海賊編(2)「おぉ兄貴、どこいっ……て、そいつ誰!」
「かっ……」
緊張で、引っくり返った声。荒事に慣れていないことが丸分かりだ。なのに海賊船に乗り込む? あまりにもアンバランスで、それ故に厄介ごとの臭いがした。
「勝手に、乗船したことは、謝ります。ごめんなさい。でも、すぐに……すぐに降ります、から」
……降りる、ねえ。
気を削がれ、剣を引っ込める。呆れたように目を細め、娘を見下ろす。
「あんたまさかと思うが、この船が何か知らねぇのか」
「え……?」
きょとりと目を見開く彼女は、目の前にしている男が誰なのかも、わかっていないようだった。今どき、ガルドの顔を真正面から見て誰だかわからないとは、まったくもって珍しい。珍しいを通り越して、異常だ。それとも、天下の大海賊だと自負していたが、ただの自惚れだったか。
「知らないなら教えてやるがな、ここは大海賊ガルド=アーヴァンの海賊船だ。あんた、さっき降りるだのほざいたが、いったいどこにだ。そう簡単に陸には上がんねぇよ。まさかと思うが、海の真っ只中にでも“降りる”つもりか? あ?」
「そっ……それでも、いいです」
海賊の名を聞いても、娘が特別慄くことはなかった。「へえ?」ガルドは口角を吊り上げた。意外だ。自分を前にし怯えるこの女は、けれど海賊は怖くないらしい。珍妙な生き物だ。
「――大方、どっかの家から逃げ出しでもしたか」
“丁寧に”扱われた奴隷か何か、とアタリを付ける。しかしなら、何故海に出たのか。死ぬだけなら、他に方法がいくらでもある。
相手によっては、匿えばこちらが目を付けられる。だからといって負けるつもりはないが、付き纏われるのは鬱陶しい。それに危ない橋をわざわざ渡るつもりはない。
見る限りこの娘は、ガルドの知る奴隷とは扱われ方が違う。おそらくこれは、最も面倒な類の“客人”だ。早々にお引き取り願った方が良いだろう。それこそ今本人が言ったように、海に捨てるのが一番だ。
それでもいい、と彼女は言った。海に飛び込んで生きられるとでも思っているのか。甘っちょろい考えである。しかしそれを指摘してやる義理は無い。
「じゃ、お望み通り――」
突如として鼻を擽った潮の香りに、ガルドは唐突に言葉を止めた。慌てて視線を空に向ける。真上は、雲ひとつない晴天。出港直後となんら変わらない。問題は進路方向にある黒い雲だ。普通の人間では捉えられない程に遠いそこに、嵐の気配がする。
しかしこの距離に迫るまで気付かないとは。
「チッ、俺も焼きが回ったか」
剣を鞘に収め、立ち上がる。こうしてはいられない。娘を放置してその場を立ち去ろうとしたところで、思い留まる。いかにもひ弱そうな娘だが、何の拘束も無しにしておくわけにはいかない。そんな基本すら抜けていた。
存外、焦っている。
「来い」
腕を掴んで、早足で操舵室へ向かう。元々速く歩くことができるガルドだ。娘は当然、全力で走ってついていくことになる。
ひゃ、と小さな悲鳴が聞こえ、ぐんと後ろに腕が引かれる。どうやら蹴躓いたらしい。
「ああくそ……!」悪態を吐き、娘を肩に担ぐ。軽いな、と思ったが、今はそんな場合ではない。娘は完全に身体を強張らせていた。好都合だ。
「おぉ兄貴、どこいっ……て、そいつ誰!」
「鼠だ。ンなことより、問題発生だ」
バタバタとついてくるゾイを横目に「これで沈んだら、遅刻しなかったシガタを恨む」と嘯いた。
「沈む!?」
後ろで愕然としている弟分をそのままに、操舵室のドアを蹴り開ける。
「もうちょっと静かに入ってきてくださーい」
背中を曲げただらしのない男が、ぽりぽりと頭を掻きながら、膝を抱え舵取りをしている。なんともやる気がなさそうだ。
「仕方ねぇだろ、モールイン。手が埋まってるんだ」
「右手が空いてるように見えますけどー」
