人魚編(1)「外を知りたくないですか」
キャルリアンが記憶している『彼女』の始まりの記憶は、真っ白い部屋で、真っ白い服を着て、真っ白いベッドに横たわっているシーンだ。
「目が覚めたかい?」
彼女の目覚めを待っていたと言う男の目にぞっとしたことを、よく憶えている。彼が彼女に向けた目は、命ある生き物を見る目ではなかった。身構えるキャルリアンには一切頓着せずに、男は笑う。
「いやぁ、良かったよ。彼女が壊れてしまった以上、純粋なサンプルはきみだけだからね、早々に壊れてしまっては一大事だ。……次は、もう少し刺激の少ない実験を試そうかな」
――後になって、『壊れてしまった彼女』というのが、自分の母親だと知った。そして自分もまた、既に壊れてしまっているのだと知った。何故ならば、彼女はほとんどのことを忘れてしまっていたからだ。母親のことも、父親(彼もまた共に捕まり、母親が死ぬと同時に処分されたそうだ)のことも、自分自身のことも。……家族を喪い、辛いと思う気持ちさえも。
痛い。苦しい。辛い。痛い。痛い。
頭を占めることはそれだけで、それすらも日々の中で、日常に組み込まれていく。これが当然なのだ、と。
縋り付くものは、何も無かった。祈る先すら忘れてしまった。それでも、痛いことは嫌であるような気がした。
自分の身体から流れ落ちる赤を見る。
「なるほど、この程度の怪我だと自分自身の血でも……」
男が傍らで、何かをぶつぶつ呟いている。彼女が理解できないことを、延々と。男の目にはまさに狂気があった。下手に動いたら再び始まるに違いない実験の恐怖に怯え、彼女は息を潜めるしかなかった。
――時間が、早く過ぎれば良い。
あの頃のキャルリアンは、いつもそればかりを願っていた。とはいえ、その先にある未来というものに何かを求めていたわけではない。ただひたすら目の前の苦痛が過ぎ去ることしか、考えていなかった。
そんな時だ。彼が現れたのは。
「外を知りたくないですか」
男の助手として入ったらしい彼は、キャルリアンにこっそりと訊ねた。
外? 彼女はぼんやりと首を傾げた。外、とは。
はっきり言って、別段魅力的なことではなかった。外に出たからといって、なんだというのだろう。正直なところ、『外』というものが何なのか、よくわかっていない。
記憶のかけらを覗き込む。それは、かつて正しくキャルリアンだったものの残滓だ。感情の伴わない記録だ。その中から、外、の項目を探す。
――庭に植えられた、小さな花。
――父と母と手を繋ぎ歩いた商店街。
――浜辺を駆け回る彼女。濡れる足。弾ける水飛沫。陰の無い、無垢な笑顔。
それらはきっと幸せの象徴なのだと思ったが、今のキャルリアンからはあまりにもかけ離れたものの集合体で、彼女は僅かに尻込みした。
拒絶を受けて、助手はキャルリアンから離れていく。いや、キャルリアンがどう反応しても、あるいは一切の反応をしなくても、彼は離れていっただろう。タイムオーバーだ。元々、二人が言葉を交わす時間はほぼ皆無なのだから。今だって彼の上司である男の目を、一瞬、盗んだだけで。
与えられた苦痛により、虚脱する身体。疲弊する脳。考えを広げるには、現実から意識が遠かった。それに助手は既にキャルリアンを見ていない。だからキャルリアンは、黙って目を瞑った。それこそ先程の言葉は、自分が生み出した幻想だったかもしれない。
しかし助手は数日後、再び彼の隙を突き、キャルリアンに問い掛けた。
「あの件、考えてくれました?」
驚きで、目を見開く。
「……どう、して?」
なんの意図があるのか。何故そんなことを、キャルリアンに訊くのか。
助手の男は、曖昧に笑うだけで、他には何も言わなかった。
――外。
それはあまりに、荒唐無稽な話だ。想像すらできないくらい、遠い、遠い話。
是とも非ともわからない、遠い、遠い世界。
一瞬を積み重ね、キャルリアンは彼と会話をした。今のキャルリアンとして、それは初めて経験する『会話』だったかもしれない。
「外には何がありますか」
「伝えきれない程、様々なものが」
「それを知ったところで、私はどうしたら」
「何をしてもいいし、何もしなくてもいいですよ」
「どうして、私なんですか。他の人は……それに、貴方は?」
彼はその質問にだけは、決まって何も言わなかった。ただ曖昧に微笑むだけだ。
