卓巳君の憂鬱(1)
…困った。
俺も、久しぶりの再会に少し興奮して寝られなかった、というのはある。昼間、素人の直樹にテニスラケットを持たせて、俺の、『振り回し練習』の球出し機の役目をさせて身体を疲れさせておいたのに、それでも何となく、眠れなかったのだ。
だから、直樹が枕を抱えて部屋に来た時には、電気を煌々とつけてゲームをしていた。ので、とっさに寝たふりは出来なかった。
「何? 何の用?」
わかりきってる質問をする。
「ごめんね、卓巳…あのさ、やっぱり僕…怖くて寝られないんだけど…」
「ふぅーん、あ、ちょっと待って」
本当は全然楽勝な場面だけど、さも難易度の高いボスを倒しているような振りをする。
「それ、面白い…?」
直樹がそのままゲームに吸い寄せられて近づいてくる。…ヤバい。
「…うん、でもこれ倒したら、すぐに寝ようと思っているから」
「卓巳、一緒に寝てもいい?」
「ガキみたいなことを言うなよ」
程度に留めておく。
だって、うちの鬼ババアが昨日いきなり
「昔、良く遊んだ又従兄弟の直樹君よ、キツイこと言ったら、アンタ、未来永劫お小遣いもお年玉も無しだからね!」
と言ったからだ。
「懐かしいでしょう?アンタ覚えていない?薄情なやつだねー、あんなに可愛がっていたのに、本当に忘れちゃったの?
明日から一週間ほどうちに泊まるから、よろしくね」
とか言ったからだ。
聞いてないよ〜!
覚えていない振りをしておいたが、直樹のことは忘れてはいなかった。
「優しくしてあげるのよ。日本の病院で検査を受けるついでがあるから、先に1人で日本に来たんだからね」
俺より1つ歳下の直樹が何の病気か、俺は聞かなかった。今までも聞いていなかったし。言いたければ、本人が俺に言うだろうと思う。
昔、ばあちゃんが泣きながら
「仕方ないよねー。天使みたいな子が間違って地上に降りてきちゃったみたいとか言われる子だからね」
って言ったところをたまたま聞いてしまったことがあるだけだ。昔から、身体の弱そうな美少年くんだったのだ。フランスの血が1/4混じってるクォーターで、フランスに行ってしまった後は、この世で会えないだろうなぁ位に思っていた。
「卓巳に断られたら…。
じゃ、お姉ちゃんはいないし、…おばさんとおじさんに一緒に寝てもらえるか頼んでみようかな…」
「ま、待て。…ちょっと待て。わかったから…」
だめだ、ここは俺が折れないとあかん場面だ…。
直樹が言った、お姉ちゃんというのは、俺の姉で就職して会社の寮に入っている。いや、居なくて正解だったんよ、お前みたいな美少年くんは喰われてしまうかもしれないよ?
あ、あと親父とお袋が万一、合戦を繰り広げていたらどうするんだ、お前。常識はずれにも程がある。
直樹はおとなしく俺の次の言葉を待っている。
俺は、思い出したくなかった昔を思い出す。まるで、本当の弟のように甘えてくる直樹が可愛いくてたまらないと思っていたあの時。あまりに可愛くて、泣かせてみたい衝動に駆られ、そして、すぐに後悔した思い出。ずっと胸の奥にしまっておいて、でも決して忘れることの出来なかった、心の奥の小さな引っ掻き傷。
俺は、『スッゲーお前の為に妥協したんだぞ』、みたいにぶっきらぼうに言った。
「わかった、じゃ、お前の布団を運ぶから、手伝え」
「え?ここに?」
あー、そういうこと言う?
俺の部屋のとっ散らかった床に恐れをなすくらいなら、客間に戻れ。
と、言いたいのを我慢して俺はとりあえず、ごたくたを拾い集める。
「本当に、我慢して1人で寝られないって言うんなら。客間からお布団全部持ってくれば、ここに入れてやるから」
「うん、ありがとう」
直樹に命令してから、俺のお布団を客間に運んだ方が早かったかもしれないと気がついたが。うん、俺は俺の部屋を大切にしているし、ベッド下に隠してあるコレクションをきちんと封印してからでないと、部屋をからにするのは嫌だし。
「電気、消すぞ」
パチン。
「あー…いやだよ、怖い…」
ベッドの隣の下に敷いた布団の中から、直樹の声がする。
「ンだよ?」
「怖いから、あのオレンジ色の小さいのをつけたままにしてくれないかなぁ」
「…わかった…」
情け無い奴め。もう何でもいい、押し問答がめんどくさい。
そんなに怖いんなら、なんでホラー映画を俺の隣で一緒に観てたんだよ。
「…ありがとう、お休みなさい」
「おやすみ〜」
さ、寝ようっと。
…寝られない、くそ〜。壁を向いた体勢から寝返りを打った。
?
