人魚編(1)空は一面、分厚い雲に覆われていた。
ガルドと別れた後、キャルリアンは真っ直ぐに甲板に向かった。時間的猶予は、あまり無い。風で重たくなったドアを身体全体を使って押し開け、どうにか外へと身を滑らせる。
「すごい……」
初日に見た嵐とは比べ物にならないくらい酷い雨風に、キャルリアンは息を飲んだ。初回の嵐は大きな烏賊――もとい、海の魔物クラーケンがストレス発散のために引き起こしたものだった。元々海と寄り添い生きてきたという“人魚”。話が分かる相手であれば、嵐を鎮めてもらうのは容易いことだ。しかし今回のこれの原因は、いったいなんだろうか。直前まで、潮の香りにおかしなところはなかった。海の気配を探るが、理由は思い当たらない。前回のような対処は不可能だ。
(それより、ゾイさんは……?)
焦る気持ちを抑えながら、船の先端へと安定した足取りで向かう。視線を右へ左へ彷徨わせたが、途中にゾイの姿はなかった。
――いったい、どこに。
あえて目を瞑り視界を遮ると、聴覚を尖らせる。
カツン、と靴の音がした。床を鳴らす音ではない。どこかに、不意に打つけたような――。
「ゾイさんっ!」
キャルリアンが甲板から身を乗り出すと、目的の人物はそこにいた。
「あ、なんであんた……っ?」
波に攫われたのだろうか、船の外側、微かな出っ張りを掴んでいる彼の身体は辛うじて流されることに耐えている状態だった。
手を伸ばそうとし、躊躇する。キャルリアンは海の中を自由に動くことはできるが、彼の体重を支え、上まで引き上げることは難しい。
かといって今から助けを呼ぶ時間は無い。よしんば呼べたとしても、この雨風の中だ、まともにここまで向かって来られないだろうし、来ることができたとしても二次災害になりかねない。
どうしたものかと悩む暇は無かった。一際大きな波が船を襲い、彼を刹那浮かせたかと思うと、船と唯一繋がっていた指先を攫っていった。キャルリアンは咄嗟に彼を追って海に飛び込む。そもそも、彼女にはそれくらいしかできないのだから。
ごうごうと荒れ狂う波に巻き込まれぬように、流れと流れの間を縫うように進む。入り組んだ迷路のように互いが互いに絡み付く水流の中で自由に動くことは、いかにキャルリアンといえども難しいことだった。
目を細めながら、彼の姿を探す。影が視界に入ると、一瞬だけ荒い潮に身を投じた。波の檻に囲われたゾイの身体を両腕で抱え込むと、タイミングを見計らい、外へ飛び出す。
「っ、は!」
海面に浮上すると、ゾイは大きく口を開け、新鮮な空気を取り込んだ。げほごほ、と咳き込む。多少水を飲んだのか。無理もない。キャルリアンと違い、人間は口から息をしなければ死んでしまう。
自分が泳ぐことだけに集中せず、彼の空気の残量も考えて動かなくては。それに、水中を移動するとなれば、身体への負担も相当なものだろう。キャルリアンは唇を固く結んだ。難易度は、高い。
好かれていない手前、もし暴れられたらどうしようかと危惧していたが、流石のゾイも、今はキャルリアンに対する個人的な感情に構っている余裕は無いようだ。
彼の視線は一心に、大きく左右に揺られる船に向けられている。
「船が……」
呻き声と共にそちらへ傾きかけた身体を、しっかり抱え込むことで押さえる。
船の周りは潮の流れが複雑だ。とてもあれでは、近付くことなどできやしない。一人でならどうにかなったかもしれないが、今はそうではない。
しかし、……ならばどこに向かうべきか。
早速難題にぶつかり眉尻を下げたキャルリアンを導くように、船から一筋の光が伸びた。それは船の揺れなどには少しも左右されず、真っ直ぐにある一点の方向を指し示している。まるで道標だ。
モールインの知恵か、あるいは――頭を振る。今は、誰があれを見せているのか、を考えるべき時ではない。
「行きましょう。息を吸ってください」
キャルリアンの強い意思を持った指示に、ゾイはしかし焦った様子で、待ってくれ、と彼女を制止した。
「みんなは……」
「船には近付けません。――大丈夫ですよ、あそこには皆さんいます。ガルドさんも」
むんと胸を張ると、ゾイはムッと顔を顰めた。あんたに言われたくない、とでも言いたげだ。いかにもゾイらしい反応。ガルドといい、その弟分のゾイといい、緊迫した状況だというのに我を忘れないなんて。危険なことは慣れっこなのだろうか、とキャルリアンは不思議がった。
――突然、潮の流れが変わる。
光の示す先に向かう潮が、目の前に来る。思考を中断する。これを逃してはならない、と本能が告げていた。
「行きます!」
慌てて忠告した直後、キャルリアンはゾイを掴んで海に潜った。あとは体力の続く限り、否、たとえ体力が底をついたとしても、陸に辿り着くまで一心不乱に泳ぐだけだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
島に着いたのは、それからどのくらいの時が経った後だっただろうか。はっきりとした記憶がない。それどころではなかった、というのが本音だ。
