冬の日の話
その年の冬休みは、今までの冬休みとは違っていた。
彼の地域では雪というものは物珍しくも無く、もっと幼い時から幾らでも見てきた変わらないものだ。
小学四年の冬休み。
都会の方から、祖母の家へ遊びにとある女の子がその雪の街に訪れた。
彼女は初めて来る、雪が一面に降り積もった土地にいても立ってもいられない様子で駆け出した。
そこで彼は、その女の子と出会う。
来たばかりで慣れない街。当然友達と呼べる人も彼女にはいない。
二人は一緒に遊ぶことにした。
今までの冬休みは同じ学校の友達と雪で遊んだり、家の中でテレビゲームをしていたりした。
だから彼は楽しかった。
知らない子と遊ぶのも新鮮であり、異性の女の子と遊ぶことも珍しいことであり、何より彼女と遊ぶことが彼には楽しく感じられたのだ。
二人の時間は、あっという間に二週間が経つ。
去年までとは違う、変化ある冬休みを過ごしていた彼は凄く充実していた。
そんな時、彼女が言った。
「わたし、明日には帰らなきゃ」
彼女はただ祖母の家に遊びに来ていただけ。
帰る日が来るのは当たり前だった。
彼はその彼女の言葉を聞いて、なんだかもどかしい気持ちを抱く。
言葉には表せないが、ともかく彼女との別れの時が来るのが怖かった。
その翌日。
宣告通り彼女は自分の住む地元に帰り、彼は今まで通りの日々へと身を戻した。
あの少女が帰ってから数日。
どこか心の中が静かになったような感じがする。
でも、どうすることも出来ない。
彼は悔いを残したまま、そこに彼女との時間を置いていった。
──あれから十数年。地元から上京して一人暮らしを始めた彼は、代わり映えのしない毎日を送っていた。
朝いつも通りの時間に起きると、数分で身支度を整えて家を出る。
夕方、もしくは夜間まで会社で仕事をこなし家へ帰る。
そして寝る。
このサイクルで彼の一日は回っていた。
「ふぁぁあ〜」
大きなあくびを噛み締めもせず垂れ流して、自宅のアパートの裏路地を歩く。
その両手にはゴミ袋。
足取りや姿勢からは、日頃の疲れがとてもよく滲み出ていた。
今朝もよく冷えており、まるで冬のような寒さである。
気怠げに足を止める。
指定されたゴミ出し場所に着き、二手に持つゴミ袋を放った。
引き返して帰路に就く。
最中、彼はふと気まぐれで、アパートの駐車場を囲っているコンクリ塀へと向かった。
「……」
塀の上に腰を落ち着け、ジャージからタバコケースを取り出すと一本を摘み出す。
ライターの火をかざし、灰色に濁った煙を空中に吐いて一服。
一息つく。
ゴミ出しに来る人間もいなければこの路地には誰一人としていない。それはまだ今朝早くに彼が外に出ているきているからか。
何処からか雀の鳴き声が聞こえてくる。
「……」
無意識に空を見上げた。
耳には時々鳴く雀の声と、視界には雲が転々と漂う青空がそこに隣合うアパートとの間にあった。
手にしていたタバコを一本吸い終える頃には、おおよそ十分近くが経っていた。
「帰るか……」
よっこいしょ、と掛け声と共に腰を上げる。
脳裏には、狭い視界から覗いていた、いつもと変わらない青空が焼き付いていた。
たった数十メートルの帰路の間で彼は思う。
──人は、変わる必要があるのかと。
そもそも変わることが出来るのか、と。
小学生の時は変わることを恐れていた。
中学生の時は変わることを望んでいた。
だが、高校に上がった辺りから。
何をやっても変わることは無くて、どうしてても何も変わらないということを悟った。
「……」
あの冬の日を思い返す。
当時は彼女と遊ぶ毎日が楽しかった。という記憶が漠然とだがあった。
でも、十数年経った今からするとそれは、今までと何ら変わらないとある冬の出来事だった気がした。
***
ゴミ出しから帰宅すると、外に長くいすぎたせいか寒くなっていた体を布団に潜らせる。
