人魚編(4)「隣にいるんじゃなかったのか?」
「全員いるな」
その『全員』の中には、双子の吸血鬼はいなかった。場の空気を読んだのかもしれない、と思ったのは、直後にガルドがこう発言したからだ。
「さっき双子と話して、ご対面の日が決まった。明後日の深夜だ」
一拍置き、「明後日……」と内容を刻むために復唱する。
それはまた、随分と急な話だった。いや、あれから幾日か経っている。納得できる範疇だった。
「用が済んだらすぐに出発する」
「んじゃ、僕はもうそろそろ奥へ引っ込みますかねぇ」
モールインが、くあり、と大きく欠伸をしてから、のったりと笑う。
「はいはーい!」
ミリュリカが真っ直ぐに片手を天井へと突き出した。
「リオちゃんとリロくんはどうするの?」
「あの二人は……この島に残るそうだ。今日話した」
彼のことだ、一緒についてくるかどうかについても、話したのだろう。ミリュリカは妙に静かな表情で、しばし黙り込んでから、「そっか」と息を吐くように呟いた。
「じゃあ仕方ないね。外も楽しいけど、ここにも思い出はたくさん詰まってるもんね」
「そういうこった。悲観的になる話じゃない」
よくがんばりました。そう言うかのように、ガルドはミリュリカの頭を優しく撫でた。
その瞬間、どういうわけかゾイの言葉が蘇る。
『たとえば、兄貴がミリュリカと一緒のベッドで寝てたら、どう思うッスか?』
――やっぱり、それは。
ふ、と表情が緩む。
キャルリアンにとっての幸福の象徴だ、と思う。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――当日。
雲はやはり空を覆っていた。暗闇の中でも、それがわかる。
リオとリロに案内されて辿り着いたのは、洞窟の入り口に程近い場所にある泉だった。透明感のある水は、おそらく月が出ている夜であれば、月光を浴びて輝くに違いない。それが見られないことがいささか残念ではあった。
「ここが宝の隠し場所ッスか?」
ゾイの発言は、その後ろに「本当に?」と懐疑的な考えが透けていた。
「信じないのは、そっちの勝手。でも、本当。リロたち、嘘は吐かない」
「そうじゃぞ~、初めから嘘と決めて掛かるとは、失礼なやつじゃのう」
ぷくっと頬を膨らませるリオに、「別に信じてないワケじゃないッスけど……」とゾイは口を尖らせた。
「で、宝は?」
「もしファニタが許したら、日付を超えた瞬間に姿を現す」
「どうやって?」
質問には答えず、顎で泉を示す。見ていろ、ということらしい。
夜の鳥が鳴く時間。普段ならとうに夢の世界へ旅立っているミリュリカは、くああ、と大きな欠伸をしている。船を漕いで、今にも眠りそうである。兄のドーザルが、転ばないようにと妹の小さな肩を両手で支えている。
かくいうキャルリアンも、少し眠い。もうすぐ明日に変わろうという時間だ。ごし、と手の甲で目を擦る。
「意外と冷えるな。大丈夫か」
「はひ……」
ふ、と息を吐く音がした。大丈夫じゃなさそうだ、と言いたげだ。
正直、寒さよりも眠気の方が問題だった。
日付が越えるまで、あとどのくらいの時間が必要だろう。
んー、と悩みながら、再び目を擦った時だった。
――こぽ……
水面が膨らみ、弾ける。次々と泉の底の方から、空気の泡が沸き出してきていた。こぽり、こぽりと閉じ込められていたものが、溢れ出す音。それは次第に細かい泡となり、ぶありと一気に広がったかと思うと、急に止まった。
次いで、ざばり、と水面を割る音がした。
「なんだ、……柱?」
キャルリアンの細い腕でも回せるくらいの、さほど太くはない柱。表面には苔が絡み付いていた。
やがて彼女の腰の高さまで突き出したところで、動きを止めた。
息を呑む面々の前で、更に数か所、泡が沸き出してきた。ちょうど、泉の中心に出現した柱へ案内するかのように。それらは水面から少し顔を出して停止した。
上を歩いていけば、泉に身を沈めることなく、一本だけ突出した柱の下へ向かうことができるだろう。
「どうした、行かんのか?」
リオが催促した。双子の吸血鬼たちも、この光景を見るのは初めてなのだ。目がきらきらしている。反対にリロは、ひどく冷静な顔つきだった。
キャルリアンはガルドを見た。
「ガルドさん」
声を掛けたことに、深い意味は無かった。
ただ、……なんとなく。
今、話し掛けたいと思ったのだ。話し掛けなければ、と。
彼はキャルリアンの声に反応することもなく、しばし動きを止めていた。やがて音を立てないように、静かに、長く、息をする。
そして、一歩踏み出した。
「滑るだろうから気を付けて」
リロの注意喚起に、軽く顎を引いて応える。
人間が一人しか通れない道。
ガルドはそこを進んでいく。
その背中を視線で追いながら、キャルリアンは微かな違和感に眉を顰めた。
このまま、彼を一人で――独りで行かせるのか。
背負いたい、とキャルリアンは望んだのに?
