アパートにっぱ【麦酒 人外 賃貸アパート】
俺は昔から、「変な子」だった。
家族から疎まれ始めたのはいつ頃のことだったか。
記憶にある父の顔はいつだって悲しそうだったし、母の顔は怒りが過ぎて泣いていた。
年の離れた妹は、幼い頃こそ俺の話を嬉しそうに聞いていたが、ある程度の歳になると徹底的に俺を避けるようになった。
昔堅気で未だに男尊女卑の激しい祖父でさえ、俺が大学生で妹が中1の頃には妹の方を可愛がっていた。
俺のことを唯一愛してくれたのは間違いなく祖母であったし、俺のことを1番憎んでいたのも間違いなく祖母であった。
今日も今日とて22時を回った仕事終わり、近くのコンビニで麦酒をを2缶と鮭とばを購入して家に帰る。
俺が今住んでいるのは、今年めでたくアラフォーの仲間入りを果たした俺よりもかなり歳上な非常に趣のあるアパートだ。
地震大国日本でよくもまあ建ち続けているなと思うほどにヒビの入った壁、その薄汚れ灰色になった白い壁に守られてなお踏み抜きそうな木製の狭い階段、風雨に晒され酔っ払いに手をつかれ俺の隣人によく意味もなく殴られているアパート名の書かれた木板は、もはやほとんどその役目を成していない。
建築法的な奴に引っかかっていないか非常に気になるところだが住人のうち誰1人それを追求したものはいない。誰がこんないい物件手放すか。
たとえ非常に趣があって、アパート名ですら失われかけていても、このアパートは非常に魅力的なのだ。
いや、本当はアパート名なんかではないのかもしれない。
木板にはただ『G』と書かれているだし、住人はここを『にっぱ』と呼んでいる。
かなりどうでもいいだろうが、隣人の主張『Gの住処説』によると『G』はこのアパートの名で黒くてテカテカした奴の温床だから、だそうだ。個人的には斜向かいに住む小金井さんの3つの駅を頂点に三角形を作った時の重心に当たるから、という『重心G説』を熱烈に推している。
推測とはいえ誰が悲しくて自らの住むアパートをGの住処と自称しなければならないのか。
自虐ネタならもっと面白いのにしてくれと言ったら満面の笑みで殴られた。もちろん殴り返しておいた。
掠れすぎて昼間に目を凝らさないと見えないほどの木板を掲げ続ける意味があるのかどうか非常に謎だが、かといってなくしたい理由があるわけでもなく。
俺はいつものようにぎしきしと今にも仕事放棄しそうな階段を泣かせ、二階の角部屋208号室の鍵を開けた。
暗い六畳間の明かりはつけない。別に俺なんかを付け狙う奇特なストーカーがいるわけでも、電気代を払う金がないわけでもない。単純に、ここが俺の部屋じゃないからだ。
別に不法侵入というわけでもない。
春夏秋冬いつだって冷え冷えとした208号室のど真ん中にぽつねんと置いてある卓袱台。その上には直径20センチほどだろうか、3センチほどの深さの陶器のパスタ皿と6センチかけ6センチくらいの小さな正方形の灰皿が置いてある。非常に趣のあるニッパには上等すぎるように思えるその2つの皿は、陶器で出来ていて中は空っぽだ。
買ってきたものを卓袱台の上に一度置き、パスタ皿と灰皿を持って再び部屋を出る。
JRのK駅まで徒歩15分、同じくJRのN駅まで徒歩15分、地下鉄のH駅まで徒歩15分なこのアパートは一応東京23区の中に入っている。
部屋は六畳一間、トイレと台所は共同で、冷蔵庫はない。ただし、何人かは超小型のものを買って使っている。
驚くなかれ、なんとこのアパートは敷金0、礼金0、家賃1ヶ月で3万円を切るのだ。いや、正確に言おう。2万と80円。それがこのアパートの賃貸料であり、住人がこのアパートを『にっぱ』と呼ぶ理由の1つである。
謎の800円を隣人は2万円の家賃にかかる消費税だと豪語していた。彼はどうやら1人だけ消費税が4%に免除されているらしい。羨ましい限りである。閑話休題。
この驚異の価格設定の理由は、もうお察しの方もいるだろうがこの『208号室』である。ああ、理由と言っても2万800円の800円の理由ではない。それは知らないし知ろうとも思わない。にっぱが安い理由、それは賃貸条件に『208号室に毎週土曜日住人当番制で好きな酒とつまみを用意すること』だからだ。
にっぱは一階に4部屋と共有スペース、2階に8部屋の計12部屋で、現在住人は11人、つまり208号室以外はすべて埋まっている。2月半に一度のペースで当番が回ってきて、各々本当に自由に酒とつまみを用意している。俺の場合は麦酒と鮭とばだし、隣人の場合は前回ワインひと瓶と100グラム1万円もするチーズを準備していた。馬鹿だと思う。
208号室は人が住んでいない。にも関わらず、必ず用意した酒とつまみは1週間後消えている。この不気味な話を聞いてなおここに住み、従順…とは言いがたくもきちんと酒とつまみを準備している住人たちはなかなかに肝っ玉が据わっているとおもう。あるいはただの馬鹿か。