……。就寝。
ボケーッとした意識で目を覚ましたのは、それから数時間かしてお昼の情報番組が終わり始めた頃だった。
おもむろに立ち上がって、彼は冷蔵庫のあるリビングへと歩み寄ると中身を確認する。
「……はぁ。買い出し出るか」
今彼は春先の大型連休中。
最後に買い出しへと赴いたのは、その連休を翌日に控えた仕事終わり。
もう数日ほど家近辺から動いていない。
それに比例して、冷蔵庫の中身が減るのは当然だった。
ホームセンターに売っているような簡易なプラスチック棚から私服を引っ張り出し、彼は家を後とした。
彼の住んでいるボロアパート周辺には、コンビニやちょっとした商店街はあれど都会らしいショッピングモールなどは無い。
どうせ貰った大型連休なのだから、たまには遠出でも、と。
そんな無意識が、彼を隣町にあるショッピングモールまでつれていった。
約十分。しばらくして降車駅へと着く。
都心では無いものの祝日だからなのか、なかなかの人混みである。
涼しいぐらいの気温にも関わらず、彼には蒸し暑いぐらいに感じられた。
「だからヤなんだよ……」
愚痴を吐き捨てる。
だが自分から来ているのだから、それは自虐だ。
向けどころのない苛立ちに苛まれ彼は、何を言うことも無く駅の木陰から歩き始める。
どうせなら会社仲間でも誘ってこれば良かったが、たかが買い物で人を誘うのも馬鹿らしい。
そもそも人を誘う勇気があまり湧いてこないという。
彼はだいたい、誘われて顔を出すような人間だからだ。
程なくしてショッピングモールに到着する。
だがモールの敷地を区画するゲートを前に、より一層増す人混みに彼は嫌気が差す。
面倒くさい。
でも何だかんだで店内に入れば、ちょっと冷房の効いた空間が蒸し暑さを冷ましてその苛立ちも引っ込んでいった。
彼はこの店には割りと来たことがあるようで、モール内の勝手は大方分かっていた。
食材売り場で、粗方惣菜類やインスタント食品をカゴに入れる。
これでもう買い物は終了である。
片手に商品の入った袋を持って、特に寄り道もせずこのひんやりした快適空間を彼は嫌々後にする。
そして買い物を終え、また人混みへと身を投じた頃に、彼は気付く。
「あー、この辺うろうろすんなら買い物最後にしや良かった」
残り数日の休暇。
ずっと家でダラダラしていたい彼にとってはもう、しばらくは用の無いところだ。
ここは時間の許す限り街を闊歩したい。
しかしマイバッグの中には冷凍物の食品も入っているからそういう訳にも行かない。
計画性がないのは、昔からの短所だ。
「……はぁ」
帰るか。
そもそも、買い物袋を持って街中をうろつくのもどうなのだろうか。
帰りにレンタルビデオ屋にでも寄って、残り二日程度をビデオ鑑賞としてもいいかもしれない。彼はそう考える。
一拍置き無性に虚しく感じてしまうのは、残りの休日がそんな寂しい予定で埋められたから。
交差点に差し掛かり、信号機の前で立ち止まる。
信号待ちをしている人の群がりを片隅で聞きながら、彼は午後三時の空を見上げた。
そこには、今朝と何ら代わり映えしない青空があった。
「……?」
視線を落とすと、反対側で誰かを見つける。
人と人との間でチラつく程度にだが、確かにその隙間からには誰かが見て取れた。
知っているような気がした。
恐らく雰囲気が変わっていない。
だがその髪色や身長などの容姿面は、時間経過と共に成長してしまうものだ。
信号機はやがて青になり、立ち止まっていた周りの群集も歩き始める。
ただその中で、彼だけはその場から歩き出せずにいた。
本当に、その人物は彼女なのかどうか。
その疑念もあったが、どうやらそれだけではない。
「……」
「──モトキ?」
「ん? ……うをぉああ!!」
つんつん、と肩を呼ばれて振り向くとそこには今さっき見た彼女がいた。
