人魚編(3)「一生掛けても終わる気しないんスけど」
「……おい」
地を這うような低い声に、ぴきん、と身体を強張らせる。
「不用意に、触るな」
キャルリアンは首を縦に振った。もう勝手に変なものとか怪しいものとか触りません。
声を出す余裕は無かったので、代わりに必死に頷いた。
「キャルちゃーん。ガルドー! 大丈夫~!?」
ミリュリカの声が降ってくる。ガルドが平静と変わらない様子で「おう」と答える。それからゆっくり周囲を見渡した。キャルリアンの目には暗いだけの場所だが、彼には奥まで見通せているのだろう。
「シガタ、灯りひとつ寄越せ。こっちで照らすから、順番に降りて来い」
「はいはーい。落とすわよー」
ランタンが上から真っ直ぐ降って来る。難なく片手でキャッチしたガルドは、その灯りで着地地点を照らした。
光に導かれ、ゾイがひょいと降りてくる。身のこなしが軽やかだ。一人では尻もちをついていたであろうキャルリアンとは大違い。続いてミリュリカが続く。しんがりはシガタだった。
誰をとっても、キャルリアンのように人の手を借りねば動けぬほど間抜けではない。
「…………」
「ん?」
肩を落としたキャルリアンに気付いたガルドが、不思議そうに顔を覗き込む。
「なんでもっ、なんでもない、です!」
あたふたと手を横に振った。あからさまに何かある、と主張している彼女の様子に、ガルドは眉を顰めながらも、それ以上の追及をするつもりはないらしい。ふっと顔を背けた。ほ、と息を吐く。
「さ、船長。どっちに行く?」
ガルドからランタンを受け取ったシガタが、周囲をぐるりと確認する。二方向に道が広がっていた。
「どっちだって良いけどよ」
どうするかな、と頭を掻く。彼の優れた五感をもってしても、決定打に欠けるようだ。
そんなガルドを横目で盗み見ていたミリュリカが、突然、足元の石ころを蹴った。からころと音を立てて、洞窟の中を転がっていく。
「右に曲がったから、右に行こっ」
「んな運任せな方法で道を決めるなんてどうかしてるッスよ……」
「いーでしょ? あたし、運良いもん」
そういう問題じゃないと思うんスけどねぇ、と不満げなゾイの頭に、ガルドがぽんと手を乗せた。
「どの道、探索してくしかねぇんだ」
すかさず「ほらー」とにまにま笑い始めるミリュリカの鼻をつまむ。
お前も無意味に煽るな。
そうやって両者を諫めて、ガルドは先頭に立った。彼の手には灯りは無い。それでもなんの支障もなく、進んでいく。
「キャルちゃんは大丈夫? 見える?」
「へっ? あっ、うん。大丈夫だよ、今は」
何度も縦に首を振る。
人魚には、広がる闇の先は見通せない。地上は管轄外だ。だが今はランタンの灯りのお陰で、どこに道があるのか、くらいは判断できた。
ぴちょん、と遠くで水が落ちる音がした。
聴覚は優れているんだけどな、と肩を竦める。気を抜いた瞬間に、足が滑った。盛大に尻もちをつく。
「平気ッスか?」
呆れ顔のゾイが、キャルリアンに向かってすっと手を差し出した。あまりにも自然な動作のソレに、驚いて固まる。これまでにはなかった好意だ。
「あ、ありがとうございます」
礼を言いながら、手を握った。身体を引き起こされる。
「滑るから気を付けた方が良いッスよ」
ゾイの言う通り、これまでいた階層と違い、上部に広がる岩の隙間から、水が滴っている。それが下に落ち、岩肌を濡らし、滑りやすい要因となったいるようだ。
気を付けたところで転ばずにいられるかどうかは怪しいが、気遣いに対して再度礼を口にする。その言葉を受けたゾイは、急に我に返ったようで、「別にっ、あんたのためじゃないんで!」とぶっきらぼうな彼に戻った。
(あ、もしかして、ガルドさんの代わりをしてくれたのかな……)
先程までと違い、暗闇の中、自ら率先して先頭を歩いているガルドは、キャルリアンの行動を逐一気にしてはいられない。ある程度自由に動けるゾイは、おそらくそれをわかっていたから、手を貸してくれたのだろう。
有り難い。と同時に、自分があくまでも補助される対象であることを再認識した。次こそは堂々と横を並んで歩きたいな――と、そこまで考え、表情を曇らせる。次? 次なんて、あるの?