俺にとってはなんら不思議なことではないし、愉快な住人たちは誰1人気にしない。むしろ消えないつまみを調べるとか言って珍味であるフォアグラやキャビア、臭いと有名なニシンの缶詰やくさやに始まり、果てはどこで仕入れてきたのかホンオフェ(エイを発酵させた韓国の高級食材)やはハカール(サメの骨を抜いて発酵させたもの)、しまいにはアザラシの腹の中に海鳥を入れて放置して作る謎の食材まで。
207号室の住人である俺と212号室である斜向かいの小金井さんはその度に眠れぬ夜を過ごした。
一階の共有スペースで念入りに洗った皿を持ち帰り、待ちくたびれたと言わんばかりの目で俺を見るニッパーさんの卓袱台を挟んで対面に座る。
まずは鮭とばをきっちり二分して半分を灰皿に、半分をプラスチックのトレイに残す。1缶分のビールをパスタ皿ぎりぎりまで注ぎ、わずかに残った分缶を置く。
カシュッといい音を立てて自分の分を開け、喉に流し込む。三鳥の麦酒、それもきりんさんビールは疲れた体に格別染みる。デフォルメされた可愛らしいキリンの、長い首の真ん中に親指を置くのが俺の飲み方だ。小さい頃、可愛いキリンさんの缶をジュースと勘違いして飲み、吹き出したのは今となってはいい思い出である。
一息ついた俺は一心不乱で麦酒に舌をつけるニッパーさんにようやく目を向けた。
「2ヶ月半ぶり、ニッパーさん。聞いたよ、我らが愛すべき隣人のやつイナゴとセミの佃煮持ってきたんだってな。」
ニッパーさんはちらりともこちらを見ずに麦酒を啜っている。軽微とはいえゲテモノに分類された物を食わされたことを心配してやったのに無視。実に隣人がいのないやつである。
まあ、正確に言うなら隣獣がいのないやつ、だが。
ニッパーさんの口元に、鬣が滑り落ちてきそうになっているのを見て麦酒缶片手にニッパーさんの尾を踏まないようにしつつ後ろに回り、適当にヘアゴムで括ってやった。
もちろん、お礼はない。
俺も返事を求めずに一心不乱に麦酒を舐めるニッパーさん相手に日頃溜まっている鬱憤を愚痴りまくる。
はたから見たら異様な光景だろう。
暗い六畳間で麦酒の入ったパスタ皿と鮭とばの入った灰皿を相手に1人話し続けるサラリーマン。俺だったら絶対に関わり合いたくない。
2ヶ月半で溜まりに溜まった上司、同僚、仕事相手の愚痴を5分の2ほど語り、話しが佳境に入った時、ニッパーさんがのっそりと顔を上げた。
硬質な口元から酒の水滴が転がり落ち、ポトポトと酒の海へと帰っていく。
酒も滴るいい男(?)になったニッパーさんが独特の黄色い目で俺を見つめて。
〔女か。〕
漸く発した一言は、多分に嘲笑の含まれた鼻笑い交りのものであった。
そのままクッチャクッチャと鮭とばを食みだしたニッパーさん。おそらく1時間ほど酒を舐めていたはずだが、なみなみと注がれた酒は5ミリも減ってない。まあ、舌の先でチロチロ舐めるしかないニッパーさんにとってはむしろ目に見えて減ったという事実は驚くべきことなのだろうが。減った分、僅かに残ったニッパーさんの酒を注ぎ足し、俺は微妙なところで遮られた愚痴をまた語り出した。
それから30分、ニッパーさんが鮭とばを1本噛み終え、俺の話が5分の3のところまで来たところでニッパーさんがゾロリと白い歯をむきだす。いや、ニッパーさんの場合牙といったほうがふさわしいか。
そろそろ日付も超えるだろうに、住人たちが帰ってきた音は一度も聞こえない。
にっぱの住人たちは夜の仕事かニートか社畜の3択だ。実に平均的な住民構成である。
〔酒とつまみだけだな。〕
今回の一言は憐憫が多分に含まれていた。
そんなニッパーさんに負けず、愚痴を零し続けてはや3時間。
丑三つ時まだ愚痴り続けた俺は未だに1センチしか減っていない鮭を舐め続けるニッパーさんを置いて部屋に戻った。
人外を見る、人外と話す、人外に触れる
今はこんなにも簡単にできることなのに、昔の俺は、可愛いきりんさんの苦さに吐き出して拒絶した俺は、幼すぎて、弱すぎた。
丑三つ時。
時間と酔いのせいにして、俺は痛む心を押し殺した。
「よお、ニーナっち!朝ごはん食べに来たぜ!」
「お早うございます、ツナさん。」
「7号、早く飯ー」
俺が望もうと望まずとも、隣人と愉快な仲間たちは毎朝俺の部屋に突撃をする。
俺が虚空に向かって話しかけているのを見ても、なにもいわず、いつもの通りに。
それはきっと、彼らにも苦いだけのきりんさんがいたのだろうけど。
「それで、なにが食いたい」
俺は、人外も人外を見る俺も、
俺の愚痴も、痛み苦味も、
変わらず引き受けてくれるこのアパートにっぱが、
「舟盛り」
「炭焼き窯のピザ」
「小籠包」
「…ザワー、ク、ラウト」
「わかった、稲荷寿司な」
結構好きで、気に入っている。
ちょっとしり切れとんぼ気味
話膨らみそうなので続編続けるかもです。