思わず近くにあった街灯の柱に擦り寄る。
名前を呼ばれたのもそうだし、いつの間にこっちまで来たのかもそうだが、それは今の女性が本当にあの子だと分かったからこその反応だった。
昔は深い栗色のボブヘアーで同じぐらいの身長だったのが、今では黒一色のセミロングヘアーに百八十の彼より少し低めの身長と、だいぶな成長を遂げていた。
だが彼女の顔立ちや瞳の色は昔通り、幼く青の色を帯びている。
ちゃっかり服装も当時よりおしゃれな感じだ。
「ハル……なのか?」
「うん、お久しぶり」
驚きのあまり狼狽する彼を差し置いて、ハルと呼ばれた彼女は気さくな態度で手を振ってみせた。
それを受け、どことなく心に落ち着きが戻ってくる。
彼女の、ハルのそんな昔ながらの雰囲気に当てられたからかと思うと、少しだけ気恥ずかしいが。
「モトキは、買い物帰り?」
「ま、まぁ、見ての通り」
尋ねられ、彼は苦笑いで答える。
相手が昔の知り合いだからとて、それは過去の話。
見た目も声もすっかり変わってしまっている相手を、とてもすぐにはハルと重ねることは出来ないでいた。
すると、ハルはごく自然に尋ねる。
「へぇー……、やっぱり、誰かと同棲してるの?」
「は、はぁぁぁあッ!? インスタント食でいっぱいですけどぉ!?」
つい反射的に独り身主張が飛び出す。
「いや、ごめんごめん! ……そんな凄まなくても」
それを真正面から浴び、ハルは苦笑いで彼を宥める。
ガバッと開けていたマイバッグを閉じながら、女に慰められている事実に彼は涙した。
そんな彼をよそに、ハルは少し思案する。
そして曖昧な苦笑いは笑顔へと昇華し、何かを思いついたようにハルは口を開けた。
「そうだ! 今暇なら、どっか行かない?」
「え?」
ハルの弾けるような声に、彼は反射的に顔を見上げた。
当時の声とは声質が違うからか。
顔を見ていないと、知らない女性からお誘いを受けているようだったのだ。
「……いや、冷凍食品が溶けるから」
「えー」
冷静且つ正確に返事を返し、彼はハルの「ノリ悪いなー」的な意味を孕んだ生返事にむず痒さを覚えざるを得ない。
口を噤み、彼は黙秘を通すことにする。
「じゃあ、モトキん家行こっか」
「……なんで?」
ハルはさも名案のような振る舞いで告げた。
が、彼には届かない。
腑抜けた疑問符だけが返ってくる。
「……」
一拍置くと、彼女も流石に変なことを言ったと気づいた様子で、額に汗を浮かべ必死に適当な理由を模索し始めた。
顎に手を置いて数秒。
結論を調え、えへっと愛くるしい顔を浮かべてなし崩しにすることにした。
彼は奥歯を噛み締める。
「…………はぁ、分かったよお好きにどーぞ!」
このまま日の下にいても、それこそ冷凍食品が溶けてしまう。ここまで買い物に来てそれでは些か締りが無いように思う。
そういう建前で、彼は彼女の言葉を半分荒だった語調で受け入れた。
本音は違う。
彼はもう、自分が目の前にいる彼女へ心打ち解けている事に気付いたのだ。
心を開いた友からの誘いを無下にすることも無い。そんな心情だった。
「やたー!」
そんな彼をさて置き、ハルは一人嬉しそうに声を上げている。
横目にその様子を見つつ、彼は手持ち無沙汰な片手に取り出した携帯で時間を確認する。
「んじゃ行くぞ〜」
ひとつ溜め息を吐いた後、うるさい子供を置いていく気持ちで彼は先を歩き出した。
そんな彼を、まるで親しい人間を追うような足取りでハルは駆け寄っていった。
***
「ボロいなー」
「うっさいわ。築四十年だぞ。凄いんだぞ」
立派な風格を体現したアパートを前に、ハルはそんなことを口走った。
実際築四十年張りの廃れ具合ではあるが。
都心のターミナル駅からやってきた二人は、彼の部屋へと続く階段をツカツカ昇っていく。
