人魚編(3)「だから、なんで俺に言う」
結局、三人が船に戻ったのはそれからしばらく経ち、日暮れに差し掛かった頃だった。ミリュリカは浮足立った様子で、それでもしっかと花を握り、船外まで出迎えに来ていたドーザルに飛びついている。
ふと上を見ると、赤をじんわりと纏った雲が広く空を覆っていた。
「なかなか晴れないなぁ……」
一人、ぽつりと呟く。
雲がなければ、星を見ることができるのに。みんなで星を見ることができたら、きっと楽しい。
――ターリスの港町に着く前に、それを経験できたらいいのに。
そうしたら、キャルリアンはきっと……
――す、と目を伏せた。
ひとつ、ふたつ。深呼吸をしてから、意気揚々と歩くミリュリカの後を追う。
前方に、ガルドとシガタが見えた。彼らは顔を突き合わせ、何やら話し合っている。
「シガタ、ガルド! ただいま~!」
「あら、おかえり。どうだった?」
「うん、綺麗なお花たくさんあったの。こーんな、視界いーっぱいに、広がっててね! すごかったんだよ!」
ミリュリカは身振り手振りを精一杯活用して、自身の感動を表現する。
「あ、これ、お裾分けね。シガタは橙色なの」
「良い香りね、ありがとう」
草の茎で根元を束ねたお手製花束を受け取ったシガタは、鼻を近付け、はっきりと漂ってくる香りに目を細めた。
ガルドも喜んでくれるだろうか。
出掛けざまに見た笑顔がぽんっと浮かぶ。途端に面白いくらいどきりと跳ね上がる心臓。その変化にキャルリアンは戸惑い、自身の胸に手を当てて首を捻った。
一人に一色ずつ、選んで摘んできたんだと説明していたミリュリカが、突然「ね、キャルちゃん!」とキャルリアンに話を振った。
「え?」
「ガルドにも、赤い花を摘んできてあげたんだよー」
「え!……あ、はい!」
あたふたしながら、ガルドに花束を差し出す。どうでしょうか、と上目遣いで様子を窺う。
片手でそれを受け取ったガルドは、眉を八の字にした。少し困っているように見える。その顔のまま、ありがとな、と口元を緩めてみせた。――少し、残念だ。その表情が見たかったわけではないのに。
どことなく気まずい気持ちに陥る。
「あとあと、聞いてシガタ! ゾイがキャルちゃんに迫ってたんだよ~」
がた、と背後で足を踏み外した音がした。
「ちょ、なに話を捏造してンスか! そんなのしてないッスよ! 事実無根! 兄貴、俺、ほんとにしてないッスからね!?」
「だから、なんで俺に言う」
ガルドはいささかげんなりした様子だ。どうかしたのだろうか。
キャルリアンが問うより先に、彼は口を開いた。
「いや、まあ、いい。それより夕食の後、集まれ。話がある」
くるりと踵を返したガルドの後を慌てて追ったのは、癖のようなものだったのか、それとも自分の意思か。
「またご飯の時ね~」
ミリュリカの明るい声を背中に受けながら、心なしかいつもよりも歩くスピードが速いガルドについていく。息が上がり始めたキャルリアンを一瞥したガルドは、「体力無ぇな」と一言。
「ご、ごめんなさい」
「別に。あんたにそれを期待しちゃいない」
――だから、疲れてもいい。疲れたと言っても良い。
突き放すような言葉の中に潜んだ優しさに、ぎゅっと口を結ぶ。そうしないと、必要以上にゆるゆるになってしまいそうだった。だって、彼はキャルリアンがついてきたことにすら、ひとつも文句を言わない。それはつまり、彼女が後を追ってくることを、許しているということだ。意識するよりも手前のところで。
「ありがとう、ございます」
先の言葉に対する回答としてはちぐはぐな礼に、ガルドは虚を突かれたように面食らい、自分の髪をぐしゃりと掻き回す。
「あー……花畑、楽しかったか?」
「はい。お花を見るのも久々だったので――いえ、……いえ。そうではなくて」
そう口にしてから、言い直す。彼は自分に記憶が無いことを知っている。なら隠す必要は無い。
正直に、自分の気持ちを口にしても、いいんだ。
心が震える。僅か恐怖と高揚と、はっきりとした幸福感を噛み締めながら、言葉を続けた。
