海賊編(4)「一矢報いてやりましょう」
キャルリアンは、静かに息を吐くように、問う。
「ガルドさんは、どうしてそれをご存じなんですか?」
双子の吸血鬼は、そんな話はしなかった。しなかったどころか、ファニタの病気を「大したものではない」と言った。知っていたはずなのに、そう口にした。
十中八九、意図的に。
「俺は母親から聞いた。普通の子供として育てることができたら、話すつもりはなかったんだろう。だが俺は、……普通の子供とは違ったからな」
肩を竦める。五感に優れていることは隠せても、傷の治りが異常なまでに早いことは、隠しようがなかった。居住まいを正し、大事な話がある、と母から告げられた時には、ガルドも薄々自分は『何かが違う』と察していた。
「病気に罹ったファニタのため、病気に罹るかもしれない自分たちのため……捨てるという決断はできなかった。親父はそう語ってたんだそうだ」
種族ゆえの病気に侵された人魚の姿は、将来のガルドの姿かもしれない。
それを知っていなさい、と母は鋭い声を出した。今にして思えば、その声は少しばかり震えていたかもしれない。
双子の吸血鬼は、あえて言わなかった。
彼らはその矛盾で、これまで苦しんだのかもしれない。ならばいっそ何も知らせずに、と思ったのか――最初から知らなければ、悔やむことすらない――。
あるいは単に口にしたくなかったのだろうか。自分たちを苦しめ、自分たちの生きる場所を奪ったその行為から生まれた情報を、自ら守らざるを得なかったことを。それによって、それらの行為が正当化できてしまうことを。自らの身に降りかかった理不尽な仕打ちが、自分たちを救ったのだという事実を。
「当時は、それでも捨ててやるつもりだった。それがなんだ、それがどうした。そんなものが怖いもんか。俺たちを研究動物として扱ったような、そんな胸糞悪ぃもん、俺が破り捨ててやる。そう思ってたんだ」
――父が捨てられなかった研究資料を燃やす。
今思えば、その決意は、何も告げずに消えた父に対する一種の復讐でもあった。
十六で家を飛び出し、海に出た自分が、必死に縋りついた目的。
母の話では、航海の中での出来事や、海賊が人魚との間にもうけた子供の話も出なかった。あくまで聞いたのは、父がある研究機関から逃げ、大海賊ドンペルクに匿われたこと。その内の一人が病気に罹り、その対策を練ることができたのは、機関から奪った研究資料があったからだということ。この二点のみだ。
今、この問題に関係しているのは自分だけだ。それなら、全部破棄してしまえばいい。
そう思っていた甘さが、確かにあったのだろう。
だが、自分だけではなかった。
どこかから逃げてきた人魚にもまた、選択する権利がある。
否、もっと単純な話か。
……自分は、迷っているのだ。
人魚に発症する病気。それは既に、少なくとも二例は出ている。実際の数は、それ以上だろう。キャルリアンが発症する可能性も十分にある。
発症時、資料があれば助かるかもしれない。
――彼女が救われる権利を、自分が奪っていいのか。
幼い頃から決めていたはずの想いが、絶対に揺らぐはずのなかった決意が、ぐらぐらと揺れる。
決断までの猶予期間が設けられたことに一番安堵しているのは、もしかしたらガルドなのかもしれなかった。それがただの、問題の先延ばしだとしても。
キャルリアンの問いの答えは、『はい』だ。
ガルドは、迷っている。
自分が奪うかもしれない未来に、躊躇している。
「私は、賛成します」
屈託なく、キャルリアンは笑った。拙い言葉を、重ねていく。幾重にも。
「何が正しいかも、誰が正しいかも、私には難しくてわかりません。でもガルドさんの憤りは……ほんの少しだけど、私にもわかると思います。だから――」
そこまで言い、彼女は視線を彷徨わせた。やがて覚悟を決めたように、むんと胸を張り、両手を強く握った。
「一矢報いてやりましょう」
ガルドは言葉の強さに驚き、鋭い光を宿した瞳の奥を覗くように、じっと見つめた。
攻撃・反撃を意味する言葉は、これまでの彼女からは想像ができないものだった。だから、それがガルドを元気づけるためにその場しのぎで口にしたものなのか、それともなんらかの本音が秘められているのかを確認したかった。
――見つめる先で、光がぐらりと揺らいだ。
案の定、と言うべきか。自身が覚えたものは、安堵か、失望か。どちらともつかない。どちらでもないような気もする。
彼女は肩を窄めた。ごめんなさい、と何故か困り顔で頰を赤らめる。強い言葉を使った自分に照れているのか。