彼は何となく周辺に気を配る。
そして施錠を開けた扉の中にハルを招き入れた。
知られてまずいこともないが、知られてあらぬ噂が立っても事だろう。
「うわー、きたなーい」
「……ぐっ!」
扉を内側から施錠して安堵すると同時、部屋の奥からそんな声が響いてきた。
上京して一人暮らしを始めてから、一度たりとも異性を部屋に上がらせる機会なんて無かったそこは、完全に男所帯な空間だ。
嫌な汗をかきながら、これからは部屋の掃除もこまめにしようと彼は密かに誓った。
彼女を隣の部屋のベッドに座らせた後、彼は冷蔵庫にモールで買ったものを詰めていく。
その間の意識はほとんど無く、半機械的に動いていたことを彼は後に自覚する。
それも当然。まさか昔馴染みだからとはいえ、自分の部屋に異性がいるのだから。
「……はい、どうぞ」
「ん、ありがと〜」
両手に持った麦茶入りのコップを片方、ハルの方へと手渡す。
軽い返事とともにそれを受け取った彼女は、コップを静かにテーブルの上に置く。
「……」
その行動を見て、変な悔しさを覚える。
もう片方のコップを手にしたまま彼は御座の上に腰を下ろすと、麦茶を一気に飲み干してやった。
一息つき、二人の間には静寂が訪れる。
彼女の方は親しげに接してきていたが、部屋に上げて二人きりとなった今、また何処か知らない女性といる気持ちが彼の中では湧いてきた。
それに、と続く。
(あいつの方はどう感じてるか分からんが、俺はまだ昔のことが煮え切らない……。せめて一言何か欲しい)
十数年前の、彼がまだ小学四年だった頃の話だ。
その年の冬休みだけは例年とは違い、都会の方から祖母の家に泊まりに来たという女の子と日々を過ごしていた。
何をしていたかは判然としないが、それでも彼女との時間は凄く楽しかった。
しかし必然と別れの日は訪れる。
彼は、最後の最後まで彼女と──ハルと楽しい毎日を送る。
来たる別れの日。
ハルの中にもまた当時の彼と同じような気持ちがあったのか、彼に一言だけ言い残してそこからいなくなった。
『また来年、ここで会おうね』
そして一年後、彼の下に彼女が現れることは無く、それ以来何の接点も無いまま二人は今日に至る──。
そんな経緯もあり、まだ何処か彼の中にはモヤっとした気持ちが残っているのだった。
「モトキ?」
明鏡止水の池に水が一滴落ちたような、その突然発せられた言葉に彼は一瞬喉を詰まらせる。
「なんだ」
緑色で薄汚れた、少し錆び付いている脚のテーブルに載ったコップ。そこに浮かぶ水滴を見つめながら彼は言う。
……。
相当な間があったように思えたが、実際は数秒後。
ハルは振り絞るような声で言葉を続けた。
「あの時は、ごめん」
「あ……」
街中で会った時の態度から彼は、薄らとハルはあの時のことをあんまり気にしてないものだと勝手に思っていた。
けれど実際は違った。
あの日のことを重く受け取っていたのは彼女の方で、それを今自ずと理解した彼は嫌な汗を頬に浮かべた。
「い、いや気にすんな。俺はそんな気にしてない」
気にしてない、と続けたのは、彼が無意識にハルへ失礼なことを思ってしまったと感じたからだ。
「そっ、か。うん、ありがとね」
その言葉を最後に、二人の間にあった気まずさはついに声さえ出させるのを難しくするほどのものになった。
彼は居心地の悪さから顔を俯かせる。
彼女もまた気まずさを感じ、それ以降は口を閉ざしてしまう。
今の彼になら、時間が絶対普遍のモノではなく歪みひずむモノだと言っても信じてしまうだろう。
それぐらいに、二人の間に流れるその時間は長きに渡る。
だが、生ぬるい風の吹く部屋の中で、気分の悪いこの雰囲気を先に破ったのはハルの方だった。
「そっ、そういえば今、モトキは何してるのっ?」
「あっ? ぅおっ、俺か?」
バッと顔を上げた彼は狼狽え、遅れてハルの質問を咀嚼する。
