人魚編(1)「最近、食器の持ち方を注意されました」
――近頃、ガルドの態度がよそよそしい……気がする。
調子に乗った所為だろうか。キャルリアンは以前に海岸線で交わした会話を思い出し、頭を捻る。
しかしどうも、嫌っているのとはまた別の気配がする。では何か、と訊ねられたら、困ってしまうのだが。
この人たちは、自分を蔑ろにしたりしない。認めてくれている。大事にしてくれている。そうやって一度認めてみると、世界の見え方は変わった。この世界にはどうやら、こんな自分でも認め、味方になってくれる人間がいるらしい。それは決して、悪意ではなく。打算があるわけでもなく。そういう奇特な人間が、ちゃんといてくれるらしい。
だから、冷静に見てみる。キャルリアンは、彼に嫌われてはいない。だが、よそよそしいのは事実だ。思い当たることは無い。
たとえ嫌われていなくても、精神的には、結構、辛い。
「おもしろいことになってるわねぇ」
「ほんとですねぇ。僕が奥に引っ込んでいる間に、外で何があったんですかぁ?」
「やだモールインったら、知ってたら教えてるわよ」
「あー、ですよねぇ」
少し離れたところで、シガタとモールインがひそひそと話している。なんの話だろうか。そっと盗み見ると、ばっちりと目が合った。驚くキャルリアンに向かって、シガタがひらひらと手を振る。つられて手を振り返した。
「キャルちゃ~~ん!」
背後からがばりと抱き着かれ、キャルリアンは小さく悲鳴を上げた。悲鳴よりも大きな鎖の音も響く。
首だけ動かすと、にぱっと笑みを浮かべているミリュリカと目が合った。彼女は、跳ねるような明るい声でキャルリアンを誘う。
「ね、今日、一緒に遊ぼうよ。何して遊ぶ? お散歩? お散歩しよ? 森に行こっ?」
「それ、選択肢、最初から無いじゃないスか」
トレイを片手に持ったゾイが、冷めた目で背後を通り抜けた。「なによう!」と口を尖らせたミリュリカをスルーして着席すると、ゾイはがつがつと朝食を口に放り込み始めた。いい食べっぷりである。少しだけ離れたところで、ドーザルが目を輝かせていた。
キャルリアンから身体を離したミリュリカは、彼女の正面へと回る。
「昨日探検してた時にね、花がぱあ~っと一面に咲いたところを見つけたの! キャルちゃんにも見せたくって!……駄目?」
上目遣いで問われて、キャルリアンは慌てて顔を横に振った。駄目じゃない。むしろ嬉しい。
視界いっぱいに広がるお花畑。それってどんな感じだろう。想像がつかない。
「わ、私も、見てみたい!」
「ほんと? よかったあ~」
ミリュリカと手を取りはしゃぎあう。ぴょん、と飛び跳ねると、じゃらん、と鎖が擦れる音がした。はたと気付く。
「あ、あの、ガルドさん、今日……」
「好きにしろ」
キャルリアンの言葉を遮り、投げやりとも取れる程、ぶっきらぼうな返事。同時に、すっと逸らされた視線に、胸がつきりと傷んだ。
「……?」
自分の胸に手を当てる。なんだろう。しきりに首を傾げる。
そんなキャルリアンの隣に並んだミリュリカは、むんと胸を張ってみせた。挑発的、ともいえる。
「ふっふー、奪還成功~! いつもガルドばっかキャルちゃんを独占してるんだもん。ずるい!」
「独占なんざしてねぇし、ずるくもねぇよ」
「でも今日はあたしが強かった!」
「何がだよ」
「友情の勝利なんだよ!」
「は、何と勝負してんだ」
「そりゃもちろん、恋あ――むぐ」
早業だった。気付いたら、ミリュリカの口に手を当てたガルドは「お前……正気か……」と顔を青褪めさせている。ミリュリカは、むすっとした顔で何事かをむごむごと訴えている。残念ながら、声が出せないようだ。
それにしても、彼女は何を言おうとしたのだろう。
「れんあ……?」
「気にするな」
ぽん、と頭を撫でられる。思考が止まる。
……久し振りだった。
そういえば、最近は頭を撫でられることも無かったように思う。
うにゅ、と口元が緩んだ。それだけで胸のずきずきが、少しだけ治まったような気さえする。なんでこの人の体温は、こんなにも心地よいのだろう。
両手を使って、緩む頬を隠す。
「それよりミリュリカ、お前の武器は森ン中じゃ不利だろ。……おい、ゾイ」
「え、兄貴!? 嫌ッスよ! なんで俺!?」
奥で我関せずの姿勢を貫いていたゾイが飛び上がった。思わぬ方向からの攻撃だったのだろう、目を大きく見開いている。
「お前が一番、狭い場所での立ち回りが得意だからな。悪ぃが、頼む」
む、とゾイが押し黙った。嬉しそうだ。嬉しそうなのに、わざと口をむっと結んでいる。でも喜びを隠しきれていない。口の端が時折、ひくりと動いている。
自分と同じような顔をしている、とキャルリアンは思った。
やっぱりゾイもガルドが好きなのだろう。
「ガルド、来ないの?」
口では「自分がキャルリアンを独占する」と言いつつも、実際のところガルドも連れていく前提だったらしいミリュリカが、不満げに眉を下げた。
「俺は今日、済ませておきたいことがあんだよ」
「え~……じゃあ、仕方ないなぁ、花冠作ってきてあげるね」
「へいへい、せいぜい楽しんでこいよ」
ガルドの手が伸び、キャルリアンの手首に触れる。どきりと心臓が跳ねた。
手枷が外れる。その用事だけを済ませ、早々に手が離れていく。
……ガルド本人も、同じように。
「たっ」声を上げたのは、衝動的な行動だった。「楽しんで、きます!」
驚いた顔で振り向いたガルドは、必死な形相になっているであろうキャルリアンを見て、ふわっと笑った。