ガルドは聞かなかったフリをして、端的に状況を伝える。
「前方より嵐」
「まじかー。回避できますー?」
「わからん」
命の危機を前にして、やけに緊張感の抜けた応酬だ。しかし、間延びした口調に反して舵を取るモールインは、既に全力で左へと方向を変えている。
「お前の腕次第だ」
「わお、責任重大ですねー」
「え? え? 俺どうすりゃいいッスか?」
ゾイが一人慌てている。「どうもしなくていい」とガルドとモールインが口を揃えて返す。
「ドーンと構えてろ。なるようになる。というか、なるようにしかなんねぇよ。……あー、他の奴等に連絡だけ頼む」
適当に役目を与えておけば、変な行動に走ることはないだろう。むしろ連絡をしに行けば、ゾイが周りから宥められる側だ。
こくこくと首を縦に振ったゾイは、バタバタと騒がしく足音を立てながら船員を探しに行った。
「そんでー、そのお嬢さんはー?」
モールインが横目で、ガルドの肩へと視線を寄越す。「ああ」思い出したように声を上げる。事実、忘れていた。
「どうすっかな、これ……」
「う、海に放り投げて頂ければ」
肩の上でもぞもぞと動く娘をジロリと睨む。
「まぁ確かにー、嵐に遭った時、海に生贄を捧げるー、とかよく聞きますよねー」
「そ……そうです! それです!」
ぱっと娘の顔が華やいだ。そんな顔もできるのか。ガルドはたじろぐ。
――それにしたって。
「あんた、どんだけ海に入りたいんだ」
ここまで拘るとなると、逆に怪しく思えてくる。思惑はさっぱり不明だが。海賊に捕まるくらいなら死んだ方がマシだと抜かす気か? ならなんで乗り込んだ。――ああ、これが海賊船だと知らなかったのだったか。
ガルドの独り言を、自分に対する質問だと捉えた娘が、顔を引き攣らせる。
「と、特に、意味は。私は……ただここから離れたいだけです」
離れたい。その言葉に違和感しか覚えない。しかしそれには触れず、ふうん、とガルドは気の無い返事をした。
「……俺は、こうしてくれ、と言われて、思い通りにしてやることが嫌いなんだよ」
意地悪く笑えば、「ほー、じゃあこの子をこの船に乗せるってことですかー? そりゃあ嵐より一大事だなー」と横から口を挟まれた。茶化すような物言いに、舌打ちをする。
「余計なこと言ってんじゃねぇよモールイン!」
「えー、じゃあ重要なこと言いまーす」
「んだよ」
モールインはにっこり笑った。あたかも大事なことを誤魔化すように。
「避け切れませーん。はは、技術不足でごめんなさーい」
見れば、黒い雲はとんでもないスピードで船に迫ってきていた。マジかよ、と声が漏れる。同時に悟る。自分の腕が落ちたのではない。モールインの技術不足でもない。アレが異常過ぎる。
迫り来る黒に、誰もが息を飲んだ。
「――降ろしてください!」
突然、鋭い声が響いた。
動揺していた為だろう、彼女の身体を支えるべく回していた腕をするりとすり抜け、彼女は地面に降り立った。すぐに我に返り手を伸ばすが、タイミング悪く、強風に煽られた船体が大きく揺れる。揺れが治まった時には、既に彼女は部屋を飛び出していた。
「おい! どこに行く!」
言いながら、後を追ったのは、先程の『海に身投げする』という発言があったためだ。冗談じゃない、そんな寝覚めの悪いこと、できるか。
一気に静かになった操舵室で、モールインは「せめて扉くらい閉めていってほしいよねー。僕ここから離れらんないのにさー」と文句を言ってから、肩越しに一度だけ、振り向く。
「んとに、我らが船長ってば、なーんだかんだいってお人好しなんだからなー」
知らず口元に笑みが浮かんだ。
――さて、どうともならないことを、どうにかしなければ。
は、と息を吐く。油断すればその瞬間に持って行かれそうになる舵を前に、気合いを入れ直した。