自分はどうも、この幸福に、あまりにもずぶずぶと嵌りすぎている気がする。気を付けなくては。拳を握り締めた。爪が肌に食い込む。心のどこかで感じる痛みを、別の痛みで消そうとしていた。
「ふうーん」
二人の様子を眺めていたミリュリカが意味ありげな含み笑いを見せた。
「ミリーちゃん、どうかしたんですか?」
「え? んふふ、べっつにぃ」
なんでもない、とはとても見えない。あからさまな誤魔化しにキャルリアンはくっと眉を寄せた。
自分の傲慢な心中を見透かされたのかもしれない。彼女は愚かな自分を見て、笑っているのかもしれない。
唐突に、そんな恐怖が湧き上がった。
違う、ちがう。ミリュリカは決してそんなことをして楽しむような人ではない。
すぐに否定する。そんなことは考えるまでもなく、わかりきっている。それなのに、心に巣食う魔物が囁くのだ。
(――オマエガ、シアワセニ、ナレルハズガナイ――)
物事や人を理解することと、心が本能的に覚えてしまう感情は、時として矛盾を孕む。
この人は大丈夫、あれは駄目。その判断を下すことができるのに、心ははっきりと切り替わってくれない。
ああ、暗いから余計にあの記憶に囚われてしまうのか。だって、あそこは暗かった。とても、……とても。暗くて、寂しさすらも感じなくなる程の、“無”。
「――キャルちゃん、手ぇ繋ご!」
「え?……わっ」
キャルリアンの返事を待たずに、ミリュリカが彼女の手を握った。突然温もりに包まれた左手に、目を見開く。偶然か、あるいはわかっての行為か、彼女の小さな手が、爪の痕がついた手のひらをそっと撫でた。
「こっちの方が楽しいね」
自分の横で無邪気に笑う彼女の顔を凝視した。
『たのしい』――その言葉を舌の上で転がす。大きな飴玉のように、ほんのりと甘い味がした。
前方を歩いていたガルドが、不意に振り向く。
「ミリュリカ、一緒になって転んで戦うことなく戦闘不能、なんて笑い種にはなるなよ。運ぶのが疲れる」
「なんないよっ、ガルドのばーか!」
べーっと舌を出す。ガルドは、ならいいけどな、と肩を竦めてみせた。
失礼しちゃう、とぷりぷり怒っていたミリュリカは、それからキャルリアンにこっそり告げる。
「本当は、暗くてちょっと怖かったんだよね。手、離しちゃヤだからね」
「……うん」
こくん、と頷いてから、泣きそうになる。彼女の甘い気遣いに。
「うん、私も怖いから、――嬉しい」
繋がれた手を見下ろす。次は、無いだろう。きっと。
だからこそ、この温かさを忘れたくない。キャルリアンはそう思った。
一歩進む度に、心の中で繰り返す。
忘れたくない。
忘れたくないのだ、――絶対に。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「――止まれ」
しばらく歩いたところで、急にガルドが全員を制止した。何事か、と前方を窺うが、上手く見えない。
「行き止まりッスか?」
「ああ、まあ……」
彼の言葉は、どこか歯切れが悪い。
どういうことか、とますます首を傾げたキャルリアンの耳に、ぴちゃん、と水滴が落ちる音が聞こえた。それはこれまでのように、冷たい岩肌を濡らすものではない。落ちた水滴が水の上で跳ねる際に生じる音だ。
ガルドが手元の灯りを掲げる。
揺らめく炎に照らされた道の先は、丸く開けていた。その空間一面を、水が覆っている。その水に向かって、洞窟の天井から一滴一滴、ゆっくりと水滴が落ちていた。時折思い出したように、こぽりと溢れてくる水が、ガルドの靴の先を濡らす。
ゆっくり近付いたガルドが、覗き込む。
「深いな。底が見えない」
「それって」シガタが声を潜めた。「ココから、ドコかに繋がっている可能性もあるってことね」
「仮に繋がってたとしても、水をある限り、進む方法なんて無いッスよ」
顔を顰めたゾイの言葉に反応し、ミリュリカが「閃いたあ!」と人差し指を突き出した。
「みんなでバケツリレーしよ!」
「一生掛けても終わる気しないんスけど」
ゾイの意見ももっともだった。小手先でどうにかできる種類のものではない。
わかってるよ言ってみただけでしょ。小声で呟きぷくりと頬を膨らませたミリュリカの頭を撫でながら、シガタがガルドの意見を求める。
「戻って、逆方向に進む?」
「……そうだな」
ガルドは言い切り、早々に方向転換をする。伏せられた目。それはどこか、キャルリアンを意識的に避けているようにも見えた。
ちらりと水面を見る。水は、得意分野だ。――唯一の、と言い換えても良い。
だから。
「私なら」
「――駄目だ」
間髪を容れずに、拒否された。ということは、つまりだ。やはりガルドもその可能性に至ったのだ。
――この水面の先に何があるのか。
キャルリアンなら、確かめることができる。
まして、入り口にあった石碑の文字も、この通路に至る鍵も、人魚の言語で刻まれていたのだ。ならば通路自体、人魚が通る仕様になっているのは、十分にあり得る話だった。
「私が潜って進むのが、正解かもしれません。それでも駄目ですか」
食い下がるキャルリアンに、ガルドは鋭い視線を向けた。
「仮にあれが道だったとして、その先が安全だという保証がどこにある。あんた、一人で対処できんのかよ」
う、と呻いたキャルリアンを、ガルドがじとりとした目で睨んだ。
彼の言う通り、たとえば何かしらの罠が仕掛けられていたとして、キャルリアンには上手く対処できる自信が無い。これまでの道中のことを思えば、尚更だった。
「前の嵐の時は一刻を争う事態で、それ以外に方法が無かったから行かせたけどな、今回はそうじゃねぇだろ」
言うなり、背中を向けて道を引き返していく船長に向かって、船員が言葉を投げつけた。
「心配なら、そう言えばいいのにねー」
「言わないであげなさい、ミリュリカ。ガルドにもプライドがあるんだから」
「ちっさいプライドね!」
「……お前ら、黙れ」
肩越しにこっそり振り返ったガルドの顔は、どこかばつが悪そうにも見えた。
にしにしと笑いながら続くミリュリカも、何も言わないゾイも、彼らを護るように後ろを歩くシガタも、誰も異を唱えない。
誰も、キャルリアンに、行け、とは言わない。
――それが、嬉しくて、悔しくて、キャルリアンは唇を噛んだ。




