人魚編(1)昔は、よく動く子供だった。
昔は、よく動く子供だった。
海辺で両手を振り回しながら意味も無くきゃあきゃあとはしゃぎ、走り回り、そして転んだ。
そんな、どこにでもいる子供の一人だった。
擦り剥いた膝小僧から血がじわりと滲み出てくる。ぷつりと浮かんだまあるい赤に、余計に痛みが増した気がして、ぶわりと涙が噴き出した。
その涙の理由が、本当に傷が痛かったためか、それとも「痛そうだ」と思ったためか。今のキャルリアンはちっとも憶えていない。
それがおおよそ十年ほど前のことだ。
「――あ」
前に踏み出したはずの足が、蔓のようなものに捕まった。当然前に進むものだと思っていた上半身が、バランスを取れずにぐらりと傾く。
(転ぶ)
脳内に響く間の抜けたナレーション。呟いた時には、既にキャルリアンの身体は修正の効かないところまで傾いていた。
十年前もこんな感じだったのかもしれない、と場違いなことを考える。
ぽす、と。
地面よりも温かく、草よりも硬いものが、キャルリアンの腹に回り、彼女の転倒を防いだ。彼女の太腿ほどある、筋肉質な腕だ。
「あんたなぁ……」
声には既に呆れの感情しかない。無理もない。キャルリアンは羞恥心で顔を伏せた。
「十数歩……下手すりゃ数歩で転び直すたぁ、どういうことだよ」
歩き慣れていないとは聞いていたが、これほどとは。ガルドの顔には、そう書かれていた。申し訳無さに肩を竦めると、「ああ〜っ、ガルドがキャルちゃんイジメてるー!」と高い声が前方から聞こえた。
「お前の目は節穴か!」
ガルドが叫び返すと、近くの木に止まっていた鳥の集団がばさばさと飛び去った。ミリュリカも一緒になってぱたぱた駆けて行く。
キャルリアンよりも更に小柄なミリュリカであるが、背負っている太く長い丸筒や、見るからに重たそうなベルトなどを考慮すると、総重量では断トツ一位のはずだ。しかし、ひょいひょいと軽やかに歩いている。この差は何か、と問われれば、持って生まれた運動能力と、日頃の運動量の差だと答える。
両者の間には一昼夜ではとても越えられない圧倒的な差がある。わかってはいても、キャルリアンは肩身の狭い想いを抱え、身体を縮こまらせた。足手まといになっている自覚は、嫌というほどある。
「あいつは完全にピクニック気分だな」
だいぶ距離を開けた先で、ミリュリカがぴょんぴょこと跳ねている。元気だ。羨ましい。
彼女は久方ぶりの外出で気分が高揚しているようだった。ガルドはキャラリアンの頭上で、やれやれと首を振った。あくまでそれだけで、本格的なお叱りは無しだ。本気で咎めるつもりは無いのだろう。
腕の中に収まったままのキャルリアンをきちんと立たせると、ガルドは再び、彼女の前を歩き始めた。
――ガルドに秘密を打ち明けられてから、数日後。
宝を運び終えた彼らは、次にガルドの探し物に取り掛かった。
今回の探索では、モールインとドーザルが居残り組。他は全員、同行している。
足元を見下ろすと、キャルリアンの足のサイズに合わせて調整された靴の先端が見える。ガルドから、まずは靴に慣れるように、と指示を受けた。その指示に従い、船内では始終履くようにしていたが、慣れたかどうかはわからない。心なしか、最初よりも違和感が無い気もする。
……昔のキャルリアンなら、履き慣れていたはずだったのだが。
ツキリ、と胸が痛む。
「おい、あんまり離れんな」
はっと我に返る。二、三歩進んだ場所で、ガルドが振り返り、怪訝そうに眉を寄せていた。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて靴を履いた足を持ち上げた。地面に下ろすと、土を踏み締める感触が靴の皮越しに伝わってくる。
ここには元々、道すら無かった。交代交代に洞窟と船を行き来し、ドンペルクの宝を運搬するついでに、草を倒し、大きな石を端に寄せ、歩くことに不慣れなキャルリアンのため、歩きやすいようにしてくれたのだということがわかる――それでもなお、キャルリアンは足を取られて転んだが――。
全ては、この先にある石碑のため。
そう考え、キャルリアンは少々気が重くなった。
石碑に刻まれた文字には、いったい何が記されているのだろうか。
――もし重要なことが何も書かれていなかったら。
その仮定は、キャルリアンをぞっとさせた。
もしそうなら、この道も、この靴も、キャルリアンがいるために余計に掛かっている時間も、全て無駄になってしまう。
俯き加減で唇を噛み締める。ガルドの服が、視界に入り込む。彼は歩みを再開しない。
不思議に思い顔を上げると、ぱちんと額を弾かれた。叱り飛ばす風ではない。軽く戒めるような力加減だ。