何故そんなことを今訊いてきたのかも考えず、その場の流れに飲まれて答えた。
「今は一応、家電メーカーの営業マン」
「あー、大変そうだねー」
ハルは彼が営業のために走り回っている様子を想像し、つい同情するような声をこぼす。
「まぁ疲れはするけど、わりかし自由で俺は好きだ」
仕事の宛も特に無いまま上京してきた彼は、数本の面接を落とされた後今の仕事場に行き着いた。
集団よりも個人での方が向いている質だから、彼には合っているのだろう。
「じゃあ、ハルは今何やってんの?」
「え、私?」
話題が上がり、話の流れで彼女にも同じ質問を投げかけた。
今さっきの自分と似たような反応を示すのを見て、彼は何処かホッとする。
「私は、その……服飾関係」
ハルは、恥ずかしさのこもった声で答える。
「へぇー、だからそんな可愛いファッションなのなー」
その内容を聞いた彼は、素直に感心して見せた。
「あ……」
一瞬遅れて、十数年ぶりに会った女性に「可愛い」なんて言葉を普通に使ってしまったと理解する。
恐る恐る彼女の方を見る。
「……」
案の定、ハルはまた黙り込んでしまった。
彼はやってしまったと顔を押さえる。
二人の間に再び沈黙が訪れる。
けれども何故か、その時の沈黙は先までの重苦しいものでは無く、むしろ心安らぐようなものだと彼は感じた。
それから、何度かの沈黙を挟みつつも会話は弾み、ある程度の時間が過ぎた頃ハルはそろそろ時間だと言って彼の前から去っていった。
***
「はぁ……すっかり寒くなったな」
いつも利用する路線を別の用途に使うのは少し新鮮だった。
だがそれも随分と回数を重ね、今ではその感覚は薄まってきていたりする。
月日は流れて十二月。
移ろいだ季節は冬となり、電車内にも暖房が点くようになった。
少し多く着てきすぎた事もありコートの前を全開にしている彼は、ゆっくりと流れる車窓の風景を眺める。
「お?」
すると、微かにだが街に雪が降り始めていた。
細かな雪は量を増し、目にハッキリと映るものになっていく。
灰色の雲と白い雪、薄暗い街並みとを、何だか車内の空気で温まった頭で見ていると、電車は止まった。
気付けば今日の目的の場所へと辿り着いていた。
「はぁ、ほんとに降ってんな……」
改札を抜け駅を出ると、真っ先に頬へと雪が貼り付いた。
休日が故の人混みの中彼は視線を右へ左へと走らせる。
「……」
そこから少し離れた、道の端の壁際にもたれ掛かっていた一人の女性は駅から溢れる人混みを見つめていた。
待つことしばらく。
やがて人の雪崩が収まり始めた頃、駅から待ち合わせている人物がやってきたのを見つけ、手を振って自分の居所を示した。
「あ、いたいた」
道行く人々の中で相手を見つけ、彼は寒い体に鞭打つようにすぐ様彼女の元へと駆け寄った。
約一ヶ月ぶりに見た彼女の、ハルの服装は、この一ヶ月で気候も大きく変わったので見違えている。
ファッション自体も、やはりハルがファッションデザイナーの仕事に就いているからか上出来だと思った。
この都会の街でハルと再会してからだいたい半年、二人はよく遊ぶような昔の関係に戻っていた。
初めてここで出会い、彼の家で話し込んだ日。
ハルはこれからも昔話とか色々話したい、と彼に自分の連絡先を教えていたのだ。
「んじゃ行くか」
「うん」
しばらく雪に打たれた後、彼はそう切り出し彼女の先を歩き始めた。
頷くと、歩き出す彼の後ろ姿に追いすがるようにハルは横に並ぶ。
この地域にしては早い初雪で、もうすっかり雪が視界をチラつくほどだ。
交差点の信号待ち。
彼は漠然とした意識で空を見上げた。
「信号青っ」
「あぁ、悪い」
「ぼぉーっとすんなよー、轢かれるぞ〜」
ハルの笑い混じりの冗談に頬を緩めつつ、二人はまず最初の目的地へと向かった。
