十五.おおづめ(その1)
愛美さんが……ブルブルと身体を震わせて、強く祖父に抗議する。
……オレは。
彼女の涙を見ただけで、充分だった。
「……もう、いいですよ、愛美さん」
「……恵ちゃん?!」
ハッとして、愛美さんがオレに振り向く。
「いいんです……もう」
愛美さんが、どれだけ抗議したところで……。
こんなこと……どうにかなるような話ではない……。
オレは……この老優に『拒絶』されているのだから。
「……山田君、だったね」
老優が……改めて、僕に向き直る。
「……はい」
オレは……真っ直ぐに、老優を見た。
せめて……堂々とした態度でいよう。
「愛美が……君に色々と迷惑を掛けたと思う。この子が、君に過度の期待をさせるような発言をしていたとしたら……大変申し訳ない」
……オレは。
「……いいえ。オレは、別に……特に何も、期待なんてしてませんでしたから……!」
老優の力強い視線に負けないように……。
オレは……ギッと見返す。
……負けるもんか。
「……そうかね」
「……はい」
……そうだ。
オレは、最初から……。
こんなことは『夢』だと思っていた……。
死んだバァちゃんの言う通りだ……。
……他人を信じてはいけない。
「愛美は、僕の孫にしてはよく出来た……いや、出来すぎた子です。この子は、子供の頃からいつもおとなしく、年長者の言うことを何でも素直に従います。我が儘を言ったことなどは、これまで一度もありません」
……それは。
オレの印象にある愛美さんとは……。
……全然違う。
「……まあ、早くから親元を離れて……祖父母の家に暮らしているからなのだろうと思っています。良い子すぎて……時には、もっと子供らしく、僕らに何でも望んで欲しいと思うこともあるくらいです」
老優の強い視線が……再び僕を貫く。
「……愛美は、君という存在を知って……まるで、本当に『弟』ができたように嬉しかったのだろうと思います。この子が、僕に内緒で君に会いに行った……ここへ君を連れてきた。それは、お友達の協力もあったのでしょうが……それでも、この子が僕に相談をしないで、こんな勝手な振る舞いをするのは意外でした。この子が、自分の意志で独自の行動をしたところを見たのは、これが初めてかもしれません。僕もできることなら、この子の気持ちを尊重してやりたい……!」
オレの知っている姿とは違う……。
本当の……愛美さん。
大人の言うことに決して逆らわない……。
そんな人なのか……。
「しかし……君も、少しは判っていると思いますが……この子は、特殊な環境の中で多くの人間の期待を背負っています。本当にたくさんの人間が、この子の将来に賭けている……」
日本舞踊『紺碧流』家元候補……。
現在の家元の孫娘……。
誰もが認める踊りの才能のある少女……。
……三善愛美。
「この子に期待している人間は……もちろん良い人間ばかりではありません。中には悪い人間もいます。この子は、この若さで、すでに様々な人々の思惑や野心の渦の中で毎日を過ごしています……過酷な重責を負わせていることを、正直、僕は不憫に思っています」
……祖父の言葉に。
愛美さんの……小さな肩が、震えている……。
「だからこそ……僕は、仲代家の主として、この子の未来に禍根を残すようなことはできません。君という存在は、やがてはこの子の未来に影を落とすことになるでしょう」
……『隠し子』。
家元の祖母の……もう一人の孫。
「……もちろん、必ずそうなるとは限りませんが……君というイレギュラーな存在を放っておけば、やがて紺碧流の一門の中に混乱を生むことになるだろうと思います」
……一族にとって、オレは不名誉な存在だから。
「……愛美は、きっと将来家元を継ぐことになります。今、君を僕の孫と認めてしまえば……いずれは愛美と親しい関係を得たいばかりに、君を取り込もうとする勢力が現れます。無理にでも、君と結婚しようとする不埒な輩さえ現れるでしょう……」
老優の推測は正しい。
そんな輩は、すでに現れている。
……この部屋の中にもいる。
「そういう混乱は、未然に防がねばなりません。そんなつまらないことが引き金になって、愛美り将来に傷を付けるスキャンダルに発展する可能性もあります……」
老優が……愛美さんを見る。
その眼差しは……厳しさの中に、家族に対する情愛が見えた。
オレを見る眼とは……違う。
「だから……山田君。僕は絶対に、君を僕の孫とは認めません。法律的、あるいは生物学的には、君は僕の孫なのかもしれませんが……決して君は、僕の『家』の人間ではない」
……そんなことは。
……判っている。
「……君は『他人』です。あくまでも『他人』として扱います。どうか、そのことだけは理解していただきたい……!」
……理解も何も。
最初から、オレは……。
この人たちを『家族』だなんて思っていない……。
この人たちに、何も望んでいない……。
