海賊編(2)なんとも傍迷惑な人魚である。
「五年は一緒に、いろんなところを見て回ったかのう……」
当時の船旅を追想したリオが、表情を柔らかく緩めた。あれは楽しかった、とひそやかに零す。
「途中で見たサーカスなんて愉快じゃったの。あんなのわしらでもできる、と大声で言ったら、キレたサーカス団長に、じゃあやってみろと駆り出されて……」
「芸ができるとわかった途端、拉致されそうになった」
「一度わざと捕まってやってから、悠々と逃げてやろうと思うとったら、ドンペルクが先に一網打尽にしての」
「あの時は、ファニタもかなり怒ってた。彼女のパンチは痛かった」
「ガルディウスは今にも泣きそうじゃったの」
「彼は初めにピエロが出てきたあたりで、既に泣きそうだった」
「あやつ、まだ九つだったかの?」
「そう。誕生日の前日だった」
握り飯を口に押し込む。中に入っている不思議な味のする具を咀嚼しながら、初めて聞く父の幼少時代の話に、脱力する。ドンペルクのイメージが崩れるのと同時に、自分の父のイメージもがらがらと音を立てて崩れていく。
自分善がりな持論を展開し、母と自分を置き去りにした、無責任な男。今となっては、生きているかも死んでいるかもわからない。――ガルドにとって、『父』はそういう存在だ。実体の無い、ただの符号。
それが、リオとリロの話を聞いていると、崩されてしまう。ガルディウスという人物が、実在する、自身の意思で考え、感じ、成長し、自らの足で生きていた存在であることを、思い知らされる。
「貴方たちが相当な問題児だったというのはよくわかったわ。その子にとっては、散々な前夜祭だったでしょうね」
シガタが真顔で言い放った。リオがぷくりと頬を膨らませる。
「あやつときたら、『なんで大人しくしといてくれないの。おかげで慌ただしく出航するはめになったじゃない』なんて生意気な口を利きおっての。一番年下のくせに」
「でもリオちゃん、すっごく楽しそうだよ。……どうして、五年だけだったの?」
ミリュリカの放った無邪気な質問に、リオとリロは顔を見合わせた。どちらから口を開くか、譲り合っているように見える。
最終的に、口を開いたのはリオだった。
「ファニタに病気が見つかったのじゃよ」
「だから療養のために……ゆっくり生きられる場所に移ることにした。それが、ここ」
「病気……?」
そう、病気。リロが頷く。
「それも、ただの病気じゃない。人魚特有の病気だ」
「しかしあれは、実のところ病気と呼ぶかも微妙じゃの。人魚の本来の姿なのかもしれぬ」
ミリュリカが、キャルリアンを気にする素振りを見せている。人魚特有の病気――キャルリアンも発症する可能性があるのだ。
「どんな病気なの?」
「なあに、皮膚に鱗が生えるだけの病じゃよ。結果的には、それ以外の症状は出なんだ。じゃが……それだけの症状でも、外で暮らすにはいささか困ったことになってのう」
目立ち過ぎるのだ。悪い方向に。
彼女にとって幸運だったことは、長い航海の経験を経たドンペルクが、身を隠すのに最適な土地を知っていたことだ。そうでなければ、噂は世界を駆け巡り、彼女が平穏に暮らすことはできなかっただろう。
「それでファニタとわしらは島に住むことにしたのじゃ」
「ドンペルクさんは、ここには残らなかったの?」
「彼自身は、心からそれを望んでいた」
リロは当時のことを思い出したのか、表情を曇らせた。悲痛な色が見え隠れする。
「でも、できなかった。彼が身を隠せば、世界中の者がみな、彼を探す。彼の財宝を求めて。……少なくとも、その段階で身を隠すことはできなかった。ファニタのためにも」
本当は、傍にいられるのなら、宝なんて捨てたっていい。
ドンペルクはそう言った。それから続けた。でも、それでも駄目だ、と。ドンペルクが本当に宝を全て捨てたところで、周りは思うだろう。
『彼はもっと大きな宝を隠しているに違いない!』
そしてそれは、ある意味では間違っていなかった。
彼は、大事な彼女を守るためにも、それまでと同じ生活を続ける他なかった。