「あんたはもう少し気楽で良い」
ミリュリカと足して二で割ればちょうどいいのかもしれないな。
ガルドは嘯きながら肩を竦め、今度こそ前を見た。
反射的に額を押さえ、呆然としていたキャルリアンも、ワンテンポ遅れて彼の後を追う。
前方組との差が開いているのに、ガルドの足取りは非常にゆったりしている。誰に合わせた速度なのかは、一目瞭然だった。
目の前にある大きな背中を追い掛ける。いつもより少し早い足取りで。
わかりにくいようで、非常にわかりやすい優しさに、口元が緩み、
――地面からにゅっと生えた木の根に、もはやお約束のように躓いた。
驚いた顔で振り向くガルドが、反射的にキャルリアンへと手を伸ばした。
倒れ込んできた彼女の勢いを殺すため、彼は右足を下げてた。しかし、ちょうどそこが、木の根が地面からうねるように顔を覗かせている場所だったことが災いした。そうとしか言いようがない。右足は地面を捉えるよりも先に、木の根に引っ掛かった。ガルドの身体も後方へ傾く。
チッ、という舌打ちの直後、キャルリアンの視界は更に大きくぶれた。思わずぎゅっと目を瞑る。
気が付いた時には、地面に倒れ込んでいた。
「あ……っぶねぇなぁ、おい」
冷や汗混じりの声が、下から聞こえた。
思考が停止し、直後にフル回転した。
キャルリアンは、彼の腕の中にいたお陰で、地面に激突することを免れた。つまり、代わりにガルドが地面に叩きつけられたということだ。
……加えて言うなら、自分は恩人に乗っかり、更なる負荷を掛けている。
ようやくそこまで思考が追いついたキャルリアンは、口から飛び出そうになった悲鳴を辛うじて飲み込んだ。こんな近距離で大声なんて出したら、ガルドの耳が壊れてしまう。
とにかく彼の上から退かなければ。早急に。今すぐに。可能な限り、早く。
焦るキャルリアンを落ち着かせるように、彼女を支えていた方の手がぽんと頭に乗った。
「怪我は……無さそうだな」
淡々とした口調。変わらない表情。
音には乗せない気遣いが。大きな手から伝わる温度が。安心感を生む。けれどそれとは正反対の、落ち着かない気持ちにもさせる。
顔が熱い。ひょっとしたら、頬も赤くなっているかもしれない。見られたら、ばれるかも。
「だ、大丈夫、です!」
慌てて彼から離れた。当然のように、頭に乗っていた手もするりと落ちる。
……残念だ。
そう思う自分に気付いて、ぶんぶんと頭を大きく左右に振った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ようやく来たー!……あれ。なんか、二人とも汚れてるね?」
一足先に洞窟の入り口に辿り着き、自由時間を満喫していたミリュリカは、かなり遅れて到着したガルドとキャルリアンの頭のてっぺんから足先までをじいっと見た。
彼女の指摘通り、二人は出発時よりもかなり汚れており、身に付けている物は全体的によたっとしていた。特にガルドの左腕は、肘から手の先までべっとりと泥がついている。
「あ、わかった! 転んだんでしょ!」
「…………」
「…………」
キャルリアンは、仏頂面のまま黙り込むガルドを横目で窺った。
ミリュリカの推測は正しい。二人は確かに転んだ。正確には転んだのはキャルリアンで、ガルドは巻き込まれただけだ。
「避ける訳にもいかないだろうが……」
ぼそぼそと弁明する声が隣から聞こえた。彼としては他人に聞かせる気はなかったのだろう。だが生憎とキャルリアンは耳が良い。
言うまでもなく、ガルドが転倒を回避することは容易だったはずだ。
手を伸ばさなければ良いだけの話だ。最悪、ぐらりと傾いた瞬間にキャルリアンを放り出すこともできた。彼一人ならばどうにでもなっただろう。
しかしガルドはそうしなかった。これが、お人好し、とミリュリカやシガタが口を揃えて言う理由だと、付き合いが浅いキャルリアンでもさすがにわかる。
『利用しちゃえばいいんだよ』
以前、ミリュリカから受けた言葉が浮かんだ。
キャルリアンの心が曇る。
……もう、十二分に利用している。
彼に――彼らに、甘えている。一番初めから、今もずっと。
居た堪れない気持ちに苛まれた彼女の背中を、ガルドがぽんと叩く。キャルリアンは驚いて横を見たが、彼は何事もなかったかのように歩き出していた。
「例の石碑はあっちにある」
「あ、はい!」
返事をして慌てて前に進み始めて、はたと気付く。後ろ向きな気持ちが掻き消えていることに。
叩かれた拍子に身体から飛び出していったのかもしれない。
触れられた部分は、不思議と熱かった。
長らく間を開けてしまい、申し訳ありません。
今週より再開します。またスタートできて嬉しいです。