「……私は花を見ることが初めてでした。あんなにふわふわしているんですね」
簡単に落ちてしまいそうな程、柔らかな花弁。風に揺れる葉。まったく同じようで、どこかが少しずつ違う形の花。
「そうかよ。俺ぁしばらく花なんて愛でてもいねぇし、愛でる気持ちも湧かねぇが……ま、あんたが楽しめたなら何よりだ」
ふっと口元を緩める。キャルリアンは彼の横向きの笑顔を目から脳へしっかりと刻み込んでから、目が合う前にと慌てて視線を外す。
多分、彼は自分が微笑んでいることになど、気付いていないに違いない。気付いたら途端にそれは、むっつりとしたいつもの表情に変わってしまうだろう。それがどうにも、勿体ないような気がしてならず、キャルリアンはばれる前に気付かなかったことにしたのだった。
「……花、どっか飾るか。水差さねえとな」
「私、押し花にしたいです。前に……やったことがある気がして」
もう一度やってみたいんです、と口にすると、ふうん、と彼は呟いた。
「どうすんだ? 言っとくが、俺はやり方を知らねぇぞ」
きょとん、と呆けた顔を晒す。ガルドにも知らないことがあるのだ、という純粋な驚きからだった。当然といえば当然のことに、キャルリアンは今更気付いた。
ぱちぱちとしきりに目を瞬かせる彼女に何を思ったか、ガルドは盛大に顔を歪めた。
「仕方ねぇだろ。俺には昔っから、花を楽しむ習慣は無ぇんだ。そんな柄でもねぇし、生まれもスラム街に近いとこだったから花なんざろくに咲いちゃいねぇし、あー、食える食えないはある程度判断できるけどな」
一呼吸で言い切ったガルドに、「はあ」と曖昧な返事をしてから、キャルリアンはにこっと笑った。
「じゃあ、私がガルドさんにお伝えできる初めてのことですね、押し花!」
「…………」
ガルドは何か言いたげな顔をした。その奥を読み取ることができずに首を傾げると、「なんでもねぇよ」と額を小突かれる。
「それより」じ、と彼は彼女を見た。「本当に憶えてるんだろうな、やり方」
「もちろんです!」
むん、と胸を張ったキャルリアンは、部屋に着くなり「早速取り掛かりましょう!」と握り拳を作って意気込んだ。
「まず、分厚い本を準備……が、ガルドさん、大変です。本が無いです!」
「……あー」
無駄なものがほとんどない部屋。そもそもガルドは本などとは無縁だ。
「何か別のモンで代用できんだろ」
「……えっと、これとか」
部屋を見渡したキャルリアンが恐る恐る持ち上げたのは、黒い手帳だった。ガルドが夜に開いているのをよく見掛ける。……日常的に使う物、という時点で、候補から外れそうだ。
「そもそも、それで、十分な重りになんのか?」
「……ちょっと……や、だいぶ……足りないと思います」
「……そもそも何時間必要なんだよ」
「えっと、たしか、三、四日くらい」
何時間、とかではなく。もっと長い。
回答が予想外だったのか、ガルドはぎょっとしてから、すぐに半眼でキャルリアンを見た。
「そりゃ、この部屋にあるもんじゃ賄えねぇな」
「……!」
そんな。がっくりと肩を落としたキャルリアンをよそに、ガルドは閉めたばかりの自室の扉を開いた。
どこに行くのだろう。呑気に彼を見送ろうとしていたキャルリアンに向かって、ガルドは肩越しに振り向く。
「倉庫になら、それっぽいもん転がってんだろ」
ぱっと顔が輝く。
「はい!」
キャルリアンは元気よく返事をした。
「――おい、そろそろ出るぞ。終わるか?」
「あ、はい。大丈夫です」
倉庫を物色し、『それっぽいもん』を部屋へ持ち帰り、ああだこうだと騒いでいたら――主に騒いでいたのは、キャルリアン一人だったが――、気付けば夕飯の時間が迫っていた。
ガルドの顔は、いつもよりもほんの少しだけ強張っている。
そういえば、この後何か、話があると言っていたっけ。
いったい、何の話だろうか、いや、この時期に全員に話すことなんて、ひとつしかない。
キャルリアンはきゅっと口を閉じた。
もう少しでいいから、この時間が続いて欲しいのに。




