2.二度目の恋
大きな広間の椅子の上には、端正な顔立ちをした青年が腰をかけていた。それはあまりにも神々しく、それでいてまるでガラス細工のように繊細であるように思えた。王族は平民よりも長生きで、人を魅了する容姿を持つ、と古くから言われていた。その例に違わず、王はすでに五十歳を過ぎているのに二十歳そこそこの見た目をしていた。
会ったのは初めてでは無いのに、その姿を見た瞬間に雷が落ちたような衝撃を受ける。
「よく来たね、随分と愛らしい顔つきをしている」
そう言葉をかけられた瞬間、目はうるみ、頰に熱が集まるのがわかる。
「おう、さま、お会いできて光栄です」
なんとか言葉を紡ぐが、王様から目が離せなかった。こんな感覚に陥るのは、二度目だった。王子よりも柔らかく下げられた目元、年をとって凛とした佇まい。視線が、逸らせない。
「ーー、ミシェル?」
父に名前を呼ばれ、ハッと我にかえる。
「申し訳ありません、カルディア王。緊張しているようで」
「よい。そなたはまだ幼いのに、こんなところに呼んですまなかったね。息苦しいだろう」
こちらを見て柔らかく微笑む王に、否定しなければと言葉を紡ぐ。
「いえ!そんなことありませんっ!」
自分から出た声は大きく、その場に響いた。あまりの大きさに自分でも驚いて、自分の口を手で押さえた。けれど出てしまったものを取り返すことはできず、いたたまれなくなって俯く。
それからすぐに、王の立つ気配がした。呆れて帰ってしまわれるのだろうか、叱られるのだろうか、と考えて身体を強張らせた。恥ずかしくて情けなくて、涙が出そうだった。
「ひゃっ!」
身体が急に持ち上がって、目を丸くする。高くなった視線は、王のすぐそばにあった。
「暗い顔をしていては、せっかくの愛らしい顔がもったいないよ。そんなに緊張しなくていい」
王の目は優しく私を見つめていた。抱っこされているのだと気づくのに、しばし時間がかかった。
「王!私の娘に何をするのです!」
「なにって、抱き上げただけだろう。それにしても軽いな、ちゃんと食べさせているのか?」
「きちんと食べさせております!それより私の娘を返してください!」
怒る父様に、王はやれやれ、と首を振る。
「アスティルは親バカだなぁ。とって食うわけでもないのに……なぁ、ミシェル嬢?」
いたずらな瞳に、心臓が大きく音を立てる。はい、と頷くのが精一杯だった。それでも王は嬉しそうに微笑んでくれる。それだけで胸がいっぱいになって、満たされた気がした。
「父上!」
広間に響いた大きな声に、その場が静まり返る。
王と私の戯れを止めたのは、あの王子だった。その声は少し強く、出した本人も気まずいのか軽く咳払いをした。それから私の知る、あの柔らかい笑みを浮かべる。
「その娘は私の婚約者なのでしょう。紹介していただけませんか?」
完璧な王子様スマイルを浮かべて、そう口にした。けれどそれに違和感を覚えてしまうのは、先ほどの王子の野蛮な姿を見てしまったからだろう。
いかにも取り繕ったような笑顔が、気にくわない。ふいっと顔をそらし、ぎゅっと王に抱きつく。
「おっと、もう懐いてくれたみたいだ」
「カルディアーーー!!」
この人誑しめ!という父の罵倒が聞こえたけれど、王はクスクス笑うだけだった。王はゆっくりと私を地面に降ろす。離れることに一抹の不安と寂しさを感じて見上げれば、王は微笑んで私の頭を撫でて、これ以上アスティルを刺激すると面倒だからまた後でね、と耳打ちした。また後で、と言われたことが嬉しくて、緩みそうになる頰を必死で引き締めた。
「じゃあ紹介しよう。うちの愚息のリアムだよ」
そう言われ、かの王子を見る。先ほどとは違って穏やかな微笑みを浮かべた王子は、どことなく王に似ている。私はドレスの裾をつまみ、頭を下げる。
「"初めまして"、リアム殿下。ミシェルと申します。お目にかかれて光栄です」
「あぁ、"初めまして"。こちらこそ、君に会えて光栄だよ」
ここにきて初めて、十年前と今が合致した。けれどあの時とは何もかも違かった。王子への恋心なんて持ち合わせていなければ、何も知らないお嬢様でもない。ここにいるのは一度失敗して"殺された"女だ。
「ミシェル嬢が良ければ、リアムと婚姻の約束を結ぼうと思っている」
王が穏やかな声でそう言う。十年前にも一度言われた。そして何も知らなかった私は、ただ当然だと言わんばかりに頷いたのだ。もし私が、前と同じように振る舞えば、最後に待つのは破滅である。十年前、私は国を滅ぼした。自分の思い通りにならない世界など全て消えてしまえばいいと、本気でそう思っていた。
この王宮を焼き払い、全部全部壊してしまったら、王子は自分を見てくれるだろうか、なんて。そんなわけはないのに、そうであると本気で信じていたのだ。最終的に兄に背負わせ、殺させた。自業自得、そんなこと誰よりも私が一番よくわかってる。