そこは街のメインストリートの一角にある小洒落た喫茶店。
ここしばらく二人とも仕事に追われていたようで、落ち着いて話し合える場所をと彼女がチョイスしたのだ。
逃げ込むように店内に入る。
温まった店内の空気に体の強張りを解きつつ、メニュー表に目をやる。二、三ヶ月前にもこの店に来たことがあったため、二人は卒なく注文を終えた。
店員に注文を済ませてからしばらく、窓の外をただ見ていた彼の元に湯気を立てたコーヒーが差し出された。
ハルの方も頼んでいたカフェラテが来たらしい。口をつけ、早くも飲み始めていた。
「まぁ、熱かろうな」
「あちっ」
冷ましもせずに飲もうとしていたから当然のように熱かった。
何だかあわあわしているハルの様子に微笑ましさを感じながら、彼は自分のコーヒーをスプーンで回し始める。
「……」
カップを置いた反動で飛んだカフェラテの中身を拭きながら、彼女は手を貸してくれなかったからか目の前の男を一度睨む。
はぁ、と一息つくと少し冷ましてから再びカップに口をつけ始めた。
彼は半分ほど飲み終えたコーヒーの中身を、スプーンでのんびりとかき混ぜる。
右手に匙を持ち、左手で頬杖を突きながら見る窓の外の風景には、ぼんやりと聞こえる喧騒とパラパラと降る雪が映っていた。
「ねぇ」
カフェラテの入っていたカップを静かに受け皿に置くと、彼を見つめながらハルは声をかけた。
外との寒暖差に当てられてか、ボーッとしたままの頭で彼は窓の外から視線を前に戻す。
「なんだ? また愚痴か?」
彼女と街に出掛けるようになってから、随分と彼はハルから愚痴を聞かされていた。
やれ上司が厳しいだの、やれ仕事が難しいだの、やれ試験が疲れるだの。
そうした話を聞くことで彼はハルが確かに社会人で、昔とは違うことを酷く痛感させられていた。
「ううん違う」
場を和ますようなノリで言った言葉は、彼女の否定の言葉で断ち切られた。
匙の手は強制的に止む。
沈黙の空気が流れる。
耳に残る街の喧騒、騒々しさが、店内の静かな空気をより一層助長してくる。
「じゃあ、なんだ?」
彼は、まだ何処か緩んだ表情のまま尋ねる。
ハルは彼の顔を覗き込む。
そして一拍置いてから、彼女は告げた。
「──私、明日には帰らなきゃいけないの」
***
それからしばらく。
二人は喫茶店を後にして、国道沿いにあるアミューズメントパークへと向かった。
彼はあまりこういう騒がしめなところに来ることが無い人間だ。
一方で、人との交流が盛んだった彼女はこういう場にも慣れ親しんでおり、彼女のリードで二人は数時間の間そこで遊んでいた。
次に、とハルはいつしか行ったことがあるショッピングモールへと彼の手を引いた。
一階には食材から日常用品を取り扱うお店、二階には小腹を満たす飲食店や家電量販店など、そして三階には衣服類の専門店などが軒を連ねている。
彼女は当然のように、自身の専売特許である三階フロアの服の専門店へと向かった。
言われるがままついていった彼は、やはりそういうものに興味は無い。
だがファッションデザイナーを前にそんなことが言えるわけもなく、彼女の服選びにただただ付き合わされていた。
「はぁぁあ〜疲れた〜!」
ハルは伸びをして脱力した。
あれからも数軒の店を渡り歩いては時間を消化し、気が付けばもう日が暮れ始める頃合いとなっている。
しかし、つい十数分前まで雪が降っていたこともあり、空には灰色の雲がかかったままだった。
「もうこんな時間だなぁ……」
ハルが買いに買った衣服云々が詰まった買い物袋四つをベンチに置いて、彼は一息つくように呟いた。
携帯を見ると時刻は十八時に差し掛からんとしている。
二人は今、この辺では数少ない川の近くに設置された公園でひと休みしている。
久々に二人で出掛けたということもあり、たても充実した一日だった。
