悪魔の薬
『お母さーん』
毎週土曜日に、母のいる総合病院へ親父と行くのが日課だった。
『杏奈、お誕生日なのに一緒にお祝いできなくてごめんね』
優しい目をしていた母に似たかったと、今でも思う。
『平気だよ、パパがいるもん。ねぇねぇお母さん、明日はお家に帰れる?』
五歳のあたしは、そんな台詞を毎回母に投げては母を困らせていた。
いなくなるなんて、そんな考えは、幼いあたしの脳みそにはちっとも無かった。
『お母さん?』
いつもの病室に、母の姿が無かった。
そしてその日はクリスマスイブの三日前。
母は亡くなった。
乳癌だった。
お母さんどこに行っちゃったの?
いつ帰ってくるの?
そんなことばかりを聞いていたら、ひょうきんな親父が初めて静かに泣いた。
親父の泣き顔を見ていたら、あたしもいつの間にか泣いていた。
もう会えないのだと悟った。
──────────
「杏奈!」
(………慶…?)
「おい!杏奈!」
何してるの…
あたしはここだよ。
細い視界の先に、横たわるあたしの肩を揺さぶる慶の姿。
その表情は青冷めていて、必死にあたしの名前を呼んでいる。
「杏奈!」
だから、あたしはここだよ。
何でそこにあたしがもう一人─────。
あたしはハッと瞼を開き、自分の見ている光景を何度も瞬きをして確認した。
そうするあたしに気付いたのか、穂高がすかさず尋ねた。
「大丈夫か!?」
「それあた…」
か細く出た声に、耳を疑った。
そして声が喉を通る感覚が、今までと違う。
(え……あたし、声が…)
おもむろに、視界に入った自分の手を見た。
細い指に、色白の肌。
着ている服には見覚えのあるライダースジャケット。
そして、目の前には制服姿で倒れている自分の姿があった。
震える手で頬を撫でてみる。
何かが違う。
鼻も、こんなに高くない。
「君、如月さんとこの?」
慶は、あたしを見てそう聞いてくる。
心音がどんどん強くなっていくのを胸の奥で感じながら、あたしはふらつきながらも立ち上がってリビングを飛び出した。
「あ、君どこへ…!?」
“まさか”の三文字が、頭から離れない。
洗面所へと駆け込み、鏡に映る自分を確認した。
「………は………………」
息苦しさを覚えたと同時に、如月穂高が目を見開いて、口をもぽっかり開いてにわかに震えている姿が目の前にあった。
「何だよこれ…」
声も自分の声ではない。
如月穂高の声だ。
何なんだ。
一体どういうことだ。
ある考えが浮かぶ。
こいつにあたしが乗り移った?
じゃああたしには…!?
ウチに来た時の如月穂高の余裕な表情はどこへやら。
驚愕に満ちた彼の顔を鏡で見送って、リビングへと駆け足で戻る。
「おい起きろぉおおお!!」
雄叫びを上げながら戻ってきたあたしに慶は肩を浮かせた。
だがそんな慶に割り込むようにして、目の前に倒れ未だに目を覚ましていない自分を思いきり揺さぶった。
「おい!起きろ!起きろ!起きろ!起きろ!」
激しい呼びかけのおかげか、瞼が震えてゆっくりと目を開けた。
「おい!生きてるか!?あたし生きてるか!?」
くるりとこちらへ頭を向け、しばらく自分の顔をぼうっと眺めていたが、すぐに自分の見ているものに理解を示したように目の色が変わった。
「杏奈!良かった、大丈夫か?」
「っ…え、杏奈ちゃん…え、俺…」
「しっかりしろ!お前は誰だ!?如月穂高だろ!?」
「そうだけど…あれ?俺がいる…え?俺は?え?」
「あんたは今、あたしなんだよ!」
「君何を言って…?」
状況が複雑化しているだけに、慶の不信に満ちた表情が自分に向けられることがヤケに痛い。
「慶!あたしだよ!杏奈はあたし!」
「は?」
「あ、家主の慶さんですか?俺、如月穂高です」
「おい杏奈…何の冗談だ… 」
顔色が悪い慶に、何をどう説明したらいいか分からない。
すると、穂高が自分の胸に両手を当てた。
「杏奈ちゃん、一応“あるね”」
「どこさわってんだよスケベ!」
「いやぁ正直驚いたよ。夢じゃないよね?」
こいつに関しては何に驚いているのかてんで分からないが、どうやら夢ではないらしい。
中身が入れ替わってしまった。
自分が目の前にいる。
改めてそれを実感すると気持ちが悪い。
「お前ら、一体なんのおふざけだ?倒れていたから驚いたが、大丈夫なのか?」
慶はまだ状況が理解できていないようだ。
「慶、如月穂高は今あたしだけど、その代わり今のあたしは如月穂高なんだよ!」
「君はニューハーフなのか…?」
「やだな慶さんニューハーフじゃなくてハーフですよ~」
「呑気に笑ってんじゃねぇよバカ野郎!人が必死に説明してるってのに!」
怒りと悲しみが一気に押し寄せ涙が出そうだ。
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