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十三.だんまり


 ……愛美さんのお母さん?!

 ……てことは。

 この人が……オレの父親の本妻だった人……。

 オレの母親は、この人の夫と浮気をして……。

 ……オレが、生まれた。


「……珍しいわね。愛美が学校の制服で劇場に来るなんて。いつも観劇の時は、お洒落しているのに……!」


 ……え?!

 その言葉で……全てがサッせられた。

 ……愛美さんは。

 オレが、ロクな服を持っていないことを知っていたから……。

 だから……オレに恥ずかしい思いをさせないように……。

 綺麗な服に着替えずに……わざわざ、学校の制服のままで来てくれたんだ。

 加奈子さんたちも……愛美さんに合わせてくれた……!!!


「……お久しぶりですわ、美世子おばさま」


 ……スッと、加奈子さんが前に出る。

 まるで、この口の悪い母親から……愛美さんを守るように……!


「まあ、加奈子ちゃん、相変わらず綺麗ね……ところで、そちらの坊ちゃんはどなた?」


 オバサンの冷たい視線が……オレに向けられる。


「それ……天覧学院の制服ではないわね?!」


 うん……ただの、公立中学の学生服だ。

 三年着て……布地がくたくたで、表面がてらてらしている……。

 ……みっともない限りだ。


「……どういう関係のお友達?


 ……オレは。

 どう返事をしたらいいのか判らなかった……。

 まさか、ここで……「あなたの夫だった人の『隠し子』です」と自己紹介するわけにもいかない。

 ……すると。


「……わたしの親戚の子です」


 綾女さんが……オレの代わりにそう答えてくれた。

 ……愛美さんと加奈子さんは、黙っている。

 愛美さんのお母さんは……じろじろと、オレを見た。

 まるで、人間を値踏みするような……嫌な眼で……。


「……あなた、何年生?」


 冷たい眼で……オレに尋ねる。


「……中三です」


 一瞬悩んだが……素直に本当のことを言った。


「……本当に?」


 何だ、そりゃ……!

……どうせ、小学生にしか見えないってんだろ。

 小学生が、学生服を着ているみたいで悪かったな……!

 そしたら……オバサンは。


「……まあ、いいわ。愛美と仲良くしてね」


 そう言って……愛美さんを見て、ニタッと笑った。

 嫌な……笑いだった。


「……美世子様、撫子先生からお言付けがございます」


 そこにスッと、清香さんが割り込んでくれる……。


「あら、何かしら…?!」


 上手い具合に……清香さんが、オバサンをオレたちから引き離してくれた。

 ……ふぅ。


「……美世子おばさまは、青山でファッション関係の会社を経営していらっしゃるの。海外の新興ブランドを、日本のバイヤーに紹介するお仕事よ。今日は、会社のお得意様をお連れになったのね……!」


 加奈子さんが……そっと教えてくれた。

 なるほど……オバサンの後ろに、同じように派手派手しく着飾った中年女性の一団がいる。

 これがみんな……そのバイヤーとかという仕事をしている連中なんだろう。

 オバサンは……勝手気ままに生きているような、自由な感じがした。

 何の苦労もしないで……毎日を楽しく過ごしているような……。

 この人が……愛美さんの母親。

 愛美さんの……親権を持っている。

 なのに……愛美さんは、ずっと父方のお祖父さんの家で暮らしていて……。

 それを平然と受け入れている……。

 自分の娘を……別れた夫の実家に預けたままにしていていることに、恥じていない。

 むしろ、それが当然という顔をしている……。

 もちろん……オレには、他人の家の複雑な家庭状況については、よく判らない。

 ……でも。

 愛美さんは……どう思っているんだろう。

母親に出会ってから……愛美さんは、青白い顔をして、ずっと俯いている。

……お母さんのこと、苦手なのかな? 