「僕が『君を認めない』と世間に宣言することで……愛美への悪影響を最低限にすることができます。仲代の当主に認められないのならば……着物存在が明らかになったとしても、無茶をして君と関係を結ぼうという輩もいなくなるでしょう。だから、そうします。そうしなくてはいけない。そして……君も愛美とは『他人』であるということをきっちりと守っていただきたいと願います。このケジメさえ守っていただけるのなら……僕は幾らでも君に援助します。金は惜しみません。どうでしょう……そういうことで、納得していただけませんか?」
老優の言葉は、穏やかだった。
しかし……その眼は、オレに「納得しろ」と強く訴えている……。
そう広くはない楽屋の中が……何だか、妙に寒々しく感じた。
緊張した静寂が、ゆっくりと拡がっていく……。
……そうだよな。
不名誉な『隠し子』に、血のつながりなんて何の意味も無い。
愛美さんたちみたいに……オレに、優しくしてくれる人の方が珍しいんだ。
これが、普通の対応なんだ……世の中の大人の。
……うん。
……実に判りやすい。
……とっても、判りやすくて泣けてくるぜ。
この老優は……決して悪い人じゃない。
この人は結局……自分の愛する孫娘を、守りたいだけなんだ。
そして……息子のしでかした『汚点』であるオレには、一片の愛情も持っていないということを、正直に話してくれてた。
わざと、オレに嫌われるように……。
愛美さんに対しても……悪役を演じてくれている。
……そうすることで。
これが……世の中の現実的な対応であることを、はっきりオレたちに教えてくれているんだ。
これはこれで……立派な大人の正しい姿なんだろう。
それは……判る。
適当に耳障りのいい嘘をつかれるよりは、よっぽどいい……。
厳しい対応をしてくれて……助かる。
ありがたいとさえ、思う……。
その上……愛美さんの二人の親友にも、この場に立ち会わせることで『これ以上深く関わるな』と、釘を差している。
これは……仲代家の……『紺碧流』全体に関わる問題なのだと。
愛美さんの個人的な気持ちで……どうにかできることではないのだと……。
……うん。
さすが……名優だ。
全ての行動……言葉の裏に、ちゃんと意味がある。
だから……この人が、オレをずっと援助してくれるという話も信頼できる。
この人は自分のプライドにかけて……オレとの約束を守り続けてくれるだろう。
…………だけど!!!
プライドなら……オレにだってある……!
「あの……今日は、本当にありがとうございました」
オレは……老優に頭を下げた。
「お芝居は、本当に面白かったです。こうしてわざわざ会ってもいただいて、本当に心から感謝します……!」
オレの心は……冷たく凍り付いていた。
今ここで何をすべきか……。
何を成すべきかは、はっきり判っていた。
オレは……死んだバァちゃんの孫だ。
……バァちゃんなら。
きっと……こうする……!!!
「……オレのことについて、色々とお気遣いをしていただいて本当にありがとうございます。でも、オレ……自分の『家族』でない人からお金を恵んでいただくことはできません。その必要もありません。オレは、乞食ではありませんから…!」
……バァちゃんなら、きっとこう答える!
オレのバァちゃんなら……!!!
「あなたの息子さんにも……『養育費は中学を卒業するまででいい』と伝えて下さい。中学さえ出れば義務教育は終了です。これから先は……自分で働いて、自分の金で生活していきます。誰の面倒にもなりません……!」
オレは……親父と母親に捨てられた。
育ててくれたバァちゃんも……もういない。
オレはもう、天涯孤独なんだって思っていた。
その『現実』を……オレは、受け入れる。
『他人』なんかに助けてもらうもんか……!
『他人』なんかに、情けを掛けられてたまるか……!
……ちくしょう!!!
「……恵ちゃん、ちょっと待って!」
愛美さんが……真っ青な顔で、オレを止めようとしてくれる。
……でも。
オレはもう……この人に甘えることは、許されない……。
「愛美さん……これまで、オレに優しくして下さって、本当にありがとうございました。あなたに会えて良かった」
「……恵ちゃん?!」
愛美さんが……怯えた眼で、オレを見る。
「本当に……感謝しています。でも……これっきりです。もう、二度とオレに会いに来ないで下さい」
「……恵ちゃん、そんなこと……言わないでよっ……!」
愛美さんの大きな瞳に、くわっと涙が溜まっていく……!
オレだって泣きたい……!
でも……泣くもんかっ!
泣いてたまるもんかっ!!
「日舞……がんばって下さい。オレ……応援していますから。ずっと……!」
……オレは。
……もう、限界だ。
ここには……いられない。
「……オレ、帰ります」
そう……老優に挨拶した。
「待ちたまえ……清香くんに車で送らせよう」
老優は、そう言ってくれるが……。
「結構です……電車で帰ります」
「……帰り方は判るのかね?」
……正直、この建物が何処にあるのかさえ、よく判っていない。
「大丈夫です……オレ、もう大人ですから」
だけど……ここは突っ張る。
……隙を見せてはいけない。
「せめて……車代だけでも受け取ってくれないかね?」
車代って……タクシー代のことか?
……オレ。
とことん馬鹿にされているんだな。
「大丈夫です……電車代くらい持ってますから」
ここから二千円で……帰れるだろうか?
