムだった。
「川上、今日は何を読んでるんだ?」
名前もよく知らない現国教師が溜め息混じりに訊いてくる。
「“カラきょう”てヤツです」
「からきょう?カラキョウ……カラマーゾフの兄弟か?」
「はい」
一瞬、教師は感心した様な表情を見せた。
しかし、すぐにそれをわざとらしい咳ばらいで隠す。
ひょっとして、この小説が好きなのだろうか?
「感想は?」
「そうですね……宗教音痴な今の日本人に、この感性が理解出来るんですかね?」
「……それは確かに言えるかもしれんが、作品その物の良さとは関係ないだろう?」
「まあ、そうなんですが……」
「とにかくだ。名作を読むことは偉いが、それを授業中にやる事は感心しないな。今授業でやってる作品も、日本が誇る名作だぞ」
それは知っている。海外留学中の貧乏学生が、現地の踊り子と恋に落ち、散々つくされながらも、最後は降って湧いた良家との縁談に飛びつき、妊娠中の恋人を捨てた酷い話だ。
「はい。……教科書の作品の方で質問があるんですが……」
「何だ?」
「もし、彼がこの時栄達よりも恋人を選んでいたら……この話は名作たりえたんでしょうか?」
教師の首筋に刃を突き付ける気迫で、見識を試す様な意地の悪い問いをぶつける。
さっきは感想を訊いて俺を試したのだ。おあいこだろう。
さて先生、あなたはどう答えますか?
「そうだな……もし彼が恋人を選んでいたら……そもそもこの作品自体、世に出る事は無かったかもしれんな」
驚いた。
何だ、この人も結構ロマンチストなんじゃないか。
「そうですね……僕もそう思います」
思わず素の笑顔でそう応える。
すると教師は自分の発言に照れたのか再び咳きばらいをして、
「とにかく、今は授業に集中しろ。では次……」
と、俺の前から離れていった。
「川上君、さっきのってどういう事なのかな?」
授業が終わるなり、隣の仁科が尋ねてきた。
まあ、事情を知らない人間にはさぞかし謎なやりとりとして映っただろう……。
「ああ、この話な……一説には、作者の実体験がもとになってるんじゃないかって言われてるんだ」
「それって……!?」
「うん。だとすれば、これは……作者の後悔と懺悔だろうな……」
言いながら席を立って背を向ける。
これを書いた作者は、きっと幸せではなかったのだろう。
もっとも、幸せな物書きなんて、居ないんだろうけど……。
「ああ、仁科」
そのまま颯爽とトイレにでも行こうとしたが、思い出した様に立ち止まって尋ねる。
「現国の先生て、名前何だったっけ?」
「え?『菅原』先生だけど……」
「ああ、そうだった……サンキュ」
昼休み、俺は宮沢に会う為に旧校舎の資料室に向かった。
無論、坂上の件を伝える為、そして出来れば今後についても話し合っておきたい所だ。
いかなる戦略を立てるにしろ、彼女の協力無しでは成り立たないだろうからな。
“宮沢を利用する様で心苦しい”などとは思わない。
遅かれ早かれ、坂上がこの学校に居る事は広まるのだ。
遠慮して後手後手に回るくらいなら、先手を打って万全を期す。
それが、結果的にもっとも宮沢にも迷惑をかけないで済む方法だろう。
それに、他ならぬ宮沢のダチと坂上の間に、因縁が無いとも限らない。
どちらにしろ、彼女と色々と話し合っておく必要があるのだ。
……だったのだが……。
『資料室』のプレートの前に立つと、中に人の居る気配を感じた。
宮沢の物だけではない。他に何人か居るのだろう。
つまり、“来客中”という事だ。まったく間が悪い……。
「あっ……はーい。どうぞ」
ノックをすると、ほんの一瞬のラグの後に宮沢の声。
「いらっしゃいませ〜『カテナチオ番長』さん」
扉を開けると、彼女はいつものテーブルからではなく、簡易ガスコンロの前からエプロン姿で出迎えてくれた。
他に人影は無く、代わりに食欲をそそられるイイ匂いがただよっている。
このケチャップの匂いはチキンライスか。
昼時だし、買い置きの冷凍食品を調理しているのだろう。
ただの物置でしかない資料室に、本来コンロやら調理器具やらが有るはずが無いのだが、ここで飲み食い出来るように全て宮沢が自前で用意してきた物である。
「だから『カテナチオ番長』はやめてくれ……」
「そうですね。語呂が悪いので……『かんぬき番長』さんと御呼びしましょうか?」
「だから、『番長』をやめいっちゅうに!」
そのまま傍まで寄って行き、ぺシッっとデコピンを食らわす。
「あうっ!!」
その瞬間、ピシリと空気が緊迫した物へと変わった。
何処からか向けられる俺への複数の殺気。
まあ、宮沢のダチがどこかに隠れているのをわかっていて挑発している訳だが……。
「痛いですぅ〜」
「今時“何とか番長”とか、ギャグに聞こえるだけだろ……?」
ついでに、おでこをさする宮沢に前々から言っておきたかった事を言っておく。
名が売れるのはいいが、勝手に変な通り名とか付けられては堪らない。
「では、何と御呼びしましょう?」
「いや、普通に名前で呼べばいいから……それよか、話しがあるんだが……」
そこまで言って、指でクイクイと“耳を貸せ”のジェスチャーをしてみせる。
「何でしょう?」
宮沢はすぐにそれを察して、長い髪の中から可愛らしい耳を掻き分けながら、半身になって身体を寄せてくれた。
ふわりといい匂いが鼻孔をくすぐる。
当然ケチャップの匂いではなく、昨日嗅いだ坂上の物ともまた違う、宮沢の匂い。
どうしてこう、女の子ってヤツは好い匂いなんだろう?