直樹が、俺のベッドを背にして、膝を抱えて座っていた。…気づかなかったことにしようと俺は思ったが、無理だった。
「卓巳も…眠れないの…?」
「あのさ、いくら明日が休みで朝寝坊しても良さそうだからって、夜遅くまで起きてちゃいけないと思うわけで」
「うん…でも、怖いんだ…」
「最後、映画の中でやっつけられたから、もうおばけは出ないって思うけどな」
「おばけじゃなくて、…検査が怖いんだ…。
あのさ、昔、卓巳が僕におまじないをしてくれたのを覚えてる…?」
「え?…覚えていない」
うそだった。ずっと覚えている…。たぶん、一生忘れないと思う。
「え?そうなの、覚えていないの?」
直樹が俺に詰め寄ろうとする。
俺は必死でとぼける。
「うん、ごめんな。なんかのおまじない、か…うーん、ごめん」
直樹がたぶん泣きそうになっている、そういう気配を感じて俺は、自分の作戦ミスを後悔し始める。
「そうなんだ…卓巳は忘れちゃったんだ…。あのあと、検査だって耐えられたし。いじめられても、耐えられたのは、卓巳のおまじないのおかげだったのに。
フランスのお祖父様の母校の寄宿舎でいじめられたりするのも、耐えてきたのに」
「あー…。本当にごめん」
確かに、アジア系は少数派だろうし、こんなに目立つご面相なら、危ない目にはあってそうだよな、直樹の可愛い感じは、ちょっといじめたくなるよな、昔の俺みたいに。
どうしてなんだろう、可愛くてきれいな純白の物を見つけて大事にしようと、大事にすべきものだと直感にビンビンくるのに、なんかひねくれて、「こんな物なんて!」って汚したり壊したりしたくなるのは何故なんだろう。
天使は、地上に降りたってしまったら、危ないんだ。俺は、そう思う。
さっきの映画みたいに、直樹が逃げまどう姿を想像してしまう。天使の白い羽がむしられ、裂けて彼はもう飛び立てやしない…。ただでさえ、身体が弱いのに。
でも、あのおまじないだって、俺がお前を…。一度泣かせてみたいって思ったんだ。無防備に俺を信頼して、甘えてくる直樹にちょっと教えてやりたくなったんだ。他人を全面的に信頼なんかしたら、痛い目にあうんだぜ?って。今のうちに鍛えてやった方が…って。
「嫌なこともたくさんされたし…」
「あ、あー。えー、でもお前、男だし。ま、まぁ男ならまかり間違っても妊娠とかはしないし…(俺は何を言ってるんだ?)と、とりあえず実害がなかったと思って、こう嫌なことは、パーっと忘れて生きていこうか」
「…うん。あのさ、僕、卓巳にお願いがあるんだけど…一生に一度のお願いが」
は?さっきから、ずっと、お前俺にお願いしてないか?
俺はお前の願いを叶えてやるためにしばらくぶりに部屋を掃除したりしてたんですけど。
!
い、いきなり抱きつくなんて、反則だろうが。
「ちょ、ちょっと待て。落ち着こう、直樹。お前、時差ボケで頭、わいちゃってるのかもしれない」
「もう一度、あのおまじないをしてよ」
「え?い、いや、そ、そう?はい?そういう話?」
「僕、嫌なことをされても、いつか卓巳がそれを全部打ち消してくれるって思って。そう思って生きてきたんだ」
大げさな、とは言えなかった。
俺だって、もしかしたら後悔をしつつも、心の中であの甘美な瞬間をもう一度、と思っていたのかもしれない。俺は、いったいどうすればいいんだ…?
