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十九.うちだし(その1)



「恵介くん……あなた、自分がこれからどうなるのか、本当に判っているの……?!」


 加奈子さんが……オレに言った。


「判ってますよ……住み込みで『付き人』として働くってことでしょ。ほんの二年か、三年の辛抱なら……頑張って、耐え抜きますよ!」


 オレの返事に……加奈子さんは、呆れて愛美さんを見る。


「愛美ちゃん……あなたと同じ家で暮らすことは、辛抱して、耐え抜かないといけないことらしいわよ……!」


 愛美さんは……苦笑している。


「……判っていない。お前は、全然、判っていない……!」


 綾女さんが、ぶつぶつと呟いているけど……。

 まあ……別にいいか。


「同じ家でも……立場は違います。オレは、これからは使用人になるんですから……愛美さんも、そのつもりでオレと接して下さい……!」


 オレは……ケジメを付けたいと思う。


「……恵ちゃん?」


 愛美さんは……ショックな顔をしている。

 ……でも。


「恵介と呼び捨てにして下さい……それから、オレに対して自分のことを『お姉ちゃん』と言うのも止めて下さい……よその人がみたら、勘違いされますから……!」


 ……うん。

 これからはちゃんと、線引きして貰わないと……。


「馬鹿なことを言わないでよ、恵ちゃん!お姉ちゃんはね……!」

「待って……愛美ちゃん!」


 愛美さんの言葉を……加奈子さんが、遮る……!


「……恵介さんには、そう言う言い方じゃダメなのよ……!」


 そして……オレを見て、ニッコリと微笑んだ。


「恵介さん……あなた、使用人の分際で、雇い主のお嬢さんにそんな口をきくのは無礼だとは思わない……?!」


 ……しまった。

 確かに、加奈子さんの言う通りだ。

 オレはもう……『愛美さん』なんて呼んじゃいけない……。

 それに、これからは……全部、敬語で喋らないと……。


「……す、すみません!お、お嬢様!」


 『お嬢さん』か『お嬢様』か、ちょっと悩んだけれど……。

 オレが、『お嬢さん』ていうのは、何かキザな感じだし。

 ここは、『お嬢様』を選択するべきだな……!


「……そういうことを言っているのではないのよ!」


 ……あれ?

 加奈子さん……まだ怒っている?!


「恵介さん……はっきり言うけれどね……」


 ……は、はい。


「愛美ちゃんが、あなたのことをどう呼ぶかなんて……愛美ちゃんの自由なのよ!あなたに指図されることじゃないのっ!」


 あ……。

 そっちを怒られていたのか……。

 確かに……オレが愛美さんに意見したみたいで……。

 加奈子さんには、使用人としては生意気な態度に見えたのかもしれない。


「……も、申し訳ありませんでした!」


 オレは……二人に頭を下げた。


「さて……愛美ちゃん。この使用人に命令して。愛美ちゃんは、この使用人を何て呼ぶ?そして……この使用人には、自分のことを何て呼ばせたい?」


 ……愛美さんが、ハッとする。

 そして……ニッコリとオレに微笑む……。


「あたしは……これからも、恵ちゃんのことは『恵ちゃん』て呼ぶわ……!」


 ……そして。


「恵ちゃんは、あたしのことを……『お姉ちゃん』て呼ぶこと……!これは、命令よ!」


 ……えええ?!


「いや……あの、みんなに勘違いされます。誤解を産むことになったら……!」

「そんなの構わないわよ……そういう人たちは、誤解させておけばいいのっ!」


 愛美さんは……オレに強く言う。


「……でも!」

「……命令だからねっ!」


 ……ええっと。

 ……オレ。

 ……どどど、どうしたらいい?

