人魚編(1)『きっときみはそこで――』
彼女はその日、施設から飛び出した。走る間はずっと、手を貸してくれた彼は無事だろうか、と不安を抱いていた。おそらく無事では済まないだろうとも。施設の人間は、彼女たちを命ある者とは扱わない。それがわかっていたからである。逆らえば、酷い目に遭う。それに、彼女が抜けた穴は、誰かが埋めることになるのだ。少なくとも、誰か一人は、自分と同じ立場に立たされる。
キャルリアンの逃亡は、誰かの犠牲の上に成り立つものだった。
だからこそ、何を利用してでも生き残る道を探すべきだと思う反面、彼女はその選択を前にして躊躇った。
得体の知れない自分を前にして、頭を下げた人間。綺麗だと輝く瞳を向けてくる人間。
“この上、無関係の人まで、巻き込むのか”。
誰かを犠牲にすることでしか生きられないのであれば、生きることそのものが罪のようにも思えた。けれど、死ぬこともまた、罪だ。
いっそ不可抗力で死んでしまえたら良いのに、とさえ彼女は思った。それすら、許されないことだと知りながら。
『これからどうするつもりなのか』
海賊の一人が放った質問に、答えることはできなかった。その解が、彼女の中には無かったから。
何かから逃げた。そのために、他の誰かを犠牲にした。
だというのに、どうしたいのか。どうすることが正解なのか。さっぱりわからないのだ。
それでも、自分一人だけが助かることはできなかった。彼女は自分の存在に、それだけの価値を見い出すことはできなかった。
彼は何を望み、自分を外に出したのだろうか。
何故彼らは、自分を船に置くと言ったのだろうか。
――何ひとつわからない。
『ここから出たら、海に行きなさい』
彼女を外に出す間際、彼は海への行き方を早口に伝えた。走ることよりも泳ぐことの方が得意なキャルリアンには、それは的確なアドバイスのように感じられた。なにせ、施設の外で、どの方向に走ればいいのかなんて、彼女には判断できなかったのだ。
しかし彼は、こうも言った。
『港に着いたら船に乗りなさい』
人が突然飛び込むと目立つからね、と彼は微笑んだが、果たして、それだけの理由だったのだろうか。
船には、当然、人がいる。世間知らずな彼女ならばともかく、あの彼が、そのような考えに至らないとは、到底思えない。キャルリアンたちにとって、人は危険な存在なのだから。
彼は、キャルリアンを人に会わせたかったのだろうか。もしそうだとするなら、その意図するものは、いったい何だというのか。
『きっときみはそこで――』
途切れた言葉の先に、いったい何を続ける予定だったのか。
キャルリアンには、知る由もないことだ。
――少なくとも、今は、まだ。