否応無しに雄として意識させられてしまう。
そっと彼女の肩に手を置き、少し緊張しながら耳元で囁く。
「実はな……ごにょごにょごにょ……」
「……まあ!本当ですか?」
「てめえ!!ゆきねぇに何をしていやがる!?」
宮沢が驚いたのと、どこからか野太い怒声が発せられたのは、ほぼ同時だった。
そして、テーブルの下から、
本棚の影から、
窓の外から、
清掃用具入れの中から、
次々と現れるガラの悪い男達。
隠れていたのは四人……その内の一人、一際大柄な男は常連の確か『矢嶋』だ。
……あれ?『田嶋』だったか?まあ、どっちでもいいか。
これ以上の挑発は、さすがに宮沢に迷惑をかける。
引き際だろう。
「ゆきねぇさんから離れろっつってんだよ!」
「同じ学校だからって調子くれてんじゃねえぞコラッ!」
「あん!?」
「うっ……!!」
田嶋の威を借り吼える下っ端二人を一睨みで黙らせてから、不穏な空気に表情を曇らせた宮沢に目配せして、
「詳しいことは、また今度話すわ」
「はい……すみません」
後ろ手で“気にするな”と言いながら、俺はその場を後にした。
結局いつもの様に屋上に辿り着く。
その道すがら気がついたのだが……今日は金曜日だ。
宮沢と話しをしようにも、アイツのクラスを知らないし、まさか休み時間までわざわざ資料室には居ないだろうから……話すのは来週になっちまうか。
まあ、2、3日でそう変わる物でもなし、坂上が居る事は伝えたから、宮沢なら自分で判断して巧くやってくれるだろう。
眼下に広がる町並みを肴に、パンをかじりながら物思いに耽る。
新年度が始まって、急に周囲が慌しくなってきた。
塞ぎがちだった仁科は前向きになって合唱部を立ち上げ、渚さんも元気になって来週からまた学校に来れるだろう。
そして何よりあの『坂上智代』と出会えた。
退屈過ぎて生きているのか死んでるのかも分からなかった俺の“平穏な日常”。
アイツならきっとそれをぶち壊してくれるだろう。
そんな予感は、だんだんと確信に近付きつつある。
そう、アイツとなら……。
「心……」
感傷が極まり、それが歌となって口からでた。
何度も何度も、本当にテープが擦り切れるまで聴いた“あの人”の曲だ。
何度も何度も口ずさみ、心に刻み込んだ“あの人”の歌だ。
仁科は俺の歌を上手いと言ってくれたけど、やはり人前で歌う気にはなれない。
恥ずかしいってのもあるが……いや、やっぱり恥ずかしいのが全てか。
自分の心をさらけ出す様で……。
無様に足掻いてる姿を見せる様で……。
でも、だからなのだろう。
自分を代弁してくれる“あの人”の歌に惹かれたのは……。
初めて出会えた“自分と同じ感じ方をしている”存在。
この世界に、自分は一人ではないのだと思えた。
辛く苦しい事ばかりのこの世界で、生きる力を貰えた。
そしていつか……“あの人の様に”なりたかった。
歌でなくともいい。
どんな形でもいいから、“あの人の様に”……。
……それなのに……“彼”は…………。
「いい歌だな」
「!!」
歌い終り余韻浸っていた所に、背後からの不意の声。
ぎょっとして振り返ると、そこにはたった今天空から舞い降りてきたかの様に、陽光を浴びてきらきらと輝く少女が立っていた。
「居たんなら声かけろよ」
「せっかく歌っている所を、邪魔しちゃ悪いだろ?それになかなか良い歌だったから、思わず聴き入ってしまったんだ。お前は歌も上手いんだな。感心した」
「……」
向き直るフリで、無邪気な彼女の笑顔に堪らず背を向ける。
恥ずい……恥ずかし過ぎる……!
