海賊編(3)巨大な軟体動物の、足が一本。
「な、なんで追って来るんですか……!」
コンパスの差は大きい。早々に娘を捕まえ、「阿呆!」と怒鳴れば、涙目の彼女はジタバタと暴れた。放たれた拒絶の言葉に、我ながらどうしてこんな見ず知らずの娘を追って来たんだかな、と息を吐く。わけがわからない。放っておけばいいのに。
それでも口は勝手に動く。
「海は危険だ。ましてや嵐が来てんだぞ。しかも並みの嵐じゃねぇ。俺ぁな、下手な迷信なんざ信用してねぇんだよ。俺の船を理由に、誰かを無駄死になんざさせるつもりは無ぇ!」
言葉にしてから、なるほどそういうことか、と納得した。要は、自分は『自分の所為で娘が死ぬのが気に食わない』らしかった。死にたきゃ勝手に死ね、という考えは変わらない。だがそれが、ガルドのため、だとか、船のため、だとか、そんなふざけた理由で敢行されることだけは御免被る。
離してください、と弱々しく娘が抵抗する。
「あ、貴方の為では、ありません。私は、あくまで私の為に……なので、離してください!」
強い口調に、眉を顰める。この強情っぷりはなんだ。
その時である。グラリと船が大きく傾いた。
――嵐だ。
窓の外が一気に暗くなっていく。とうとう船が飲み込まれたらしい。クソッタレ、と悪態を吐きながら、壁に手をつき、揺れに堪える。
隙を突き、再び娘がガルドの手から逃れた。定まらない視界の中で、それでも手を伸ばす。指先は、しかし虚空を掴む結果に終わった。
「おい!」
焦りのままに叫ぶ。海に慣れたガルドでさえもそのままでは立っていられない中で、その女は平然としていた。声に反応してか、振り向く。揺れなど感じていないかのような足の動き。あまつさえ、浮かぶのは微笑みだ。
「……ありがとうございます」
何に対する礼だ。そんなもの、言われる覚えは一切合切無い。
問い詰める前に、娘は踵を返すと、揺れる船内を走り始めた。向かう先は甲板だ。何をする気なのか、など、訊く必要性すら無かった。
「やめろ、馬鹿野郎! 危ないっつってんだろうが!」
実際問題、危ない、どころの騒ぎではない。こんな荒波に飲まれたら、生還する可能性はゼロに等しい。
バタン、と外に続く扉が強い力で閉まる。それが吹き荒れる風の為だったのか、それとも外側から彼女が閉めたのかは、定かではない。
「くそ……!」
耳で音を拾う。風の音、物が動く音。様々な音に溢れる中で、人間が立てる音だけを選別して拾うのは、並大抵のことではなかった。
無造作に音を立てる嵐の中、平常時と同じように動く足音が紛れている。――これだ。
しかし何故あんな中で、まともに動けるんだ。疑問と同時に、バシャ、と女の身体が海に身を投じた音がした。遅かったか。舌打ちする。
どういうわけか彼女がそのまま死ぬとは思えなかった。これも勘だ。
よろめきながら、なんとか立ち上がる。
数歩進み、止まり、またなんとか歩き出す。そんなことを続けて数分、突然、海から光が弾けた。鋭く突き刺すような光は、次第に細く柔らかくなっていく。光が弱まるにつれ、先程までの嵐が嘘だったかのように鎮まった。
思うように動ける。それがはっきりした瞬間に、ガルドは走り始めていた。目指すところは甲板である。
ものの数秒で目的地にたどり着く。海を見下げれば、シュッ、と素早く白く、太く、そして長いものが海面から飛び出した。
表面に大きな吸盤がある。――巨大な軟体動物の、足が一本。
「クラーケン……」
先の嵐も、人知を超えた伝説級の化け物が起こしたものだったらしい。予知などできるはずもない。はっ、と苦笑する。
助かったのは、奇跡か、それとも――。
甲板に取り付けてある漁網を手に取る。ずっしりした重みのあるソレを、完全に勘で、海に投げ入れた。
「あら船長、何をなさっているの?」
のんびりした声には、よく聞き覚えがあった。
全身から水を滴らせ、頭にのっぺりとした海藻を引っ付けた男は、遅刻魔のシガタだ。海の男にしてはひょろりとした体躯、綺麗に磨かれた爪、口に引かれた紅が毒々しい。そこまでは、いつも通りだ。問題は、頭の上の海藻だ。――新しいお洒落か? んな馬鹿な。
「……お前こそ」
みなまで言わずとも、意図は伝わったようだ。シガタは、うふふー、と危機感の欠片も無く笑った。頭の上にあった海藻をさり気なくペイッと捨てる。
「外に出ていたら嵐に巻き込まれちゃって。恐かったわー、危うく死ぬかと思ったもの」
普通の人間なら、“危うく”どころか、普通に死んでいるところだ。恐かったわー、だのと語尾を伸ばして余裕をかましているこの男が、異常だ。
「速やかに避難すりゃ良かっただろうが」
「だって、寝てたのよ、アタシ」
どうやらいつもはどこかで寝過ごして遅刻する分、今日は早めに船に戻る代わりに甲板で寝て過ごしていたようだ。結局寝ていることに変わりはないのだが、それにしても災難だ。
気ぃ付けろよ、と呆れ半分に忠告する。
「はーい。で、船長は? その網は?」
「あー、これはだな」
網に何かが引っ掛かった。これだ、と本能が告げる。「引くの手伝え」と命じれば、「ご命令とあらば」とやけに芝居がかった口調で恭しく頭を下げるシガタ。そんなことはしなくて良いからさっさと手伝えや。凄んでみせると「んもう、冗談が効かないんだからぁ。せっかくいつもと雰囲気変えてみたのに」何故か不満げだ。変える必要がどこにある。そんなに余裕がある場面でも無いと、わかっているだろうに。いつでも、どこでも、あくまでマイペースな男だ。
一気に引き揚げると、ひゃあ、と悲鳴が響いた。網の中でもがいているのは先程身投げした女だ。もがけばもがく程、網が絡まっていくことには、どうやら気付いていないようである。
「はー、なんの生き物かしら、これ」
シガタの発言に、娘はびくっと身体を震わせた。かくいうガルドも、さすがに驚いていた。二人の視線は、彼女の下半身に向けられる。やらしい意味ではない。それだけの理由が、そこにはあった。
本来、人の二本の足が存在する場所には――まるで人魚を思わせる、大きな尾びれがついていた。
ぴちり、と尾びれが船の板を叩く。
「人魚……?」
海の守り手と称され、古くに滅びたとされる種族の名を呟けば、彼女は身体を震わせた。
へっくし! 隣から盛大なくしゃみが響く。ずず、と鼻を啜りながら「とりあえず、中に入りましょうよ、寒いわ」とシガタが提案した。