奪いたい、とまで思ったのに。
――このままは……嫌だ。
キャルリアンは、他の誰かが制止する時間さえ与えず、泉に飛び込んだ。
人間なら一人しか行けなくても、人魚なら共に泳げるのだ。
足の感覚が薄れ、それは次第に、太い尾びれの感覚へと変化する。大きく動かすと、ぐんと前に進んだ。水面から顔を出すと、遠退いていた声の束が一気に耳へと流れ込んできた。
「何やってんスか、アンタは!?」
「きゃあ! キャルちゃんの尾びれやっぱりキレ~イ!」
「ミリュリカ、いけない。あんまり身体を乗り出すと……落ちる」
「ゾイ、あんたも落ち着きなさい。行けるのは一人だけってこと忘れたの?」
慌てふためく一同の声に、静かに、心の奥の奥から絞り出したような声が混じった。
「ああ、あの姿、なんとも懐かしいのう」
「本当に……あの頃を思い出す」
彼女は――祖母は、見送ったのだろうか。耐えることが、彼女が示した覚悟。
でも、キャルリアンは祖母ではない。キャルリアンの覚悟が、ソレである必要はない。
だから彼女は真っ直ぐに、自分が追う人の顔を見上げる。
「あんた……」
「水の中でなら、私も一緒に進めます。ついてきちゃ駄目って言われても、ついていきます」
何やら思案顔をしたガルドは、むっつりとした顔のまま、キャルリアンの髪を一房すくった。
「駄目とは言わねぇよ。前に言ったろ。勝手にしろ」
やりたいようにやれ。
背中を押すようでもあり、突き放すようでもあるその言葉を、キャルリアンは笑顔で掴む。
まるでそれが合図であったかの如く、泉の中心へ突き出していた一本の柱が、青い光を放ち始めた。強く激しい光に目を細める。柱の先が、ぱかりと左右へ割れた。中を、何かうようよした半透明の何かが蠢いている。スライムっぽい。
控えめに言っても気色悪い動きに、キャルリアンはつい身を引いた。
「隣にいるんじゃなかったのか?」
「い、います!」
ガルドの揶揄に、慌ててむんと胸を張る。
よく見ると、ふより、と蠢くソレは、水の塊のように見えた。中に、紙束が包まれている。それらに濡れて破損した様子は見受けられなかった。これが仮に水の塊だったのだとしても、少なくともただの水ではなかった。
あまり好意的な印象を持てない姿見に躊躇しているキャルリアンと違い、ガルドはおもむろに、かつ大胆に手を伸ばし、液体状のなにものかをむんずと掴んだ。ぐにょりと形が歪む。
「ひゃ!」
悲鳴を上げ、近くにあったガルドの足先に、ちょんと手を乗せる――本当はぎゅっと掴みたいところだったが、不安定な足場でそんなことをしたら、ガルドが泉に落ちるかもしれない、という理性が寸前で働いた結果だった――。
一度手を離したガルドは、自身の手をぐっぱと握り直し、「なんともねぇな」と呟く。不可解そうに眉を寄せる。
「濡れもしねぇ」
「うむ。それは『保存用』だと、ファニタが言っておったぞ」
陸地方向から、リオの声が飛んできた。
「人体には影響は無い。……はず。多分」
「なんでそこは言い切らねぇんだよ」
普段ははっきり言うリロが言い淀むと、何かあるのではないか、と不安感を煽られる。