てか、何故コイツがここに!?
まさか、また俺がここに来ていないか見回りにでも来たのか?
「今日も良い天気だな。絶好の相談日和だ」
しかし坂上は、さも当前の様に俺の隣に並んで手すりに寄りかかりながら、さらに意味不明な事を言い出す。
って、まさか……?
「なんだそりゃ?」
「雨が降っていたら、ここでお前の悩みを聞けないだろ?」
うわ……やっぱりそう来たか……。
「……それだけの為にわざわざ屋上に来たのか?」
「それだけって事はないだろ?友達の悩みを聞くことは、とても大事な事だ。それと、これをお前に渡そうと思ってな。昨日のカツサンドのお返しだ」
そう言って坂上が差し出してきたのは、パックのコーヒーだった。
「購買に行ったついでに買ってきたんだ。本当は、同じカツサンドを買って返そうと思っていたんだが、生憎すぐに売り切れてしまって買えなかった。今日の所はこれで我慢して欲しい」
「んなモン気にしなくてイイのに……サンキュ」
苦笑しながら、その心遣いをありがたく受け取っておく。
昨日あんな事をしたって言うのに……本当に律儀な奴だ。
当てにしていた宮沢のカフェオレにもありつけなかったし、丁度パンを食って喉が渇いていた事もあり、さっそく俺はストローを挿して飲み始める。
すると、その様をジッと見ていた坂上は、ニヤリといたずらっ子の笑みを浮かべ、大仰に笑いだした。
「フッフッフッ、川上オーキ敗れたり!」
その瞬間、俺は全てを悟った。
文字通り彼女は、昨日のお返しをする為に、ここに来たのだと……。
「お前が今飲んだコーヒーの中に、睡眠薬を入れておいた。お前の負けだ」
「そうか……」
それだけ答え、俺は平然とコーヒーを飲み続ける。
「……少しは信じたらどうだ?本当に入れたかもしれないだろ?」
動じてないのが面白くないらしく、ムッとしながら身勝手な抗議をしてくる。
「どうやって?」
「えっ!?そ、それは……“企業秘密”だ!」
いや、リアリティ持たす気有るなら、それぐらい考えておこうよ!
「……そうか。水に溶かした物を、折り返しの所から注射器で入れたのか……」
「お前、頭いいな……ああ、いや、うん!正解だ!」
素で感心して、あわててそれを取り繕う。
駄目だ……可愛過ぎる……!
コイツには人を騙す才能は無さそうだ。
いや、これで本当に入っていたら、天才だな……。
「……ならば、是非も無し……」
俺はYシャツの襟元を正し、手すりを背にして、どっかとその場に座り込む。
「ど、どうしたんだ、いきなり!?」
「どうしたって、本当に入れたんだろ?」
「う、うん……入れたんだ」
「なら、今更ジタバタしても仕方ないだろ?」
「それはそうだが……」
自分で騙そうとしておきながら、おもいっきり困惑している坂上を見上げ、爽やかに笑って見せる。
「最後の相手がお前で良かったよ」
「えっ!?」
「でも出来れば俺の手で、お前を普通の女の子にしてやりたかったんだけどな……」
「何を言ってるんだ……?」
「いずれ誰かがお前を解き放ち、そいつがお前を幸せにしてくれるだろう……」
「おかしな事を言うのは止せ!」
「それまで……負けるな……よ……」
そして俺は、ゆっくりとまぶたを閉じ、ガクンッと手すりに寄りかかる様に脱力した。
「だから、悪い冗談は止すんだ……オーキ?おい、オーキ!」
俺の異変に気付き、坂上は俺の肩を揺すって呼びかける。
だが返事は無い。屍のようだ。
「おい、返事をしてくれ!……オーキ?……うわああああああっオーキ!!」