海賊編(3)「みんなで笑顔になる瞬間のためだよ」
「やがて年頃の娘っ子になった彼女は、ドンペルクの子分と恋仲になっての」
「幸いなことに、あの子に流れる人魚の血は薄かった。なんの特別な能力も持たない。だからリロたちは望んだ。この子なら、普通に生きられる。普通の人間として、普通の町で、普通の幸せを。リロたちができなかったことが、できる」
「元々、あの子をここに留めていたのは、わしらの我儘でもあったからの。喜んで送り出した。……その後のことは、そっちにいる人魚の子の方が詳しいじゃろう。わしらは、あえて訊きたくはないがのう」
楽しそうに語っていた表情が一転、暗い感情に取って代わる。
キャルリアンはそっと顔を伏せた。居心地が悪そうにも見える。手と手が触れ合う面積が、心なしか、増える。
出会った時、彼女は何者からか逃げていた。たった一人で。それから一度も、両親について彼女の口から話を聞いたことは無かった。もし彼らが無事だったならば、あるいは、生きていると信じることができる状況ならば、少なからず気にするだろう。それが一切無かったということは、……つまり、口にできるものでない、と推測できる。
引き止めていれば何かが変わっていたのかもしれない。ぽそぽそと零した言葉に、反応できる者はいなかった。ああしていれば、こうしていれば、と仮定したところで、選んだ道を変えられるわけでもない。失ったものを取り戻せるわけでもない。
わかっている。
ただ、頭がわかっていることを、心が受け入れられるかどうかは、また別の話だ。
「あの子が島を出る時に、ファニタは石碑に文字を刻んだ。見たじゃろう?」
『貴方よ、どうか幸福でありますように。再び見えることが、もはや二度となかろうとも、貴方の幸せをただ祈ります。共に手を繋ぎ眠ることができぬのならば、夢に落ちた先で愛を紡ぎましょう。貴方に与えられたもの、貴方に与えたもの。それら全てを、繋げるために。託された物を、託すべき者の手に。』
ファニタが家族に贈った言葉だ。
二度と会えない、遠い地で暮らす娘に。
隣に立つことができない、海を渡る夫に。
長く続く平和を。誰かと手を重ねて生きる幸せを。ただ、願ったものだ。
「どうしてわしらじゃったのか。どうして、あの子じゃったのか……」
ただ、笑って生きたかっただけだったのに。
リオがきつく唇を噛んだ。手が届きそうだった分だけ、苦しみは増すのか。
「どうして、って」
溢れた涙をぐしぐしと擦り取りながら、ミリュリカが不思議そうにぱちぱちと目を瞬かせた。
「リオちゃんたち、一緒に航海していた時、楽しかったんでしょ?」
「楽しかった」
躊躇することなく、リロがすぐさま断言した。
だから、そのためだよ、と。ミリュリカがけたけた笑う。
「みんなで笑顔になる瞬間のためだよ」
辛さを耐え忍ぶ長い時間は、全てはその瞬間のためにあるのだ。そうに違いない。
「リオちゃんたちがいたから、あたしは初めて、女の子のお友達ができたんだもん」
野菜と肉を豪快に挟んだパンにあぐりと噛み付き、ミリュリカは隣にいるキャルリアンの肩へ寄りかかる。びくりと肩を震わせたキャルリアンは、ふわふわ笑う友人を見て、やがて身体の力を抜いた。
あまりにもあっけらかんとした主張に、深刻そうな顔をすることも忘れたリオとリロは、あんぐりと口を開いて、阿呆面を晒した。数秒間固まった後、どちらからともなく顔を見合わせ、笑い出す。
「ああ、ああ……そうじゃったのう!」
「一緒にいろんな場所を巡った五年は、あらゆる苦行よりも価値が高い」
「島に移ってからの生活も、おもしろかったしの」
笑いが止まらない二人に向かって、ミリュリカはしきりに首を傾げている。
「アンタ、ほんっと能天気ッスねぇ……」
いつものように憎まれ口を叩いたゾイの口元も、よく見れば微かに緩んでいる。
なによう、と頬を膨らませたミリュリカだけが、不服そうだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
結局、ピクニックをしたのは、その一回だけだった。