 

「美世子おばさま……わたしたち、そろそろ席に戻りますので、これで失礼致します……!」


 タイミングを計って……加奈子さんが、オバサンにそう言ってくれた。


「そう……じゃあ、またそのうちね、愛美!」

「―はい、お母様……」


 とても、母娘とは思えない……よそよそしい会話。

 みんなでペコリと頭を下げて……とにかくその場から脱出する。

 清香さん一人に、オバサンを押しつけてしまったのは申し訳ないけれど……。


「……振り向かないで」


 加奈子さんが……オレに囁く。


「こっそり、恵介さんを見ていらっしゃるわ……美世子おばさま……!」


 ……オレを。

 やっぱり……気付かれたのか?


 一階に下りるエスカレーターに乗る……。

 ここまで来れば……もう、オバサンの視界から逃れられたはずだ。

 ……そうだ。

 綾女さんに、お礼を言わないと……。


「あの……さっきは、ありがとうございます」

「……何のこと?」


 綾女さんは、不思議そうな顔をして……オレに振り向く。


「オレのこと……『親戚の子』って誤魔化してくれたでしょ?」


 すると……彼女は。


「……それ、嘘じゃないから」


 ……はい?


「……あたし、愛美の遠縁なの」


 ……遠縁?

 てことは……当然、オレとも縁戚なんだ。


「……愛美のお祖父様のお兄様の長男の孫の奥様のお兄様のお嫁さんが、わたしの姉だから」


 ……ええっと。

 ……あの、もう一回言って貰えます?


「とにかく……あなたも、あたしの『遠縁』であることに間違いは無いのよ」


 そう言うと……綾女さんはプイッと前を向いてしまった。

 ……あれれれ。

 こういう時は……加奈子さんだ。

 加奈子さんは、何でも教えてくれるから……。

 と……思ったら。

 加奈子さんは、愛美さんと……何やら深刻そうな話をしている。


「……多分、美世子おばさまは、恵介さんのことお判りになったと思うわ」


 ……それって。

 やっぱり、オレの正体に気付いた?


「……構わないわ。あの人には、どうすることもできないもの」


 愛美さんが、オレに振り向く。


「……恵ちゃんは、心配しないでいいんだからねっ!」


 愛美さんの笑顔は、優しい。

 だけど……。

 オレには……何を『心配する』まかさえ、判らない。

 まだまだ……オレの知らない秘密があるのか……。

 子供扱いは……そろそろ頭に来る。

 ……嫌になる。

 ……悲しくなる。

 愛美さん……。

 本当にオレ……。

 あなたと、一緒に居ても……いいんですか?

 

 


   ◇ ◇ ◇




「……恵ちゃん。最後の作品はね、約二時間のお芝居だからね」


 座席に戻った愛美さんは……。

 無理に明るく、ちょっとだけお喋りだった。


「……お芝居?」

「そうよ……頭から終わりまでストーリーのある、一本の演劇作品よっ!」


 オレは……最初に貰ったパンフレットを開いてみた。

 ……しかし。


「……これ、何て読むんですか?」


 オレには……タイトルが、どう読んだらいいのか判らない。

 パンフレットには……『梅雨小袖昔八丈』って書いてあるけど……。


「……つゆこそでむかしはちじょう」


 綾女さんが教えてくれた。

 何だ……そのまま読めば良かったのか。

 しかし……どういう意味なんだ、これ。


「このお芝居はね……正式な題名より、『髪結新三』っていう通称の方が有名なのよ……!」


 加奈子さんが、笑って教えてくれた。

 ……まあ、いいや。

 判らないことは、イヤホンで解説はてくれるだろうし……。


「……あ、恵ちゃん、このお芝居はイヤホン・ガイドいらないから!」


 耳にイヤホンを差し込もうとしたオレを……愛美さんが止める。


「……え、何でです?」


 また最初の『勧進帳』みたいな……大昔の日本語だったら……。

 オレには全然、何を言っているのか……判らないんですけれど……。


「この作品は、イヤホンがなくても普通に言葉が判るわよ……!」


 加奈子さんが、オレの顔を見て……笑いながら、そう言う。


「……黙阿弥だから」


 綾女さんが……また謎の言葉を言う。


「……モクアミ?」

「ああ、黙阿弥さんというのはね……幕末から明治に掛けて活躍した、有名な狂言作者の名前よ……!」


 ……キュウゲンサクシャ?