あの時…のおまじない、か。
元はと言えば、うちの姉さんのせいだ。俺が直樹を探してリビングに入ると、姉さんが直樹の頬にキスをしていたのだ。俺が4年生だから、直樹はまだ3年生だったはずだ。
「何、してるのさ」
俺は不機嫌に聞いた。何だよ、実の弟にはいつもけちょんけちょんなのに、直樹にはほっぺにちゅっ♪かよ。
「なお君、入院とお注射が怖いって言うから、おまじないしてあげてたところ。
じゃ、ね、なお君。お姉ちゃん、お習字に行ってくるから。また退院したら、ご褒美にしてあげるね!」
直樹が嬉しそうにうなづいているのを見ても、俺はなんかイライラしてた。
リビングで2人きり。
「ねぇ、」
と無邪気な顔で直樹が俺にねだった。
「卓巳もおまじないをしてくれる?」
「いいよ。だけど、本気のキスだぜ?怖かったら、やめとけ」
俺は、言った。
「うん、本気…なんだね。すごいなぁ、卓巳」
…なんでこいつは天使のくせに間違えて地上に降りたんだ。
…なんで俺の前に無防備で立っているんだろう。
もがいて泣いて逃げ出したくなるキスをしてやろうじゃないか。
俺は、本気でキスをした。
本当は、それまでキスなんかしたことがない。だけど、なんとなくこんなもんだろうと思った。
直樹の唇が柔らかくて、やわらか過ぎて驚いた。それから、レモンの味もカル○スの味も何もしなかったので、ちょっと驚いた。おい、誰だよ、嘘をついた奴は。
口を塞がれた直樹が苦しがるのを、どこか意地悪に眺めて、ちょっと優越感に浸った。
俺は大人だからキスしながらだって、呼吸は出来たけどね、直樹は大丈夫だったかな?
直樹の瞳が、とろんとして潤んでいるのを見て、俺は背中がぞくっとした。
一つ違いとはいえ、直樹は背伸びして、空き地に捨ててある雑誌のエロ写真なんか眺めたことなんてないんだろう。天使のように生まれて育ってきたのに、今俺が変な知識を与えちまった。
「内緒だからな、わかったな。誰にも言っちゃダメだぞ!」
ぼーっとしている直樹に俺は念を押した。バレたら、俺は滅亡だぞ。親戚中から俺はぶっ叩かれる。
「うん、内緒にするから、もう一度して」
無邪気に直樹がねだる。
ヤバい、俺は本能で悟った。
「だめ。おまじないは、何度もしちゃいけないんだ」
直樹が、ねだる。そして、ごね始めた。
「じゃ、内緒にしないもん。みんなに言うから」
「え?」
「卓巳、困るでしょ?」
「直樹、そんなことしたら、2人共怒られるだけなんだぜ」
「僕、どうせもうすぐ死んじゃうかもしれないから、いいんだもん」
「バカ!そんなこと言うなよ!」
「卓巳は、僕がいなくなったら、さ…!」
俺は、直樹を抱きしめて、本気でキスをした。心の中で、天使に悪を教えてしまったことを後悔したのだが、そのうちにどうでも良くなった。直樹が苦しがったら、また唇を離してやる。すぐに直樹の方からキスしかけてくる。その日何度キスしたか、数えてないから、わからない。
あれから、俺はとにかく直樹を避けていた。たくさん塾の用事とか、いろいろとがんじがらめに入れた。直樹が退院した時も、行かなかった。寂しがってると聞いた。でも、逃げ回った。フランスに行ったと聞いた時はほっとした。俺は、親に頼まれるまま、おざなりに適当な絵葉書をフランスへ送った。
だけど、心の中にチクンとした棘は残った。直樹にはずっと天使のようでいて欲しかったのに。親戚のおじさんおばさんたちと同じように俺もそう願っていたはずなのに、あいつをスポイルしちまったんだ。
今、俺はやはり戸惑っている。戸惑ったまま、直樹に拒絶も受容も出来ていない。
「ね、お願いだよ。
たぶん、僕はまだまだ死なないとは思うよ。しばらくはまだ大丈夫。でも、たまらなく怖いんだ。いっそのこと自分のタイミングで幕を引きたくなるよね。でも、僕、もう一度だけ卓巳に会っておまじないをしてもらうんだって思って神さまに祈って頑張ってきたんだけど」
「直樹がさ、頑張っているんだろうと俺も思うよ。直樹には神さまからご褒美があるといいなって俺も思う。だからってご褒美が俺からのキスだなんてお前、可哀想過ぎやしないか?」
「卓巳、おまじないのこと、思い出してくれたんだね」
しなだれかかる直樹に、俺は慌てる。
「な、直樹。俺、彼女がいるんだよ」
彼女なんて本当はいない、でも、そういうことで歯止めがかかってくれれば、いいんだけど。
「卓巳なら、いて当然だと思う。素敵だもん」
ほらー、世間の女子高生の皆さま、今の、聞きましたか?
