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【武島イズシの場合】

 【武島イズシの場合】

 「たぁーけしまセンセッ」

 昼休みの半ば、武島教師が廊下を歩いていると保険医の生方ナエ女医が声をかけてきた。そして、それにかまわない。

 「あー、無視しないでー」

 「忙しいので」

 数学科の部屋に入ると、生方女医もするりとなかに入り込んだ。武島はかまわず、無視して自分の席に着く。

 「あなたにも仕事があるはずだが」

 「ヒマなもんで」

 えへへと笑う生方女医をじろりとにらみながら、机の上に大学ノートを広げる。

 「いつ生徒が来るかわからないでしょう。早く戻ってください」

 「だいじょーび。ただいまお留守です、ってフダをぶらさげておいたから」

 何かあれば職員室の方に行くように、とも書かれてある。保健室に保険医が常在しているわけではない。

 「感心はしませんがね」

 「それがウワサの閻魔帳ですか?」

 生方女医は注意を聞こうともせず、机の上に広げられたノートを武島教師の目の前からかすめ取った。「返しなさい」という言葉も耳に貸さず、へーほーとパラパラ斜め読みする。

 「うっひゃ〜、ほんとに暗号で書いてあるぅ」

 「……暗号ではありません」

 何が書いてあるのか読むことが出来ないという閻魔帳について多く語らない武島教師が静かに、はっきりと否定した。

 「じゃ、どこかの外国語?」

 珍しい反応に生方女医は、出来る限り探りを入れようと訊いた。

 「いいえ。ただ単に字が汚いだけ(・・・・・・)です」

 「え」

 微妙な、何とも言い難い()が生まれた。さすがの生方女医も固まってしまっている。その隙に武島教師が閻魔帳を取り返した。

 「板書も苦手ですが、現国などとは違って文字を書くことは少ないですからね」

 数式や数字は字の汚さを自覚していれば、そう反映することはない。閻魔帳に書いているのはどうしてマイナスなのか、数字以外にそれを書いているから読めないものと言われているのだ。

 「でも、武島センセはよく生徒さんの質問に答えてるじゃないですか」

 「ネットやメールを通してですね。ファックスもパソコンでうったものを印刷したのを送ってます」

 キーボードなどでうつ文字では、字の汚さが出るというのはありえない話だった。授業も生徒に答えさせた問題の解説からはじめ、絶対に読めなくなる問題文を書くことを抑えていた。

 「そんな理由だったんですか……」

 「ボールペン習字で練習していますが、どうも成果が上がりません」

 意外な事実に生方女医は素直に驚いていた。読めない閻魔帳の答えがそんなシンプルなものというのを、今まで誰が想像した。

 「それと、今この手にある閻魔帳は生徒のものではありません」

 生方女医が斜め読みした限り、それはほぼマイナスが続いていた。加点無しとはいえ、そこまで続くのはよほどの落第生かそればかり集まるクラスだろう。

 「いえ、これは自分の閻魔帳です」

 「自分?」

 「日々の自己評価というやつです」

 更に驚いた。数学科の部屋は皆出払っていて、この2人以外いないからか武島教師も饒舌(じょうぜつ)だ。

 「もう少しわかりやすく教えられた、授業の時間配分。……年が終わる頃には自分の点など残っていません」

 武島教師が生方女医に改めて自己評価の閻魔帳を手渡した。改めてなかを眺めるが、その読めない文章は自らに関しての改善点、反省点がびっしりと書かれているのだろう。

 「最近、女子生徒の夜間外出を許可した上、自分のPCまで貸してしまいましてね。その日はマイナス10点です」

 日付だけならかろうじて読める。9月14日だ。

 「ありゃ、お堅いセンセにゃ珍しいですね」

 「言い訳はしませんよ」

 その女生徒は武島教師のお堅い理性を突破させ、行動に移させたのだからただものではない。

 「何故か、学校長からも教頭からもお咎めを受けませんでしたが」

 「日頃の行いがいいからですよ」

 その後、武島教師が報告したもののお咎めが無かったのは、女生徒が何らかの形で(・・・・・・)動いたことを知らない。知れば、ただちに武島教師は自分を罰することだろう。