愛おしい彼女と別れ、海に出た。頻繁に帰ることはできない。だから、数年に一度だけ、帰ってくることを約束した。
ファニタが亡くなるまで、彼が亡くなるまで、それは続いた。
ぐす、とミリュリカが鼻をすする音がした。感情移入し過ぎだ。
そこでふと気になり、キャルリアンの顔を窺った。案の定というべきか、彼女は顔を強張らせていた。第三者として聞くには、近過ぎる距離。近過ぎる事情。彼女もまた、どこかから逃げ、何かから追われている。自分の未来を宣告されているようにさえ思えるのだろう。
「…………」
何かを堪えるように強く土を掻く白い手に、やや触れる位置へ手を動かす。手の甲越しに微かに伝わる体温に寄り添った。
視線は森へ逃がす。隣に座る娘が驚いて身動ぎした気配を感じ取ったが、努めて無視した。
体温が離れることは無かった。
「ガルディウスはドンペルクについていくと言い張っての。外の世界に興味があるからと言っていたが……一人にするのが嫌じゃったんじゃろ。小童なりに、繋ぎとめようとしておったのじゃろうなあ。生意気なやつめ」
「それからしばらくして、ファニタが子を身籠っていることがわかった」
「もうな、パニックじゃよ、パニック。わしら三人とも、子供なんて産んだことないしの」
「そもそも、リロは性別上、無理」
「……アンタ、男だったんスか」
「女に見える?」
不服そうなリロに、「あ~……」と曖昧な反応をするゾイ。中性的な顔立ちをしたリロは、綺麗な男の子にも、綺麗な女の子にも見える。だが、もし『当ててみろ』とクイズを出されたなら――おそらく、不正解になる。
「そりゃあ、わしが超絶美少女なんじゃから、双子のお主も美少女に見えるに決まっておろう」
「……リオ、美少女だったの? 初めて知った」
「見慣れておるからのう。気付かなんでも、仕方ないことじゃ」
そういう問題だろうか。突っ込みたかったが、やめておいた。吸血鬼の双子の顔立ちが綺麗なのは、腹立たしいことに事実だったので。
何故だかは理解できないが、双子の片割れの発言に納得したらしいリロは「そういうことなら仕方ない」と不服申し立てを取り下げた。
「とにかく……話を訊ける相手も、探りを入れる相手もいないしの。せめて、とそこらの獣たちの出産を見学したんじゃが」
したんスか、とゾイが引き攣り笑いをした。妊娠中の獣など、気が立っていて、とても近寄れたものではない。普通の人間なら……正直、自殺行為に等しい。下手を打ったら殺される。彼らとて、自分の子供を守ろうと必死だ。
少しでも情報を掻き集めようとこっちも必死だったから、とリロが主張した。そのくらい切羽詰まっていたのだろう。
「……耐えて耐えて、力んで耐えて、出てきた赤子を舐めるってことくらいしかわからなんだ」
かなりガン見したんじゃがのう。
そう言って項垂れるリオの肩を、宥めるようにリロがぽんと叩く。
「リオはまだマシ。ファニタなんて途中から『ねえリロ、やばいよあれ、痛そう』しか言ってなかった」
「うん? それは知らなんだ。なんじゃ、だからあの晩、大嵐じゃったのか」
「ファニタの情緒、そのまま天候に直結する」
なんとも傍迷惑な人魚である。
ガルドをはじめとする、顔を引き攣らせた面々から、リロはそっと視線を外した。
「その後も……、…………、……いろいろあったけど、なんとか産まれた」
不自然な間が気になるが、もはや誰も突っ込もうとはしない。
気を取り直したように、んん、とリオが咳払いをした。
「可愛い女の子じゃった。ドンペルクが対面したのは、あの子が四歳になった時じゃったなぁ」
「泣いて喜んで、見ていられないくらいだった。顔くしゃくしゃで」
揶揄する口調に反し、視線は柔らかい。リオとリロにとって、ドンペルクやファニタたちの存在は、紛れもなく救いだったのだということが、ありありと伝わってくる。
永遠と勘違いしてしまう程に長い生の中において、すくすく育っていく娘の存在は、時計の針のようなものであったのかもしれない。




