海賊編(1)「あうおひゃんろへいえふ!」
船の窓から、朝日が差し込む。
島では人魚の仕掛けの影響か、少なくともガルドたちがいる間には、空が晴れたことはなかった。はっきりと目を突き刺してくるそれに目を細める。
「んぅ……」
机に向かっていたガルドは、背後から聞こえた呻きにも似た声に、振り向かないまま声を掛ける。
「起きたか?」
直後、ぴゃっ、という間抜けな悲鳴と同時に、がたんっと『何か』が落ちる音がした。それが何かなんて、問うまでもなくわかっている。
「あんたなぁ」
ガルドがため息交じりに振り向くと、案の定というべきか、ベッドから上半身がずり落ちたキャルリアンの姿があった。十中八九、起き上がろうとベッドに手を突こうとした際に、距離感を誤り、そのままずり落ちたのだろう。
白のワンピースが際どいところまで捲れ上がっているというのに、当の本人は何が起こったかわからないという表情のまま、目を白黒させている。
やれやれ。ガルドは肩を竦めると、席から立ち上がった。ものの数歩で、距離はほぼゼロとなる。両脇に手をやってそのまま持ち上げると、地面に下ろした。
「あ……」あがあが、と口を動かしている。近頃のキャルリアンは、以前よりも急激に感情が動いているようだった。今だってそうだ。顔を真っ赤に染め上げて、……かと思えば、おもしろい程にしゅんと肩を落とす。情緒不安定もいいところだ。
「ありがとう、ございます……」
礼を言う声は、ひどく落ち込んだものだった。
ガルドは、俯く小さな頭を見下ろし、困ったように片眉を動かす。実際、困っている。明らかにこちらを意識している行動だ。これまで自分に向けられていた無自覚なものとは明確に異なる。それくらいは、わかる。だからこそ困っている。
なんとタイミングの悪い。というのが正直な感想だ。せめてもう少し早ければ、ガルドの『別の部屋で寝るか?』の質問に対して、是と答えたかもしれなのに。
――とはいえ。
これは彼女自身の問題で、ガルドが自分から首を突っ込む類いのものではない。感情の糸が余計に拗れるだけだろう。
もし、ガルドにできることがあるとするならば。
自分の感情を見つめ直す、その一点のみだ。
放っておけない。でもそれは、恋愛感情ではない。単純に子供――それこそミリュリカやゾイに向けるものと同じだ。
…………だが。
本当に全く同じなのか、と問われると、何故か頷くことができない。
「参った……」
「何か困りごとですか?」
ガルドの声に反応したキャルリアンが、やに使命感に駆られた顔で、ひょっこりと目の前に出現する。彼女は自分の感情を自覚してからも、こういうところは変わらなかった。一瞬たじろいでしまったガルドは、その事実に無性に腹が立ち、「大丈夫だ」と言いながら彼女の頬をむにーと伸ばした。
「ひゃいひょうふやあ、あんえほっへ……!」
「何言ってんだ?」
「あうおひゃんろへいえふ!」
「全然わからん」
「うーっ!」
最後のはただの威嚇だろう。
ふはっと笑って手を放すと、キャルリアンは「むう」と口を尖らせた。
「悪ぃ」
じとっとこちらを見る目は、「悪いと思ってないでしょう」と責め立てるようだった。事実、笑いながら言っても謝罪にはならないことは自覚している。
「良いですよ」彼女はふいっと顔を背ける。「気が晴れたなら、それで良いです」
全く良くなさそうな顔で言うものだから、ガルドはますます声を立てて笑った。
要は、居心地が良いか悪いかで問われたら、良いので困っているのだ。
以前までは何をするにもおどおどしていた彼女だったが――いや、ここぞという時に負けん気を見せるのは最初からか――、今は落ち着いた表情で自ら言葉を発することが多くなっていた。それもあるのかもしれない。ずっと暗い表情をされていたのではこちらも気が滅入るが、彼女は嬉しい時には嬉しそうに笑うし、悔しい時は悔しそうにする――さっきみたいに。
研究資料の件だって――迷うと思っていた。彼女は。……彼女も。しかし予想に反して、あまりにも真っ直ぐに、人の背中を押すものだから。最初から、最後まで、真剣に背中を押してくるものだから。……正直、負けた気分になる。
だから、もし彼女が、ターリスの町に戻った時には――
――思考を邪魔するように、ガルドの耳に異質な音が届いた。
人工物の稼働音。
反応を示したのは、ガルドだけではなかった。キャルリアンもまた落ち着かない様子で視線を泳がす。
「これ、なんですか」
「船だな。一、……違ぇな、二船か」
生憎と何の船かまではわからないが、少なくとも味方ではないことは確かだ。
ガルドたちには、この船に乗っている者以外に味方はいない。一時的な協力者はいないでもないが、味方と呼べる程ではない。
「ここにいろ」
短い指示を出し、頭をぽんと叩くと、部屋を出る。
「待ってください、ガルドさん。私も行きます!」
後ろからキャルリアンがぱたぱたと追い掛けてきた。自ら手枷の鎖を持ちながら。
「…………」
最近、これの存在意義がよくわからない。