いや……足りなきゃ、歩けばいい。
地面は繋がっているんだ……。
何時間掛けても、歩いて帰れないことはない……!
「……失礼しましたっ!」
オレは……バッと立ち上がって……。
楽屋の出口へ向かう……。
オレの背後で……。
「うわぁぁ!」と愛美さんが泣く声が聞こえた。
それでも……オレは、振り向かない。
愛美さんの顔を見たら……きっと未練が残る。
畳の下に……脱いだままのオレの靴が見えた。
愛美さんや加奈子さんたちの靴は……綺麗で高価そうな革靴だ。
その中に……オレの薄汚れた運動靴がクタッとしている。
綺麗で高価な物の中の……安物の『汚物』。
それが……今のオレの姿だ。
急いでここから立ち去ろう。
そして、忘れよう。
……愛美さんのことは、もう…!
そう思って、靴を履こうとした瞬間……!!
……オレは。
突然……制服の首の後ろを思い切り引っ張り上げられたッ……!!!
「……待て!」
それは……綾女さんだった。
背の高い綾女さんが……。
オレのシャツの首根っこを、グッと掴んでいる……!
「……ええっ?!」
そのまま……力任せに、グィッ!と引き上げたぁッ……?!
「……うわわわわっ!!」
もんどりかえって……畳の上に投げ落とされる、オレ!
「……まだ、話は終わっていないっ!」
もの凄い怖い顔で……綾女さんが、上からオレを睨んでいる!!!
「……あの、綾女さんっ?!」
オレが、そう言うと……。
「……いいから戻って、愛美に謝れっ!愛美を泣かすやつは、あたしが許さないっ!」
再び、グイッとオレを掴み上げる
「……ちょっちょっ、ちょっと待って!!!」
……そのまま!
……綾女さんは、力任せにオレを突き飛ばすッ!!!
……あわわわわわっ!
オレの身体は……楽屋の壁に強く打ちつけられて……!
そのまま……畳の上に倒れ込むッ!!!
「……痛ててててッ!」
さらに綾女さんの手が……オレの胸ぐらを掴む!
……その瞬間!!!
「やめなさい、綾女さん……!」
それは……。
加奈子さんの声だった……!
「高塚綾女さん。もし、あなたが……これからもずっと愛美ちゃんの側にいるつもりなら、こういう場で取り乱してはいけないわ。最低よ……あなた……!」
加奈子さんは、穏やかに話しているが……。
その言葉には……熱い怒りが込められていた。
「……ご、ごめんなさい」
オレのシャツから、綾女さんの手が離れる……。
「……恵ちゃん!」
すかさず愛美さんが……オレと綾女さんの間に飛び込んでくる!
「……大丈夫、恵ちゃん……?!」
畳の上に倒れて転がっている……オレ。
そのすぐ真上に……愛美さんの綺麗な顔がある……。
……優しい顔、。
悲しげな……美しい顔。
熱い何かが……ぽたりぽたりと、オレの頬に零れて弾ける……。
それは……愛美さんの涙だ。
温かい涙が……!
「……オレは……大丈夫ですから」
ようやく……それだけが言葉になった。
すると……愛美さんは、すっと身体を起こして……。
そのまま、お祖父さんの前に正座する。
……そして。
……深く深く。
……畳に、額をこすりつけるほど深く……。
……祖父に、頭を下げた。
「……お祖父様……これまで、愛美をお慈しみ下さいまして、ありがとうございました」
「……ま、愛美?」
突然の孫娘の態度の変化に……老優は、すっかり狼狽している……。
「愛美は、もうお祖父様の所に置いていただくわけには参りません……今夜からは、恵ちゃんの家で、恵ちゃんと一緒に生活していきます」
……ま、愛美さん?!
「これからは……愛美が、毎日、恵ちゃんのご飯を作って……恵ちゃんのお世話をします。恵ちゃんを高校に行かせるために、愛美が外で働きます……!」
……どうして?
……どうして、そうなるんだよ?!
「あたしは……一生、恵ちゃんを守ると、恵ちゃんのお祖母様のご霊前にお約束しました。ですから……あたしは!」
……バァちゃん。
……天国のバァちゃん…!
この人は……本当に、いい人だよ。優しい人だ。
……だけど。
……だけど。
……だけど!
オレは……そんなことを望んではいないッ!!!
オレ……どうしたらいい?!
オレ、どうしたらいいんだろ……!
……バァちゃん!!
歌舞伎の劇場の楽屋には、二度だけ行ったことがあります。
国立劇場と新橋演舞場です。
どっちも十年近く前のことなんで、もう記憶が薄くなってきているのですが……。
特に、演舞場は芝居の休憩時にお邪魔したのですが……。
休憩時間の俳優さんが衣装やメイクを直している間中……。
ずっと、ご贔屓のお客さんが話し掛けていました。
次の開演時間ギリギリまで……。
俳優さんにとっては、休憩時間も休憩できないんですね……。
お客さんの応対をするのも……仕事ですから。
では、また明日……。