ーーだから、変えねばならない。あの日の悲劇を、惨劇を、繰り返さないために。
「私は王子の婚約者になりたくありません」
あの日とは違う答えを口にした私に、王は「そうか」と頷いただけだった。それとは反対に、父は驚いたように目を丸くし、それから極めて冷静な声を出すように努めながら、慎重に言葉を口にした。
「それは、何か嫌な理由でもあるのか?」
私は無垢で無知な少女のように小首をかしげ、
「王子のことを、私は何も知らないからです」
と、そう口にした。
部屋に戻ると、私は力なくその場に座り込んだ。狂おしいほど愛しいと思ったあのときの感情は、こうも簡単に消え失せるものなのか。もしかしたら十年間、私は王子という"虚像"に恋をしていたのかもしれない、と思う。自分の幻想を押し付けて、勝手に王子が自分の理想だと決めつけていた。
「……よかった」
好きにならなくて、よかった。あの、身の焦がれるような思いをしなくてよかった。十年間ずっと苦しかった。苦しくてたまらなかった。
「お嬢様!?」
エマは座り込む私に気づくとお茶を入れていた手を止めて、驚いたようにこちらに駆け寄ってくる。
「大丈夫、少し疲れただけ。気を張っていたみたい。そういえばね、私、好きな人ができたみたいなの」
「あらまぁ、それは誰ですか?」
嬉しそうに微笑むエマの耳に、その名前を呟く。
「カルディア王よ」
「王、ですか?」
一瞬、ほんの一瞬だけエマの声が冷たいものだったように思えて、エマの顔を覗き込もうとした。けれどドアをノックする音が聞こえて、すぐに立ち上がった。私の視線に合わせるために膝をついていたエマも立ち上がると、すぐにドアを開けた。
「まぁ!殿下、どうなさったんですか?」
「ミシェル嬢と少し話をしたいと思ってな。すまないが、少し出ていてもらえるだろうか?」
「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」
丁寧な言葉で王子が言うと、エマは一礼をしてから部屋を出た。
婚約者でもない男女を二人きりにするのはどうかと思うが、おそらく男女という括りではないのだろう。六歳の女の子とお守りをする十二歳の少年にしか見えないだろう。
エマの足音が遠ざかるのを確認すると、王子は思いっきりソファに座る。
「はあああーーー、疲れた」
「ここは王子の部屋ではないのですけれど」
くつろぐ王子に、顔をしかめた。王子は私の方を見て、その呼び方をやめろ、といってきた。
「はい?」
「王子なら他にも沢山いる。俺はリアムだ」
その高慢な態度にイラつきながらも、言われた通り名前をいう。
「リアみゅ」
王子はジッと私を見つめた。それからもう一度、丁寧に言葉を発する。
「リア、ム」
「リア、みゅ」
しばしの沈黙が落ちた後、王子は吹き出した。
「ぶはっ!あはははっ!お前、俺の名前も満足に発音できないのか!ガキめ!」
ゲラゲラと笑う王子に苛立つ。なんてやつだ。仕方ないだろう、この体はまだ幼い。うまく発音できない言葉もある。
「王子の名前が言いづらいのが悪いんだもの!!私は悪くない!!」
リアでいい、と、唐突に王子は言った。
「俺の名前、リアでいい。リアと呼べ」
「……どうして殿下を名前でお呼びしなければならないのですか?」
ふてくされながらそういうと、王子は「悪かったから拗ねるな、ミシェル」とほんの少し甘さを含んだ声で言った。そんなことで機嫌が取れると思うなよ、と思いつつ、反抗するのも面倒だから小さくため息をついた。
「それで、どうしてリアは私の部屋に来たのですか?」
「お前が俺のことを知らないと言ったから、存分に分からせてやろうと思ってな」
「はぁ、そうですか」
こちらのことは御構い無しで楽しそうなリアに、気の抜けた返事をしてしまう。
「しばらく王宮で暮らせ、ミシェル」
「……何を言ってるのですか?」
「王とも毎日会えるぞ」
その言葉に、ピクリと反応してリアを見た。リアは勝ち誇ったようにこちらを見ている。王と毎日会えるというのは、考えるだけで胸が高鳴る。ーーけれどそれはつまり、毎日リアとも顔を合わせなければならないということにつながる。
王には会いたいが、リアにはなるべく会いたくない。リアのことを嫌っているわけではないが、親密になることで万が一恋心を抱いてしまった時、大変なことになるかもしれないのだ。そう考えると、リアはできれば避けておきたい相手である。
こんなこと、十年前は提案されなかった。王子に挨拶して、また会う約束をして、それで終わりだった。だからどうなるかは、全く分からない。苦渋の決断である。
ただ、王子のことをもっと知ってみたいと思ったのは事実だった。
「…………その提案、受けます」
十年間知らなかった、知ろうともしなかった。だから私は、知らなければならないのだと思う。リアがどういう人物で、何を考えているのか。
リアは私の返事に、嬉しそうに笑った。