鯨の海ー【鯨 山 ラーメン】
【鯨の海】
その少女は、鯨の様だった。平均よりかなり多めに脂肪を蓄え、たくさんの量のご飯を食べた。のんびりとしていて、何も考えていなさそうなのに、深い知恵を持っている様にも見えた。誰とも喋らず、いつも教室にいた。優しい目をして、ただただそこにいた。
多少、太っている事をからかわれても優しく微笑んで流していた。なのに、その日だけは違った。僕が彼女に話しかけた時、いつもの様なノリで、男子の1人がからかった。
「もやしと豚の取り合わせか?あとはニラさえ揃えば中華料理屋にでも売れるな。」
僕はよくもやしと言われてからかわれていた。僕はいまだそういう揶揄に慣れていなかった。いつもの様に俯き、彼女のそばに近づいたことを後悔しかけた時だった。
「あたしは豚ともやしより、豚と牛の方が売りやすいと思うなぁ。ほら、ハンバーグなんか作る時ってそうでしょう?あたし、中華料理よりハンバーグの方が好きなんだぁ」
揶揄した男子も、結構大柄で何回か牛と呼ばれていたことがあった。
その言葉はふざけている様だったけど、瞳は厳しい光を湛えていた。睨んでいるわけでもないのに、何故か皆、彼女に圧倒された。僕は優しく僕に笑いかける彼女が怖くて、周りに合わせて笑った。
「さっきは、ごめん。」
「んーと、何がかなぁ。」
優しい目で首をかしげる彼女に、僕は畏れを抱く。
なんというか、中学生としては彼女はあまりにも異質なのだ。溶け込んでいるのに、どこか浮き上がってしまう、そんな異質さ。まるで大きすぎる体を持つ、鯨の様な。
「僕をかばってくれて。なのに僕、笑ったから」
「あそこで笑ってくれなかったら、あたし困っちゃってたよ?ありがとねぇ。」
こういうのを、辛い優しさというのだろうか。そう僕が思った時、ニコッと彼女は笑った。
「ねえ、放課後、ちょっと付き合って欲しいんだぁ」
僕には選択肢はなかった。
「ねえ、どこまで行くの?」
学校が終わってから20分、僕らはひたすらに学校の裏の山を登り続けていた。鯨なのに、山をひょいひょい登る彼女を面白いと思う余裕さえなく、僕は必死で追いかけた。
「もうちょっとだからね、もうちょっと。」
くらくらし始めた頭を無視して、下だけを見て歩く。山なんて登ったのは久しぶりだった。ふと、お腹のすく匂いがしてきた。
「もう着くからね、もう着く。ほら、着いた」
そこは山頂より少し下、ぱっと視界が開けているところだった。暗くなってきた空の下、街の光が、まるで海の様だった。こんなにありきたりな台詞しか出てこないけど、この思いを彼女に伝えたかった。
「「海みたいだね」でしょう?」
ハモった言葉に、何故か無性に嬉しかった。汗を拭きながら彼女は嬉しそうに笑う。
「あたしねえ、いっつもここにきてるんだぁ。あそこはねぇ、海の中なんだよ。息を潜めて、ゆっくりと泳いでいるのが一番楽なの。ただ息をひそめるのは大変だけど、あそこが海であることはあたししか知らない。海を知っているから、海の底が耐えられるんだと思わない?」
今日から君も、海を知っている魚になる、と彼女は笑った。
彼女の言っていることはよく分からなかったけど、彼女と
同じ思いを、少しでも抱けたことが嬉しかった。
煌々と輝く【海】を見て思う。
綺麗だ。鯨の誉める海は、とても、綺麗だ。綺麗、だ。
海に顔を向けて、鯨は笑う。【海】の光に照らされて、鯨は心地よさげだった。
その顔に影を落とさない様に、僕はほんの少し、鯨の正面からずれた。
「それとねぇ、ここの山頂で、ラーメンの屋台があるんだぁ。山頂じゃ、 夜景は見れないのにねぇ。きっと、毎日大変なんだねぇ。」
そのあと、僕と彼女が食べたラーメンは、少し塩っ辛くて、安心する味がした。
あれから20年、僕はとある山の山頂で、ラーメン屋を営んでいる。店名は魚の隠れ家。もやしと揶揄されていた僕は、ちゃんと平均的な体型になった。仕事が終わると、山頂に来て屋台を出している。彼女はやっぱり鯨のままだったけど、彼女は今でも、光の海を身に一杯に浴びて微笑んでいる。
最近よく、2人の中学生が来る。1人は太り気味の男の子。もう1人は痩せすぎに見える女の子。少年は囁く
「ね、ここからは海は見えないんだ。あそこはあんなにも綺麗なのにねぇ」
少女はあやふやに笑う
「そうだね、あれはすごく綺麗で…綺麗、だよね」
僕は少女がごまかした言葉の先がよくわかる。海は、美しいだけじゃない。あの美しい【海】を飲み込むには、きっと鯨ほどの大きさの胃袋が必要なんだろうと思う。
「お待ちどうさま」
少し塩っ辛いラーメンを2つ、台に置く。塩っ辛いのは、きっと魚たちが泣いたから。