「恵ちゃん……歌舞伎の台本を書く人のことをね、狂言作者って言うのよ」


 ああ……脚本家か。


「黙阿弥さんの言葉は、明治時代の言葉だから……そんなに、今とは変わらないわ。今度は一番目の『勧進帳』と違って、恵さんにも俳優さんのセリフが判るはずよ……!」

「……解説が無い方が楽しめる」


 三人のお姉さんは、そう言うけれど……。

 明治だって、百年以上も前の時代じゃないですか?!

 ホントに判るのかな……。


「いいから、わたしたちを信用して……!」

「……観てみれば判る」

「本当に、とっても面白いお芝居なのよ。恵ちゃん、きっと気に入ってくれると思うわっ!」


 そして、拍子木が鳴る……!

 ……幕が上がった。


 愛美さんの言葉は、本当だった……!

 『梅雨小袖昔八丈(髪結新三)』は、さっきの『勧進帳』とは全然違う……!

 あれも……歌舞伎。

 これも……歌舞伎……?!

 いや……踊りの『鏡獅子』だって、歌舞伎だし……。


 明治に書かれた……江戸時代のお芝居は、オレにも舞台の登場人物たちが何を言っているか判った……。

 たまに、よく判らない言葉も出てくるけれど……それでも、物語は理解できる。

そのストーリーが面白くて、芝居の中にぐいぐいと引き付けられる……。

 しかも、舞台である昔の江戸の様子が……とても生活感に満ちあふれていて、面白い……!


 『髪結新三』という通称は、物語の主人公に由来していた。

 『髪結』というのは……江戸の町の人たちのチョンマゲを結う床屋さんのことだ。『新三』は、その仕事をしているのだが……自分の店を持っているのではなく、道具を持ち歩いてお得意さんを廻って仕事を貰い歩いている。

 その新三を……今度もまた、綾女さんの義理のお兄さんである芳沢三十郎が演じていた。

 この主人公が……とにかく小ずるくて、器の小さい小悪党なんだけど……何とも憎めない魅力的なキャラクターだった。

 江戸時代の不良青年って言うか……本物の『江戸っ子』っていうのは、こういう感じの人なのかと思うような言葉遣いでハキハキと喋って行動する……。

 物語の途中で……新三は、大きなお店のお嬢さんを誘拐して来て、自分の長屋に監禁する。

 そこへ……お店の人に頼まれたヤクザの親分が、娘を取り戻しに来るんだけど……。

 身代金の額が少ないことに腹を立てた新三は、親分に目茶苦茶なイチャモンをつけて追い返してしまう。

 身代金の金額を聞く前と聞いた後で、新三の態度がガラリと豹変するのが面白い……。

 そしたら、ヤクザの親分の次に……今度は、新三の長屋の大家さんがやって来て……。

 この大家さんを演じているおジィさんの俳優さんが、また不思議な魅力がある人だった……!

 何とも……ひょうひょうとした感じなのに、どっしりと貫禄がある。

 いいように新三をあしらって……あっさり、お嬢さんを取り返すことに成功する。

 大家さんの方が、悪党の新三よりもさらに一枚上手の悪党っていう感じで……「ああ言えば、こう返す」みたいな二人のやり取りがまるで落語みたいで大笑いしてしまった。

 しまいには……大家さんは、身代金の半分を巻き上げた上に、新三が今買ってきたばかりの初カツオの半身まで取り上げていくのだ……!