「触っても大丈夫、とファニタは言っていた。けど、リロは正直、それ、触りたくない」
「そう警戒することもあるまいて。ふよふよして面白いじゃろ?」
微かに顔を歪めたリロが、信じられないとばかりにゆるゆると顔を振った。
「……時々、リオは本当にリロとの血の繋がりが濃いのか、わからなくなる」
発言する勇気は無いが、キャルリアンもリロと同意見だ。これが安全だと言われても、できれば触りたくはない。
更に遠くから、「ふああ、あれ、美味しいのかなあ」と寝惚け半分のミリュリカの声が聞こえた。
「食べるって選択肢があるんスか!?」
ぎょっとするゾイに向かって、「試す価値はあるかもしれない」とドーザルが続く。彼の目には、見知らぬものは全て、未知の食材に見えるのかもしれない。
「試さなくていいッス……」
げんなりしているゾイに、キャルリアンは心の中で激しく同意した。これが調理されて食卓に並んだら、少し……トラウマになりそうだ。
「何くだらねぇ話をしてるんだか」
呆れ口調のガルドだったが、反面、いい具合に緊張感が解れていた。キャルリアンは、自身もまた、不自然な程に強張っていた肩の力が緩んでいることに気付く。
「みんな一緒で良かったですね」
ついそんな感想を零せば、ガルドはじろりとキャルリアンを一瞥した。
気分を害してしまっただろうか、と気に病むキャルリアンの耳にだけ届く、とても小さな声。
「……まあな」
たったの一言。
されどそこには、彼の本心が表れているように感じた。
ガルドの指先が、うよっとした塊の表層に触れた。そのままぐっと押し込めば、ぷつり、と何かが破れたかのような音と共に、指が中へ入り込んでいく。程なくして、左手全体が水に取り込まれた。
やがて、なんの抵抗も無く、彼の指先が紙束に触れる。
彼が探し求めていた宝。
それはすんなりと、水の塊から引き抜かれた。
彼はその場で、ぱらぱらと中身を確認する。
「探していたものでしたか?」
訊ねると、少し間を置いてから「ああ」と肯定があった。
「戻るぞ」
「はい」
静かな指示に従い、来た道を戻る。ガルドが陸地に両足を着いたところで、突き出していた柱は、出現した時と同様、順番に泉の中へと戻っていく。
それを肩越しに確認しながら、キャルリアンも陸へとよじ登った。びちん、と尾びれが地面を叩く。彼女の意思というよりかは、条件反射のようなものだ。打ち付けた拍子に、尾びれについていた水滴が跳ねた。
難しい顔のまま、手元の紙束を睨んでいたガルドが、ゾイの方へ顔を向けた。
「ゾイ、悪いが火を貸してくれ」
「あい」
手に持っていた灯りを、彼はそのまま兄貴分へと渡した。
「本当にいいの? 惜しくなったりしない?」
リロの確認に、ガルドはふっと笑う。
「しねぇよ」
先祖の『命』が記された書類を、火にくべる。ぱちぱちと爆ぜながら、端から一気に燃えていく。なくなっていく。消えていく。――一片の容赦もなく。
「……あっけねぇもんだな」
黒い燃えカスになっていく宝を見下ろし、ガルドはひっそりと、誰に言うでもなく呟いた。
確かに、そうかもしれない。
それは、彼が費やした時間と比べると、嫌になるほどあっけない終わりだった。




