05
な、何してるんだ?
突然目の前で四つん這いになった男の行動に、頭が真っ白になった。
「コレが、乙女の大切な人に傷をつけたらしいと聞いてね。
簡単なお使いも出来ないが、可愛い子でもある。
好きなだけ痛めつけてもらって結構だが、命までは奪わないでやってもらえるかな?」
「……」
無言になったロゼが、私を伺うように見上げる。
困惑しているし、思いっきり(どうしたらいい?)と表情に出ている。
だが、私を見られても困る。
私は吸血鬼の作法なんて知らないし、痛めつけろと言われてもな。
「乙女が望まぬなら、君がやりたまえ。
これは人が嫌いなので、やり過ぎてしまったようだ。
殴られた頬を殴り返したということで、お互いに水に流そうではないか」
言葉と共に、タイストは傍のテーブルにもたせかけてあったステッキを手に取り、スラリと持ち手を引き抜いた。
中から現れたのは、黒い細い刃。
刃は照明の明かりの下で、濡れているように光を放っていた。
オイオイ、なんで仕込杖なんて持ち歩いてるんだよ、この吸血鬼は危険すぎる!!
身体検査もせず、通された時におかしいとは思ったが、やっぱり舞踏会じゃなくて、武闘会だったのか!?
「さあ」
ステッキの持ち手をこちらに差し出してくる、吸血鬼の笑顔を見た瞬間、背筋に氷でも入れられたような寒気を感じた。
(吸血鬼は……敵だ)
ステッキを差し出してくるタイストの、緑がかった碧眼に、私の顔が映っている。
私?いや、違う。
これは誰の顔だ?
俺の顔じゃない。
……ああ、そうか、これは、父さんの顔だ
(母さん、父さん、じいさん、そうだ、こいつらは敵だ、皆殺しにしろ)
吸血鬼の瞳に映る父さんの顔は、眉を寄せて暗い色の瞳を輝かせている。
歯を剥いて、嬉しそうに笑っている。
父さんが、こんな顔をしている所を見たことはない。
でも、この表情は、ギラつく瞳は……よく知っている。
かつて、鏡を見るたびに見ていた、復讐者の瞳だ。
それを認めたと同時に、目の前が真っ赤に染まった。
◆
痛い。
それだけを感じながら目を開けようとするが、顔に何か張り付いているのか、目を開けることができない。
『—おはようございます、看護師がまいります、もうしばらくお待ちください—』
どこかで聞いたことのあるような合成音声、壁を隔てた向こうで聞こえるような急ぎ足の足音、話し声、人の気配。
周囲に漂うのは、消毒液と漂白剤と洗剤の匂い。
そして、わずかな獣の臭い。
そうか、ここは、病院だ。
それを理解すれば、すぐに思考は明晰さを取り戻した。
それにしても、なぜ病院にいるのか?
……全く思い出せない。
微かな機械の作動音から、脳波測定機と心音測定機が繋げられているのだろうと推測し、重りでもつけられているような手足に意識を向ける。
指先をわずかに動かすことはできるが、刺すような痛みが肩まで走り抜けた。
原因は覚えていないが、動けなくなるようなことをしたらしい。
「失礼します」
スライドドアの開く音がして、女性の声が聞こえる。
「お目覚めになられましたね、痛むところなどはありますか?」
看護師らしい話口調に、言葉を返そうとしたが、口の周りにも何か張り付いているらしい。
動かすことができない。
「失礼します、手に触れますよ」
手の中に、ひんやりとした指が差し込まれた。
「指を動かすことはできますか?
はい、反対の手も……はい、ありがとうございます。
それでは痛いところがあるか、順番に聞いていきますので、該当箇所で指を動かして教えてくださいね。
頭部…顔面、はい…肩部、はい…胸部…腹部…上ですか?…下ですか?、はい、続けますね、右腕、はい…左腕、はい…右足、はい…左足、はい…背中…はい、分かりました。
大丈夫ですね、痛いのは全部治療した部位です。
(脳波、心拍の)数値は安定していますが、少しだけ痛み止めを足しておきますね」
パタパタと軽い足音と共に、看護師が歩き回る。
それを聴きながら、再び暗闇の中に沈んでいった。
◆
何日かが過ぎたようだ。
未だに顔に何かが張り付いているので、前を見ることも話すこともできない。
とうに痛みはないのに、手足を動かすこともできない。
昨今の医療技術の進歩で、入院期間自体はとても短くなっている。
医療費の節約という観点からも、早期退院は好まれている。
どれだけの日数が経ったのかはわからないが、傷はすでに治っているはずだ。
痛みはほとんどなくなっているのに、身じろぎするのが精一杯なのはなぜだ?
何があったのか思い出せないまま、点滴と喉のチューブからの流動食で生命をつないでいると、鬱になりそうだ。
「入るからね」
「失礼するっす」
聞き覚えのある声だ。
……誰だったか。
「これじゃ話はできそうにないね」
「顔の包帯も拘束帯も、先生が言ったんすよ?」
意識があるのだ、と伝えるために、動かせるようになった右手を握ってみせるが、声の主たちはそちらに気がつかずに、2人で話を続けている。
「起きているなら聞いておくれ。
イモータルソサエティが、5人の吸血鬼を殺した狩人に、莫大な懸賞金をかけたよ。
街にいる狩人全員を動員しても、吸血鬼と対等に戦える前衛は3人だけだ。
まさか、このタイミングで一番避けたかった道へ行くとはね……本当に頭首様らしい選択だよ」
なんの話だ?
「なんで今なんすか?
このまま、何もかも忘れてロゼちゃんと仲良く暮らすって選択もあったのに!」
「辞めなさい、ミカ」
「でも、先生っ」
「我等の進む道を決められるのは、頭首様だけだ。
それが茨の道であろうとも、共にあると制約しただろう?」
「っ、はい」
意味がわからない。
何を言いたいんだ?
それから2人ぶんの声はぼそぼそと話を続け、不意に、足音と気配が近づいてきた。
「狩人には指導者が必要だ。
それもとびきりイかれたね」
「先生……でも」
「賭けてみよう、この14年の平穏が、復讐という命を燃やす炎を弱くしたと信じてね」
一体、いつまで人の寝ているそばで話しているつもりなのだろう。
さっさと帰ってほしいものだ、
「……我等イモータルハンターの現頭首、ルクレツィオ・バッターリアにして狩人、ルチャーノ・ダ・ロット。
目覚めよ」
「ッッ?!」
催眠暗示の解除条件である、自分の名前を聞いたと共に、蓋が開いたように脳裏に叩きつけられた記憶は、思いもしないものだった。
強制的に意識の奥から引きずり出され、叩き込まれる記憶の奔流に、全身をベッドに拘束されたまま、俺は声にならない絶叫をあげて、のたうちまわることしかできなかった。