 その時……。

 楽屋の廊下に並んで立っていた、オレたちに……。

 金縁の眼鏡を掛けた背広のお爺さんが……近付いて来る。


「……申し訳ござんせん、江崎さんのお嬢さん」


 そのお爺さんは腰を低くして……愛美さんに、そう声を掛けた。

 愛美さんのお祖父さんの本名……江崎家のお嬢さんと。


「……えー、うちの旦那がちょいと楽屋に顔を出して下さいとおっしゃっておりやす」


 少し早口気味な江戸弁で……お祖父さんは、愛美さんに言った。


「……この方、三十郎さんの番頭さんよ」


 加奈子さんが、オレの耳元に小声で教えてくれた。


「……番頭さん?」

「歌舞伎役者の……執事みたいな仕事をしている人よ。身の回りのお世話から、スケジュールの管理、ご贔屓のお客様のチケットの手配まで何でもこなす人よ。」


 オレがこれからする『付き人』の……さらに親玉みたいな仕事か。


「……三十郎先生が、あたしに?」


 愛美さんが、番頭さんに聞き返す。

 ……芳沢三十郎。

 綾女さんのお姉さんの旦那さんで……。

 オレでも知っている歌舞伎界一の人気俳優……。


「なぁに、そうお時間を取らせるようなことにはなりません……旦那が、そうおっしゃってました……」


 愛美さんは、少し考えて……。


「……判りました。すぐに参ります」




   ◇ ◇ ◇




 番頭さんの後ろに付いて……。

 全員で、ゾロゾロと歩いて行く……。

 芳沢三十郎の楽屋には……。

 緑っぽい灰色の暖簾が掛かっていた。


「……あれはね、『利休鼠』っていう名前の色なのよ」


 加奈子さんが、またオレに囁く。


「……へえ」

「恵介さん……こういう日本古来の色の名前とか、なるべく覚えた方がいいわよ」


 加奈子さんが、笑ってオレを見る。


「……何でですか?」

「……古典芸能の世界では、結構大切なことよ。緑郎左衛門先生に『恵介、利休鼠の色の羽織を持って来てくれ』って言われたら、どうするの……?」


 ……そうか。

 『付き人』になるのなら、覚えておかないといけないことなんだ。


「そういうのって、何を見たら判りますか?」


 オレは、加奈子さんに尋ねた。

 近所の図書館で借りられたらいいけれど……。


「勉強したいのなら、あたしが本を貸してあげるわ……!」


 加奈子さんが、ニコッと微笑む。


「ありがとうございます、助かりますっ!」

「……あたしの家まで、取りに来てね」


 ……へ?

 加奈子さんは、そのまま愛美さんの後を付いて楽屋の中へ入っていく。

 ……加奈子さんの家って。

 ……あのヤクザ俳優の……洞口文弥が居るんだろ?

 オレ……生きて帰ってこられるだろうか?


「……恵ちゃん、早く来て!」


 楽屋の中から、愛美さんの声がする。


「はい……今、行きます!」


 オレは……急いで、利休鼠色の暖簾を潜った……。

 芳沢三十郎さんの楽屋は……。

 緑郎左衛門先生の部屋と同じ大きさだった。

 楽屋の中には……三人の人がいた。

 入り口の所に瑛子さん……つまり、綾女さんのお姉さん。

 そして、奥の座敷に……芳沢三十郎さん。

 すでに化粧も落として、赤茶色の和服の羽織姿に着替えている。

 お二人とも、テレビとかで観た通りの美男美女で……。

 いや、本物はやっぱり迫力がある。

 オーラが感じられるっていうか……生々しくて華やかな生命力を感じる。

 それから……もう一人。

 鏡台の前の三十郎さんの脇に……洋装の痩せた少年が正座している。

 ……高校生くらいだろうか?

 白地のジャケットにピンクのシャツ。

 すごいお洒落で、お金持ちの御曹司っぽい。

 背は、オレよりもずっと高い……。

 髪は短髪のオールバック。

 これまた眼が大きくて鼻筋の通った美少年だ。

 あ……この人も、何か独特の雰囲気がある。

 オレみたいのが気楽に話し掛けても……絶対に返事してくれなそうな……。

 ……ちょっと、孤高な感じがする。


「……わざわざすまねぇな、愛美ちゃん」


 三十郎さんが、愛美さんに一礼した。

 へえ……芳沢三十郎って、普段からこんな風に歌舞伎っぽく喋るんだ…。


「すみません……本当なら、あたしの方から、もっと早くご挨拶に伺わないといけませんでしたのに……申し訳ありません」


 そう言って、愛美さんは頭を下げる……。

 そうだ、オレのチケットを『招待扱い』にして貰っていたことを思い出した。

 オレも、一緒に頭を下げる……。


「なぁに、大した用件じゃないんだ。……恵太郎の子供ってのは、その坊やかい?!」


 三十郎さんの二重のギョロっとした眼が……オレを捕らえた。


「男は、お前さんしかいないんだから……きっと、そうなんだろ?!」


 ……ケイタロウ。

 ……それって、やっぱり?!