ほらー、君達に見る目がないからー、だから、俺がいつまでもぼっち、なんですよ。
「そんなさー、彼女のいる俺が遊びのつもりでお前にキスして、そんなんでもいいのかよ。
直樹は知らないと思うけど、俺は学校で遊び人で嫌なヤツって思われかけてるんだぜ」
俺はわざと、悪ぶって、かなり嘘を盛ってそう言う。
ごめん、直樹、傷つくようなことを言って。諦めてくれよ。俺さまが本当に起立〜!しちゃいそうだよ。どうすんの。
「うん、それでもいい…僕、卓巳がずっと好きだったから。死ぬまでにもう一度キスして欲しかったんだ」
だめだ、死ぬとか言わないでくれよ。俺の方が泣きそうじゃん…。
だめだ、俺の負けだ…俺が勝ってやらなきゃいけないのに。
あの時もそうだった。俺は結局、直樹の可愛いさに負けたんだ。愛らしい天使が、少し悪を覚えて全力で俺を魅了し始めて、俺は後戻り出来なかったんだ。だけど、あの時みたいに、エンドレスにキスしていたら、俺本気になってしまうじゃないか。
直樹がここにいるのは、一週間だけ、か。
「直樹、死ぬとか言わないでくれ。頑張って、生きてくれ。頼むよ。
俺、本当に直樹が弟だったらいいのにって、ずっと思っていたし。
そんなに言うんなら、ここにいる間はおまじないで1日に一回だけはキスしてやるから。
あの時みたいに、エンドレスになりそうなのはやめよう、な?」
「本当?
ここにいる間は、毎日してくれるんだね」
いや、だから、俺を魅了するの、やめい!
俺は直樹に、久しぶりの本気のキスをした。
俺は必死で頭の中で《起立したら、礼をして着席するのが、聖人君子》だと俺さまに講釈を垂れた。
とにかく、俺は一週間、耐えきってみせるぜ。
朝食の席で、俺のクソばばあ(母)が、嬉しそうに言った。うんうん頷きながら。
「良かった〜。結局、仲良しさんで。なお君のお布団を持っていって、隣同士で寝てたのー?」
「…」
「はい、卓巳はやっぱり優しくしてくれるから、つい僕、甘えてしまって」
「もういっそ、お姉ちゃんの二段ベッドを卓巳の部屋に入れちゃった方がいいかしらね?」
「そんな大ごとにしなくても。どうせ、直樹がいるの、一週間だけなんでしょ?」
「あら、卓巳、アンタ、ちゃんと聞いてなかったでしょう?
来年度からなお君、日本の学校に編入するから、うちに下宿してみないかって話になっているっていうのに」
は?はい?聞いてないよ、それ。言ってた?は?
俺は、固まった。…声も出ない。
母は、なんだかルンルン(死語)している。
「なお君、本当に卓巳の弟みたいだもんねー」
天使がにこやかに笑う。
「はい、毎日1回、僕の病気の良くなるおまじないをしてくれる約束までしてくれて…」
「…(おぃ)…」
「まあ、卓巳がそんなに優しいことを言っているって聞くなんて久しぶり。嬉しいわ」
「医学の進歩と、卓巳のおかげで、もう病気がだいぶ良くなっているんですけどね」
「…?」
「本当に良かったわ、このまま半年毎の検査だけでいいなんて」
「はい、本当です。卓巳のそばにしばらくいれるなんて、僕、夢みたいです」
「まあぁ♪」
天使だったはずの直樹は、もういない…、もしかして俺のせい、なんだろうか。
2020年1月23日:改編