それはあまりにも正直で。大きな問題を前にして、あからさまにどうでもいいことで。なのに彼女が真剣に照れているようだから、思わず、ふっと笑ってしまう。
笑いを堪えられなかった顔を、そしてそれに動揺した自分を隠すように、ガルドはキャルリアンの頭を鷲掴みにして、細い髪をわしゃわしゃと搔き乱した。彼女の頭は、片手ですっぽりと収まった。相変わらず小さい生き物だ。
「ガキが変な気遣いしてんじゃねぇよ。……気を遣わせるような話をした俺が悪ぃんだがな」
なにやってんだか、と項垂れる。十六の自分でさえ衝撃を受けたのだ。いずれ起こり得る、種族ゆえの障害に。それをよりにもよって、少なく見積もっても自分より一回りは年下の人魚に聞かせるだなんて、どうかしている。
自分が混乱していたから、なんて言い訳に過ぎなかった。自分一人が背負うと決めていたものを、押し付けてどうするつもりだ。
「忘れてくれ。言われてできるもんじゃねぇが、できる限り忘れろ。頼むから。我ながら、どうかしてたんだ」
ふっと息の呑む音がした。次いで、これまた彼女にしては珍しく、苛立った声。
「嫌です」
ふつふつと湧き上がってきた怒りを、静かに押し留めている。どことなく、そこには悔しささえ滲み出ていた。彼女の負の感情は、これまでに何度か見た。しかし、今目の前に曝け出された感情は、初めて見たように感じた。
何故か。問うて、――見つける。
彼女が、自分を責める様子は何度も見た。けれど、他人に対して怒っている様は、初めてだ。
今、キャルリアンは、ガルドに対して怒りを見せている。
きっ、とガルドを睨んだ彼女は、しかし次に自分の中に生まれた感情に戸惑ったのか、忙しなく視線を動かした。いつかのように爪を噛もうとし、やめる。
足掻いている。何かに対して、彼女は必死に抗っている。
やがて静かに、そしてただ真っ直ぐに、ガルドへと視線を固定させた。
「前に、ガルドさんの大事な秘密を教えてもらいました。今度は、私の秘密を聞いてくれますか?」
「秘密?」
逃げ出す前の生活のことか。そう呟けば、ふるふると首を振った。顔を背けないガルドを見て、彼女は自身が持つ秘密を告白した。
「私には、十三歳より以前の記憶が無いんです」
垣間見えたのは、懺悔であった。記憶が無い自分を恥じ入っている。
「今の私が生まれた時には、私の周りに家族はいませんでした。だから、自分の母も、父も、ファニタさんという名の祖母も、祖父も、私自身のことも、私は知らないんです。――いえ、正確に言うと、断片的にはあります。でもそれが私には、自分のことだと認識できなくて。確かに『私』の記憶なのに、……ただ、あるだけなんです。本当にそれが私なのか、自信が無いんです。私と『私』が、どうしても繋がらないんです。だから、ひょっとしたら――」
彼女はそこで言葉を切った。ふるりと唇が震える。
「私が、以前の私を、殺してしまったのかもしれない。そう思っていました」
「……あんたにそんな度胸があるとは到底思えないがな」
思わず飛び出たガルドの感想に、キャルリアンは困ったように苦笑した。
「私も、そう思います。――そう、思えるようになったんです。ここに来て。ガルドさんたちに会って。夜の星を綺麗だと感じるのも、友達とお話しすることが楽しいのも、喧嘩が嫌なのも、傍にいたいと願うのも、……全部、私。だから、私は少しだけ、空っぽの私を、空っぽじゃなくなった私を、信じられるようになりました」
ありがとうございます、と彼女は目を瞑る。温度を感じる、柔らかな笑みを浮かべて。
そっと手を、胸に添えた。
「だから、貴方から貰った言葉を、忘れるのは嫌です。貴方が口にしたことを後悔した言葉だって、私にとっては宝物なんです」
「宝物、ねぇ……」
よくもまあそんな言葉を選んだものだ。
小恥ずかしい気持ちを誤魔化すように、がしがし髪を掻く。静かに笑みを湛えるキャルリアンの姿は、不思議と神々しかった。ガルドがロマンチストであったら、聖女のようだ、と思ったかもしれない。いや、そんなことを考えている時点で、どうも調子を狂わされている。
ともあれ、彼女が怒りを抱いた根源は、わかった。記憶が無いことを恥じている彼女が、忘れろ、と言われたなら、当然気分は良くないだろう。なるほど、と納得する。
「それに」
彼女はゆっくりと瞼を持ち上げた。
終いだと思っていた言葉に、更に繋げる。
「私、嬉しかったんですから」
目の前の小さな娘がそう口にした途端、ガルドは目を見開いた。