「……」
彼は黙りこくり、寒くなってきた体を労るように両手をコートのポケットに入れる。
「……」
隣を見ると、彼女も同じ様子で羽織っているコートのポケットに手を突っ込んでいた。
二人は黙ったまま時を過ごす。
刻一刻と終わりが近づく。
そんな中、彼は思う。
常日頃思っては同じ回答を得て。
まるで昔の自分を戒めているような疑問を。
──人は変わることが出来るのかと。変わる必要があるのかと。
ぼんやりとしていた視線を持ち上げ、灰の曇天を見上げる。
今日、交差点のところで見上げた空。
それは今とは雪が降っているかいないかだけで、大きな違いは無い。
でも、と彼は思った。
(違う。……変わってる)
何かと訊かれれば何とも言えない。
誰が見たところで、その景色に違いなんて無いのだから。
だが、彼の中だけでは違って見えた。
小学四年の冬休み。
あの時は毎日が楽しく、毎日が全然違って見えていたことを、彼は──モトキは思い出していた。
十数年経った今。
あの頃の思い出は風化して、昔の楽しかった日々は徐々に忘れ去られつつあった。
そこでモトキは、自分が今変わっていることを自覚し、そのことに強い快感を得た。
「よしっ」
寒さのあまり身を丸めていたハルは、その寒さを吐き出すように声を上げてベンチから立ち上がった。
モトキはそんなハルを見上げている。
ハルは、ベンチに座っているモトキに背を見せたまま軽く伸びをした。
んんっと力を入れ、口から溜めた息を吐く。
また意味もなく「よしっ」と強がった掛け声をかけると、その眼差しには覚悟が宿っていた。
ハルは後ろへ振り返り、モトキに告げた。
「それじゃあ……帰ろっか」
「断る」
ベンチから立ち上がり、モトキはきっぱりとハルの言葉を否定した。
「……」
ハルは思わず目を見開いた。
きっと彼なら、黙って見送ってくれると思っていたからだ。
もちろんハルも、折角再会できたモトキとまた別れることになるのは嫌だった。
だが、そう簡単に仕事を投げ出せるわけがないのだ。
『私、明日には帰らなきゃいけないの』
『……なんでだ?』
『私は、ただこの街に研修に来てただけなの、ファッションデザイナーの。それでつい一週間前研修試験に合格して、明日帰ることになったの。……ごめんね』
『そうか。……なら、よかったな』
「──いいわけがない」
モトキはハルの気持ちを察した上で、そう言う。
このまま帰るということは、ハルとまた離れ離れになることを認めることになる。
折角昔のような関係に戻れたというのに、また振り出しに戻るなんて認められるわけがなかった。
「でも……」
「ハル、約束しろ」
「え?」
しばらく降っていた雪で地面は隠れ、辺りは一面雪景色となっている。
そこは何だか、彼が住んでいた街と同じ風景のように思えた。
「"また逢おう"って、約束しろ」
モトキはちゃんと分かっている。
ここでまた別れれば、もうお互い仕事や私生活に追われて会える時が全然無いことを。
だから彼はそう言ったのだ。
「……うん」
小さく頷いてハルは息を呑む。
彼女も、それが分かっているから言うのが躊躇われる。
けれど心を落ち着けて、覚悟を決める。
そしてハルは誓う。
「また、逢おうね」
──いつになるかは、モトキにもハルにも分からない。
彼は変わり、いつまた逢うことが出来るのか分からないハルのために仕事をする。
彼女もまた、約束したことを守るために……モトキのために変わろうとしている。
そして二人は、再びそれぞれの道を、それぞれのために歩み始めたのだった。
今回はテーマ性を重視して書いてみました。
「変わること」が今作のテーマです。
人として成長するには変わることしか無いわけですが、そう簡単に人は変わらない。
だけど、何かきっかけがあれば変われるものなのですよね。きっと。