「おう。転ばないようにな」
しばしの沈黙の後、ミリュリカが、ぴきんと固まっているキャルリアンの服の裾をくいっと引っ張りながら、囁く。
「キャルちゃん、顔、真っ赤」
「え……!? そ、そんなことは」
「やっぱ、いけめんのえがおは、反則だよねえ?」
「い、いけめ……っ!?」
あれでも顔はいいからさー。とけたけた笑うミリュリカに、反応できずに押し黙る。
朝食を食べ終えたゾイが、「俺、今日、この二人の会話に加わるんスか…?」とげんなりした顔をしていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
木々に周りを取り囲まれたそこには、微かに海の香りが風に乗って漂っていた。
「わああ……!」
一面に広がる花畑を目にした瞬間、キャルリアンの目は輝いた。色とりどり、多種多様な花々が、自由に咲き乱れている。
すうう、と思い切り息を吸い込んだ。潮と花の香りが混ざり合っている。少ししょっぱく、堪らなく甘い。不思議と身体を伸ばしたい気分になり、両手を思い切り空へと突き出した。
気持ちが楽になる、……気がした。
ぽす、と花の中に落ちる。
空に、最近は難しい顔をしていることが多いガルドを描いた。
「ガルドさんも来れたら良かったのに」
「ほんとだよねぇ」
同意を示しながら、ミリュリカもぽてりと寝転ぶ。ややあってから、ゾイもどこかに腰を下ろした気配がした。
「ガルドの用事ってなんだろ」
「そろそろ満潮の時期だから、ソレ関係じゃないッスか?」
「んー、何か準備あったっけ?」
「さあ? 知らんッス」
中身の無い会話がだらだらと続く。そこはかとなく、三人の語尾もだらりと間延びしている気もした。普段ならちょっとしたことで言い争いになる二人だが、今日はそんな気分にもならないらしい。
天気も良くて、風は気持ちよくて、花がゆらゆら揺れている。
「……眠くなってきました」
「右に同じく」
「あたしも。……ふぁあ」
大きな欠伸をしながら、ミリュリカは寝返りを打った。程なくして、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてきた。
「寝るの早っ」
ゾイが突っ込むが、本人は既に夢の世界へ飛び立っている。
「ミリーちゃん、疲れてたんでしょうか」
「あ~……どうッスかね。特別なことは何もしてないッスけど」
ただまあ、と言葉を繋げる。
「モールインさんが持ち場を離れるくらいッスから」
ぱちり、と瞬きをする。少し考えたが、しっくりくる答えは出ない。素直に質問する。
「……どういう意味ですか?」
「あの人、少しでも警戒心があると、操舵室からも出てこないんスよ。でも今は出てきてるっしょ。モールインさんが気を緩めるなんて滅多にないことだから、俺らもつい、気が緩むんスよ」
面倒がられるかと思いきや、ゾイは思いのほか丁寧に回答してくれた。彼もまた、気が緩くなっているのかもしれない。
なるほど、と頷きながら、首を捻る。
そんな中でも、ガルドはまだ、気を休められていないのか。
先の話を思い出す。初めて知った、彼の葛藤。
何か自分に、できることがあればいいのに。
上半身を起こし、真っ先に視界へ飛び込んできた赤い花を摘む。燃えるような色。彼を彷彿とさせる色。元気をもらえる色。……安息を与えたくなる色。
指先でくるくると回す。無意識に、花弁の動きを目で追っていた。
「……アンタ、兄貴となんかあったんスか?」
「え?」
突然の問い掛けに戸惑ったのには、いくつか理由があった。
一つ目は、ゾイから質問が飛んでくるとは全く予想していなかった話題だったこと。
二つ目は、それが今、自分が一番気になっていたことだったため。
他にも理由はあったが、大きくはこの二つだろう。
「ゾイさんも気付いていたんですね」
「そりゃあまあ、あんだけあからさまなら」
兄貴らしくもなく。ゾイはそう言い、そっとため息を吐いた。
「私、何かしちゃったんでしょうか……」
「むしろアンタ、最初っから何かしらしちゃってると思うんスけど」
何を今更、と鼻で笑われる。だがその言葉には、妙に納得してしまった。そうだ、出会い頭からキャルリアンはいろいろとやらかしていた。覚えはいくらでもある。
だからこそ、どうして今、という疑問が禁じ得ない。
「思い当たること、ほんっとに無いんスか? 最近の出来事で、変わったこととか」
「変わったこと、ですか。うーん、……あ、最近、食器の持ち方を注意されました」
「そういうんじゃなくて」
即座に、真顔で却下された。何がいけなかったのだろう。
「――あ、そういえば、別の部屋で寝たらどうかって言われましたよ」
急にそんな話題が出て困惑したから、よく憶えている。結局、うやむやになって終わったが、あれはいったい、どういう意図があったのだろうか。もしかして、ベッドを占拠されることに耐え切れなくなった? 一人用ベッドに二人で寝ているのだから、それはもちろん狭いだろう。だが、……何故、今?
この『何故、今なのか。どうして、今なのか』というのが最大の問題だった。疎まれる理由はいくらでも思い付くが、最近になって、という条件に一致するものがいまいち見つからないのだ。
うんうん唸るキャルリアンの前で、ゾイが訳知り顔で手を打った。
「へえ、ナルホド」
どういうことか、と目で訴える。だが彼は意地悪なことに、今度は答えを教えてくれるつもりは毛頭無いようだった。