「あの……多分、そうなんだと……思います」


 ……オレは。

 とりあえず、そう返事した。


「そうかい。おじさんは、芳沢三十郎って言って、お前さんのお父さんの恵太郎とは子供の頃から仲良くさせて貰ってるんだ……!」


 オレの父親……。

 ……恵太郎。

 本名は『エザキ・シン』なのだから……。

 多分……恵太郎は、歌舞伎役者としての名前だ。


「……そうなんですか」

「ああ……だから、何か困ったことがあったら、いつでもおいらに相談しにおいで。いいね」


 三十郎さんは、にこやかにそう言ってくれた。


「……ありがとうございます」


 ……オレは。

 突然知らされた言葉に……。

 ただ、驚くだけだった。


「……お前さん、自分が隠し子だからって、うつむいて生きてっちゃいけないよ……!」


 ……え?!

 オレは、思わず三十郎さんの顔を見る。

 すると、三十郎さんは、ヘヘン!と苦笑して……。


「実はね……おいらも、隠し子だったのさ……!」


 え……この人も?!

 愛美さんの顔を見ると、小さく頷いた。


「……歌舞伎の世界じゃ、そんな話はそう珍しいことでもないんだ。だからね、おじさんのことは年の離れた兄さんだとでも思って、いつだって頼りにしてくれて構わないんだよ。ええっと……お前さん、名前は何て言うんだい……?」


「け、恵介です……!」


 オレは……自分の名前を告げた。


「なんだい、恵太郎の息子が恵介かい。なるほど……よくできてやがんな」


 ……そっか。

 ……だから。

 ……オレは、『恵介』なんだ。


「うん……やっぱり面影があるな。確かに、恵太郎の野郎の息子だ。間違いない。こうやって横から見ると、愛美ちゃんとも似ているな」


 三十郎さんは、オレと愛美さんを比較してそう言った。


「……似てますか?あたしと恵ちゃん……?」


 愛美さんが……そう尋ねる。


「ああ……鼻の形と口元がそっくりだね」


 三十郎さんにそう言われると……。

 ……そんなような気がしてくる。


「本当によく似ているわ、二人とも……やっぱり、姉弟なのね……」


 そう言ったのは……瑛子さんだった。


「……お前もそう思うだろ、銀坊!」


 三十郎さんが……隣に座っている少年に尋ねる。


「はい……僕も、三十郎先生のおっしゃる通りだと思います」


 その少年は、オレには興味が無いらしく……うつむいたまま無表情でそう答えた……。

 

 三十郎さんにチケットのお礼を言って……楽屋から失礼した。

 すぐに、加奈子さんがオレの耳元に囁く。


「今、楽屋の中にいた男の子のこと……忘れないでね……!」

「……何でです?」


 オレも小声で聞き返す。


「……あの子も歌舞伎俳優なの。鷹村銀之丞……歌舞伎界随一の踊りの名手・鷹村鏡太郎の芸養子よ……!」

「ゲイヨーシって何ですか?」


 またオレの知らない単語が出て来た。


「『芸養子』というのはね……歌舞伎の家に生まれたわけではないのに、才能を見込まれて養子になった人のことよ……!」


 才能を見込まれて……養子に?


「本当の子供では無いけれど……芸養子となったからは、その家の全てを受け継ぐのよ。名前も家も一門もね……!」


 ……はぁ。

 何か、よく判らないけど。

 とにかく、凄い才能のある若手俳優なんだな……!


「……絶対に忘れないでね!」


 加奈子さんが、さらに念を押す……。


「あの鷹村銀之丞は……愛美ちゃんの結婚相手の第一候補と言われている人だから……!」


 ……愛美さんの結婚相手?!


「……歌舞伎界一の踊りの名手の芸養子と……日本舞踊『紺碧流』の将来の家元候補。お似合いと言えば、お似合いな取り合わせでしょ?」


 ……確かに。

 ……そうかもしれない。


「だから……もし、結婚話が持ち上がったら……あたしと恵介さんで、ブッ壊すからね!!!」


 ……加奈子さん?

 相変わらず、愛美さんのこととなると……加奈子さんの眼の色が変わる。

 ……怖い。


「恵介くんは、愛美ちゃんのボディ・ガードになるんでしょ?!だったら、あんなやつブッ飛ばしてやらなきゃ……!」


 ……そっか。

 愛美さんを『守る』という戦いは……すでに始まっているらしい。





 ううむ。

 江戸弁て難しいですね。

 歌舞伎の世界の人が、一番江戸弁を濃く残していると言われていますが。

 ちなみに、近松門左衛門とかの上方の作品もありますので、

 歌舞伎役者さんは、江戸・明治期の古い大阪弁も正しいアクセントで喋れるんだそうです。

 その時代から演技の伝承として受け継いでいるわけですから。


 続きは、また明日……。

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