彼女は何も知らない
キャルリアン。
彼女はその名を与えられていたが、その名が正確な意味で今の自分を指し示すものであるかは怪しいと考えていた。
果たして自分は、いったいいつ生まれたのか。
本来のキャルリアンが、生まれた時か、それとも死んだ時か。
それでもキャルリアンには、その名前を捨てることはできなかった。捨ててしまえば、キャルリアンという存在は、どこにもいなかったことになってしまう。自分の罪が、闇に葬り去られることになる。それは、よくない。
キャルリアンが自分であっても、なくても、それだけは許していけないと強く想う。その想いすら、自分から発生したものであるか、怪しいと考えていたけれど。
しかし、たとえ何が起ころうと、罪がなくなることはないだろう。
だからこそ、彼女は今、懸命に走っている。
走ることは苦手だ。
苦手だけれど、足を緩めれば、途端に追っ手はキャルリアンを捕らえられるだろう。そうすれば、もう二度とこのようなチャンスは手に入らない。
――海に出よう。
今は、それだけを考えていた。
潮の匂いが強まるにつれ、人の数が増えていく。その間を縫うように進む。時折、身体のどこかが通行人にぶつかり悪態を吐かれるが、それだけだった。騒がしい港では、キャルリアンのことなど誰も気には留めない。これがあの場所であったならば、こんなこと、できっこない。これだけ人がごった返しているからこそできるのだ。
ここはキャルリアンにとって、おおよそ無縁の世界であった。だからこの喧騒がごくごく普通のものなのか、あるいはこの町特有のものなのかすら、判断ができない。好奇心が湧き上がる。その心を満たしている場合ではないことだけが、ハッキリしている。キャルリアンは、ひたすら足を動かさねばならない。
いくつかの船が、港から羽ばたこうとしていた。
――ひとまずあれのどれかに。あとは頃合いを見計らい、海に身を投げればいい。
波止場を素早く見渡す。判断は一瞬だった。最初に目に入ったものを真っ直ぐ目指す。普段の彼女なら、もっと長い時間を掛けて迷っていただろう。だが今はその時間が無かった。
出航を見送る人が溢れる場所は、より長い時間その姿を確認できるようにするためか、他の場所よりも高低がある。それを見て取り、キャルリアンは「退いてください!」と叫びながら、そちらに向かう。鬼気迫る彼女の表情に圧されたか、振り向く人が反射的に少女のために道を開けた。
一本の道が、そこにできた。 ゴールには空と海の青が広がっている。
地面を蹴る。周囲の人間がどよめいた。キャルリアンの身体は落下する。頬を風が撫でる感覚が新鮮だった。高揚は一瞬。次いで彼女を襲ったのは、激しい衝撃だった。不格好に転がるように船に着地した彼女は、その体勢のまま、呻く。喧噪が離れていく。いや、自分がそこから離れているのだ。
顔を上げた。一面の青い世界。背後を振り返る。こちらを指差す群衆の中に、どうやら自分の追っ手の姿は無い。
ほう、と安堵する彼女は、当然知らなかった。
自分が乗り込んだ船が、巷でも有名な海賊『ガルド=アーヴァン』の海賊船だということを。
新連載スタートです!
大体8〜10万字になる予定。予定は未定。
最後までお付き合い頂けますと幸いです。