あまつさえ、ハイドーゾ、と鎖を差し出してくるこの娘の意図もわからない。
逆だろうが、普通。
自分の行動に関して何一つ疑問視していない姿勢に、そんな場合でもないというのに、頭を抱えたくなる。
「……勝手にしろ」
もう知るか、と諦め半分で鎖を受け取った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
甲板に出る。空も、海も、快調そのものだった。不穏な空気など一片たりともない。
それでもガルドは、その奥に紛れもない脅威が存在することを知っている。
「見えるか?」
「あの、私、視力は……」
ああ、と納得する。耳は良いが、目は人並みだったか。
ガルドは彼女から視線を外すと、水平線を睨んだ。ずっと、ずっと奥に、それは在った。二船。……中型船か。
否。それより何より、気になるのは。
「あの旗……」
船が掲げている旗は、見覚えのあるものだ。しかし、こんな場所で見掛けることになるとは、正直、予想していなかった。
「モールイン!」
『はいはーい、そんなに大声出さなくても聞こえてますってばぁ』
どこからともなく、モールインの声がした。あらかたの事情を把握、あるいは予想している彼に一から説明する必要は無い。
「まだ距離はあるが、前方、十二時の方向から二艦……ターリス騎士団の旗を掲げてやがる」
『ターリスの? そりゃまた不思議ですねぇ。彼らの見回り海域からはまだだいぶ離れているはずなんですけど~』
モールインが言うこともよくわかる。ターリスの騎士団は元来、防衛を基本とする組織だ。自国の領海を超えて出てくるようなことはまずもって無い。……何か特別な命令でも無い限りは。
もし仮に特別な事情があるとするなら、そこに今自分たちが絡んでいる件が全くの無関係だと考えられる程、ガルドはお気楽ではない。
『ぶっちゃけ、こちらの動向を掴んでいるとしか思えないですけど』
ぼそっと付け加えられた言葉に、全面的に同意する。もし騎士団がこちらの動きを掴んでいるとしたら、情報の入手経路は『宝の地図』の情報を持つ者に限られる。ガルド率いる海賊団がどこに向かい、いつ帰ってくるかを予測するには、その情報が必要不可欠だからだ。
ガルドの知り得る限り、条件に一致するのは、ガルドに情報を売った当人だ。
「……あんのクソ野郎、何やってやがんだ……」
盛大に舌打ちする。
元より強固な繋がりがあるわけでもない。だから仮に彼が誰かに情報を売ったとしても、致し方ない。そうはわかっていても、正直これ以上ことを荒立ててくれるな、というのが本音だった。こっちはもう自分のことで精一杯だ。
『このまま突き進むと、鉢合わせますよね~。どうします?』
「訊くまでもねぇだろが」
『もぉ~、ノリ悪いですねぇ、船長』
ノリを求めるな。
『ま、ノリの良い船長もキモチワルイですけどねぇ』
「喧嘩売ってんのか、てめぇ」
低い声で唸れば『おぉ怖い』とおもしろがっている声が聞こえた。
『じゃあ僕は、任務を全うしますんで~』
それきり、声は聞こえなくなる。――逃げたな、あいつ。
ふー、と息を吐く。あれだけふざけていても、彼の腕は確かだ。上手いこと最善を選び取るだろう。
脅威を先立って発見し、戦闘に入る前に回避する。あるいは、自分たちに有利な状況を作り上げる。それがガルド海賊団の強みだ。これは、ガルドの五感の鋭さと、モールインの判断力によって成り立っている。
「あの……ガルドさん」
キャルリアンがガルドの服の袖をくいっと引いた。
「前にいる船、左右に別れようとしています」
「左右に?」
言われ、再び船に目を向ける。彼女が指摘した海路の変更は、自分の目にも確認できない。
「どうしてそう思う?」
「水の流れが、二船とも変わったので」
ガルドにそれが正しいかどうかを判断する材料は無い。無いが、嘘ではないだろう。彼女はこの場面で嘘を吐かない。ガルドはそう信じている。
しかし、だとするとあちら側も、ガルドたちの船を確認したということになる。ガルドの知らない間に、この距離間でも相手の動きを把握することができる技術開発が成されたのか(そんな代物が、噂すら流れない程の短期間で完成したのなら、それこそ恐るべきことであるが)。
――あるいは。
ガルド並みの視力か、あるいはキャルリアン並みの聴力を持つ者が船に乗っているということだ。
(厄介だな……)
ガルドは心の中でのみ呟いた。
「モールイン、聞いたな。本気で取り掛かれよ」
『はーい』
やはりこちらの話をまだ盗み聞きしていたらしい。なんとも緊張感の薄い返事だが、……大丈夫、だろう。多分。
「どこに行くんですか?」
さっさと甲板を後にしたガルドを、キャルリアンが追い掛けてくる。
「食堂」
「食堂?」
予想外だったのだろうか。ぱちくりと目を瞬かせる。
「朝食、まだだろが」
腹が減ってはなんとやら。ここでずっと突っ立っていても仕方がない。モールインの手に負えなくなったら、彼は早々に『これ無理ですねー』と言うだろう。それまでは、万全の状態を保つ方が重要だ。