それでも、それだけの言葉の応酬で、キャルリアンは自分がまるで生きたものであるかのように錯覚できた。痛みだけではない、時の流れを感じることができた。いっそそれだけで満足していた。
――断ろう。
そう思った。外はあまりに眩し過ぎて、自分は太陽に照らされたら泡になってしまうかもしれない。だから、断ろう。救われる者は、痛みから逃げることができる者は、自分以外の誰かで良い。
だから。
……なのに。
「すみません」
彼は、彼女の枷を外した。一方的で、強制的な結末が、突然彼女の手に放り投げられた。
「待とうと思っていましたが、もう時間がありません」
「どういうこと、ですか?」
時間が無い、という言葉に眉を寄せる。
「私だけなんですか?」
キャルリアンは答えの得られない質問を繰り返す。自分だけで外に放り出されて、どうにかできる未来は描けなかった。それに彼女にはまだ、外に出る覚悟はできていない。それどころか、この施設から出ないと決めたところだったのに。
躊躇う彼女は、自分の腕を引く彼に引き摺られるようにして廊下を歩いていった。
「貴方は? 貴方は大丈夫なんですか?」
それに、自分がここを出たならば、きっと自分の代わりに、誰かが余計に痛い思いをするはずだ。そんな価値が自分にあると思うこともできなかった。
――それでも。
わかっていた。理解していた。ここまで来たら、後戻りはできないのだ。たとえそれが、他人の手によるものであろうとも。
……捕まったら、どうなるのかも。
どうでもいいと思っていたのに。ここが自分に相応しいと思っていたのに。
描いた『未来』を、嫌だと、怖いと思った。
どれだけ繕ったところで、……痛いことは痛いし、怖いし、嫌だ。
リリリリリリ、とどこからか警告音が響き渡る。キャルリアンはびくりと肩を震わせた。大丈夫です、と彼が囁く。
「警備が出てくるまでには、もう少し時間があります。さあ、これに着替えて。その服は目立つ」
差し出されたのは、薄汚れたボロ切れのような服だった。「早く」と急かされるがまま、キャルリアンは真っ白い服を脱ぎ捨てる。
「外はまだ明るい。貴方の目でもしっかり前を見て走れるはずです。ここから出たら、海に行きなさい。方向はわかるでしょう? 外には二つの道があります。人が多い方を選んでください」
こくこく、と必死に頷く。よろしい、と彼は満足げに笑う。
「海には港があります。そこには多くの船があります。港に着いたら、船に乗りなさい」
「船? どの船ですか?」
「そう、ですね……」
初めて彼の瞳に迷いが見えた。ややあってから答える。
「――潮の香りが強い船に」
「潮の香り……?」
わかるだろうか。キャルリアンは戸惑った。
「大丈夫。貴方なら、大丈夫です」
根拠なんてひとつもないだろうに、彼は穏やかに微笑んだ。
「そろそろ危ない。さあ行ってください」
彼は扉を開けた。
見たこともない道に、嗅いだことのない香り。キャルリアンは服をぎゅっと掴んだ。
怖かった。それに、どうして自分なのか、未だにわからない。
――それでも。
歯車は回ってしまった。
キャルリアンは唇を噛み締め、自分の意思で一歩を踏み出す。
「ああ、さすがは――」
彼が小さく、何事かを呟いたが、残念ながらキャルリアンには聞き取れなかった。
「キャルリアン」
呼び止められ、反射的に振り向く。振り向いてから、この名は自分のものなのか、と遅れて認識した。ああ、思えばその時まで、彼女は自分自身の――失われた彼女の名を、明確に思い出すことができずにいたのだった。
キャルリアン。
『貴方の名前は、海の女神からいただいたのよ――』
誰かが彼女に甘く優しく囁く。それもまた、遠い、遠い記録だった。
自分ではない『自分』の記憶。
遠い過去に揺れるキャルリアンに、彼もまた追憶するかのように言葉を絞り出す。
「私はきっと、貴方を逃がすことで、あの時の再現をしたいのかもしれない。それでいて私は、あの時とは違う結末を望んでいるんです」
悲しそうな顔だった。弱々しい顔だった。
どうして彼がそんな顔をするのか、わからなかった。言葉の意味も、何もかも。
外に出れば、その答えを得ることができるのだろうか。
「さあ、走って」
その言葉に背中を押されたように、キャルリアンは海を目指して走り始めた。
背後からは、リリリリリ、と警戒音が追い掛けてくる。
――そして彼女は、ガルドたちに出会った。