 「にしても、自分に対して赤点が多すぎないですか」

 生方女医の言う通り、文字は読めなくてもマイナス数字だけはかろうじてわかる。ほぼ毎日つけられているそれは厳しすぎるほどだ。

 「……現在の数学は難しすぎるんです。まず教科書からして、教え方が下手なんです」

 「?」

 勉強から遠く離れた生方女医には何のことかわからない。わかりやすい好例を、武島教師が思い出す。

 「フランスでは九九を5×5までしか教えないそうです」

 「えー、それじゃ9の段とかどうするんですぅ?」

 冗談と決め付ける生方女医に武島教師が不敵に微笑む。滅多に見られない表情だ。

 「では、7×8(シチハ)をしてみましょう。左手で7を、右手で8を指折りで数えてください」

 生方女医が「えーと」とつぶやきながら、指を折ってみる。左の親指から折り始めて、最後には小指と薬指の2本が立った。右手も同じように親指から折り始めて、なか・薬・小指の3本が立つ。

 「では、立っている指の数で足し算してください。折っている指はかけ算です。出来ますか?」

 「バカにしないでくださいよぅ」

 7を数えた左手で立っている指は2本、折っている指は3本。8を数えた右手は立っている指が3本、折っている指は2本だ。立っているのは2+3、折っているのは3×2。

 「立っている指の答えを10の位、折っている指の答えを1の位にすると」

 「56だ」

 7×8=56。

 「このように5×5より大きな九九は、幼稚園児や小学1年生のように指を折って計算すれば事足りるんです」

 「え、えぇ〜! どーして、どーして出来るのぉっ?」

 生方女医は驚いている。他の九九も指折って試しており、81通りもあるそれを必死になっておぼえたあの頃が悔しくて仕方ない、といった感じだった。

 「……こんな風に数学はもっと簡単に教えられる。わざわざ難しい数式を丸暗記して・あてはめずとも、抜け穴のようなやり方もあるんです」

 教科書通りにやることが損とは言わない。そういったどうして(・・・・)こうなるのか(・・・・・・)というのがわかる正しいやり方をおぼえてこそ、抜け穴が活きてくる。

 「しかし、こうも難しいと思わせるような教え方ばかりするから、今の若い子供は数学が嫌いになっていくんです」

 「……っはぁ〜、そういうことですかぁ」

 武島教師の言葉に生方女医は感心している。確かに学年があがるごとに覚える公式や数式が増えて、それにともなって数学を嫌いになっていく子供が増えていくのは事実だった。

 「生方先生、そろそろ保健室に戻ったらどうですか」

 「そうですねぇ」

 昼休みもそろそろ終わる。九九のくだり辺りから、数学科の他の教師達も戻り始めていた。

 「今日の午後は体育の時間もないし、ヒマなんだけどなぁ」

 「こちらもまだ授業準備があるので」

 九九などを話している間も武島教師の手作業は止まっていなかった。前日までにそのクラスに合った入念な授業準備をし、直前まで怠らない。個人の質問受け付けや進度具合による個別プリント製作を考えると、いつ寝ているのかと思うくらいだ。

 「いやぁ、今日は意外なことばかり知りました〜」

 「そうですか」

 読めない閻魔帳の秘密、武島教師の自身と数学教育への憂い、いずれもおカタい授業態度からは想像もつかないことばかりだった。

 「こういうところを生徒さんに知ってもらえば、センセの人気は上がると思いますよ」

 「余計なことは教えるつもりはありません」

 小首をかしげウフと微笑む生方女医の言葉を、武島教師はきっぱりと切り捨てた。

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