あとは各自、自由に行動していた。船内の部屋で休んだり、島を探検したり……過ごし方は様々だ。唯一、食事の場でのみ全員が顔を合わせる。途中からは「人魚の加護があるってんなら、ちょっとくらい離れたっていいですよねー」とへらへら笑うモールインも参加し始めた――こんなことは滅多に無いので、ミリュリカがはしゃいでいた――。ついでに、何故か双子の吸血鬼も、その時間になるとどこからともなく顔を出す。相当、飢えているようだ。美味い飯にも、……人との会話にも。
昼食後、浜辺を目的もなく歩きながら、ガルドはがしがしと頭を掻いた。
調子が狂う。見るからに楽しそうにしているリオと、無表情ながらも微かに頬を赤らめるリロの姿を思い出し、はあ、とため息を吐く。
……ガルドが宝を持ち出した場合、守るべきものを失った彼ら二人は、どうするのだろうか。
「何か、悩みごとですか?」
じゃらり、と鎖が音を奏でた。
森の中では極力外している、ガルドの腰ベルトとキャルリアンの片手を繋ぐ鎖。船内にいる場合や、こうして浜辺をただ歩くような場合には、未だに存在するそれ。
わざわざ船にまで現れたリオが言い放った言葉を思い出す。
「鎖とは……特殊な性癖じゃの」
「違ぇよ」
「案ずるな。世の中には、そういう者もおるからの」
「違ぇっつってんだろうが!?」
明らかに引いているリオを怒鳴りつけたものの、あれは……誤解が解けたわけではないのだろう。
ふざけるな、と言いたい。誰がこんな小娘を鎖で繋いで興奮なんかするものか。
「ガルドさん?」
再三の呼び掛けに、ようやく我に返る。返事が無いため催促したわけではなく、渋面を作ったガルドの顔色に不安感を抱いたのだろう。
……そもそも、この娘が自由に動き回ることに慣れたなら、鎖なんか付ける気は無い。
靴を履いた白い脚をちらりと盗み見る。ぎこちない歩き方も最初よりはだいぶマシになった。この分なら、そのうち自分の足だけでも安心して歩けるだろう。自分で、歩く道を決めて。
そう思ってから、また舌打ちする。
――『そのうち』。
それはいったい、いつのことだ。自分はいつまで、彼女を船に置くつもりでいるのか。置き去りにすることは簡単だが、彼女には一人で世間を渡っていける程の器用さは無い。おそらく性格的な部分が大いに影響しているため、この先も大きな改善は見込めない。わかっている。
「ガルドさん、体調悪いんですか?」
以前ならば舌打ちひとつで、びくびく震えていたくせに、今は更に顔を覗き込もうとしてくる。
「別に、体調は悪かねぇ」
「なら悩みごとですか」
最初の質問に戻った。
無言を貫くと、彼女は困ったように眉尻を下げた。
「……迷っていますか?」
「なに?」
「リオさんたちが守ってきた物を、処分すること。迷っていますか?」
「…………」
無言と肯定に、果たして差があったかどうか。
それでもキャルリアンは、ガルドの返答を辛抱強く待っていた。
やがて根負けしたガルドは、はあと大きくため息を吐くと、砂浜にどかりと腰を下ろした。
あんたも座れば良い、と促すと、彼女はガルドの隣にちんまりと座る。
乱暴に掴めば折れてしまいそうな細い腕で膝を抱えている少女を横目で見る。
小さいな、と漠然と思った。
その体躯で、キャルリアンはしかし怯まず、じっとガルドを見つめている。
「――どうして、双子の吸血鬼は、大海賊ドンペルクは、……俺の親父や、お前の祖母は……、忌まわしいと思っていた資料を、破り捨ててしまわなかったんだと思う? 後生大事に、取っておいたんだと思う?」
「それは……」
悩ましげに眉を寄せる彼女の回答を待たずに、正解を口にする。
「捨てられなかったんだ」
捨てることができなかった。――大事な仲間のために。
「人魚の研究は、だいぶ前から行われていた。ファニタよりも前から。……『魚化』に対する情報も、そこには載っていた」
「魚化? ……ファニタさんの病気ですか? 鱗が出たっていう」
首肯で答える。
「あいつらは言っていなかったが、症状が進めば物理的に陸上で暮らせなくなる。水中の……それも、特定の条件下でなければ駄目だ。実験結果のひとつに、……病気が原因で、水中で窒息死したと書いてあった」
死に様さえも、事細かに記されていたそうだ。どんな風にもがき苦しみ、どのように生き絶えたか。死ぬ瞬間まで人魚はただの研究対象、実験動物であった。
その事実は、ガルドたちを突き刺す。
だからこそ真っ直ぐ、彼女を見つめて口にした。彼女は決して目を逸らさなかった。