太陽の位置で時刻を確認しようにも、空は一面、分厚い雲に覆われていた。
(身体、重い……)
これまでに無い程に長い距離を泳いだキャルリアンは、とにかく疲れていた。
大きな岩に手を掛け、まずゾイの身体を岸へと押し上げる。海を潜って泳ぐことができるキャルリアンと比べ、より大変だったであろう彼は――力を入れることも辛いだろうに――自分の腕にぐっと力を入れ、岩の上に這い上がった。
「はっ……」
陸に上がったゾイは辛そうな声を出しながら振り返ると、ん、とキャルリアンに手を差し伸べる。
「あ、えっと……」
戸惑う彼女に、彼は苛立ったように「早くしろよ」と言った。
「曲がりなりにも助けて貰ったんで、手を貸そうってだけッスから。俺はそこまで外道じゃねぇし!」
ただの良い人に見られたくない、と言わんばかりの表情。それが何故だか、俺はお人好しじゃねぇ、と頑なに主張するガルドを彷彿とさせた。身体はくたくただというのに、自然と笑いが込み上げてくる。突然飛び出した飾り気の無い笑顔に、ゾイはぎょっとしたように身を引いた。
「な、なんスか!?」
「いっいえ、あの……ゾイさんとガルドさんって本当の兄弟みたいですよね」
「はあっ?」
なんで急にそんな話になるんスか。じっとりとした目を向けられ、キャルリアンは口を噤んだ。どうも自分はいつも、彼に余計なことを言って怒らせてしまうようだ。
伸ばした手を未だに掴もうとしないキャルリアンに痺れを切らしたのだろう、ゾイは黙って腕を掴むと、自分よりも小柄なその身体を陸に引き上げる。ビチビチ、と尾びれが陸を叩いた。その衝撃で水が跳ね、キャルリアンとゾイに掛かる――とはいえ、もう既に全身ずぶ濡れで、今更一滴や二滴飛び跳ねたところでなんの変わりもないのだが――。
決してわざとではない。この尾びれはたまにキャルリアンの意思に反して動くのだ。
「それ、戻らないんスか?」
「しばらく水に浸からなければ戻ります」
ふうん、と言いながら、ゾイは自分の衣服を脱ぎ捨てた。冷たくずっしりとした衣服を無理に着ていたら、身体が冷えるためだ。あんたは、と訊ねられ、首を横に振った。寒さに対する抵抗力は、かなり高い。乾かす必要もないくらいには。
「日が沈む前に火を確保しないと……」
ガルドたちと合流できれば一番良いのだが、今は探して歩き回る体力はない。向こうも同じだろう。それに、おそらくこの島を目指していたであろう船が、真っ直ぐ泳いできたキャルリアンたちよりも早く着くかどうかも怪しい――あるいは、着かない可能性も。そこまで考え、キャルリアンは悪い想像を振り払うように、首を大きく左右に振った。
「ちょっとここにいて。俺は周辺を確認してくっから」
「一人で行かれるんですか?」
「そッスよ。つーか、あんたについてこられても、迷惑ッス。森、歩き慣れてないっしょ?」
つ、と指差した先に広がるのは、どれほど広いのか、ここからではさっぱりわからないくらい大きな森だった。
見える限りでも、激しくうねる木の根が地面を突き破り、その身を現している。普段人が足を踏み入れることは少ないのだろう、整備などは当然ちっともされていない。確かに泳ぐことよりも歩くことが苦手なキャルリアンが彼について森に入ったところで、足を引っ張るだけで終わることは明白であった。いっそ水辺で待機していた方が、いざという時に自力で逃げることができる。
「じゃあ……お願いします」
「……あんたさあ、置いてかれるとか、考えないワケ」
もう少し危機感を持とうよ、と。胡乱げに自分を見るゾイの顔を覗き込みながら、首を捻る。
「そこまで外道じゃない、のですよね」
刺されたとでも思ったのか、ガッと顔を赤らめたゾイは「フザケンナ! 本気で置いてくッスよ!」と怒鳴りながら、森の中へと消えていった。そうは言いつつも、彼が彼女を置いていくことはないだろう、という確信があった。なにしろガルドの弟分だ。
――だから。
視界が不自然に揺れた。“足”の感覚が戻ってくる。
(身体、どんどん重くなる……)
まるであの場所で辛い実験を終えた後のような倦怠感が襲ってきた。徐々に瞼を開けていられなくなってくる。
起きていなければ、何かと遭遇した時、逃げることもできないのに。そうはわかっていても、どうしても意識を保っていられなかった。
『……やはり、まだ改良が必要か。もっと詳しい研究資料があれば、進展も早いというのに。アレが壊れなければ……』
途切れる直前に頭に響いた声は、当時の記憶が蘇ったものかもしれない。彼――自分のことを、“マスター”と呼ばせていた、研究所のトップたる彼は、よくその言葉を口にしていた。
あの時、意識を失ったと同時に、彼女は“キャルリアン”を失った。次は何を失わなくてはならないのだろう。いったいこの先、どれほどのものを失い続けるのか――。
(――……ぃたい)
意識を手放す瞬間に、夢現の狭間で、自分の呟きが響いた気がした。