 新三が半べそで、「オレも相当太いが、大家さんはもっと太ぇ…!」と嘆く場面は、涙が出るくらい笑った。

 ……芝居の最後の場面。

 さっき、新三に小馬鹿にされて追い返されたヤクザの親分が……人のいないお堂の前で新三を待ち伏せして、刃物を持って襲いかかる……!

 しばらくは……戦っている二人の動きが、綺麗に何度もストップモーションになりながら踊りみたいに続く。

 拍子木が何度も、バンッ!バンッ!と鳴って……。

 と……そのうち、観客席の灯りがスーゥと明るくなってきて……?!

 突然、新三と親分が客席の正面に向かって……正座して頭を下げてる。

 「まぁず、今日はこれぎり……!」と訳の判んないセリフを言ったかと思うと……。

 拍子木が「チョンッ!」と鳴って……!

 そのまま……幕がススススゥーっと、閉まって行く!

 ……え?

 もしかして……これで終わり???!

 新三と親分の決闘……ものすごく、中途半端じゃねぇの?!

 でも、「ワーッ」というもの凄い拍手の中……周りのお客さんは、みんな帰り支度を始めているから……。

 本当に……これで『終幕』になっちゃったんだ。

 ……ええっと。

 だけど……何か、納得がいかない。

 というか……スッキリしない。

 この後……新三は、ヤクザの親分から逃げられたのか?!

 ……逆に親分を刺し殺しちゃったりとか……?!


「……加奈子さん、この場面の続きはないんですか?」


 どうしても先が知りたくて、加奈子さんに尋ねた。


「……あるわよ。元々のお芝居だと、新三はあそこで刺されて死んじゃうの」


 ……死んじゃう?

 ……主人公なのに?


「……えっ、新三の方が殺されちゃうんですか?」

「そうよ。だから、『わざわざ主人公が殺される場面まで、お客様にお観せすることはない』っていう考えで、ここで幕切れになるの。もちろん、本当のラストシーンまで、きちんと最後まで観せるっていう演出の時もあるけれどね……!」

「本当のラストシーンって?」

「あたしも観たことはないんだけど……新三を殺した親分さんが、自首することを決意して終わるんだったと思うわ」

「……自首する?」

「ほら……この作品が書かれた時は、もう明治だから。自分から名乗り出て、自首するみたいなストーリーが推奨されたのよ」

「でも……何か、釈然としない終わり方ですね。主人公が殺されて、殺した方が自首するなんて……!」

「だから、今ではほとんどラストシーンは上演しないのよ。ここで、バッサリ終わった方がいいでしょ。華やかだし……。


 ……そう言われちゃったら、そういうものなのかもしれないけど。


「恵ちゃん、どうだった……面白かった?」


 愛美さんが心配そうな顔で、そう聞いてきた。

 ……オレは。


「ふの……何ていうか、テレビのドラマとかとは違ってて……悪い人が主人公で、ズルイことばかりしているのに、とっても魅力的で……」

「……歌舞伎と現代作品では、作劇の観点が違うから」


 綾女さんが、そう呟く。

 『作劇の観点』て……何だろう?


「……そうね。歌舞伎の世界は、『勧善懲悪』というより『因果応報』だものね」


 加奈子さんの説明は……もっと判らない。


「……とにかく、言葉の判らなかった『勧進帳』よりも、今の『髪結新三』の方がストーリーがよく判って、すごく面白かったです」


 オレは……愛美さんに『面白かった』を強調して伝える。


「そうね……初めて歌舞伎を観る人には、『勧進帳』の様な『時代物』よりも、『新三』みたいな『生世話』の方が判りやすいわよねっ……!」


 キゼワ……ジダイ?

 また、オレの知らない単語が出てくる。


「ほら……時代劇って言葉があるでしょ?」


 加奈子さんが、笑ってオレに説明してくれる。


「あ……はい」

「あれって、歌舞伎から来ている言葉なの。江戸時代には幕府の監視があったから、『これはみんな昔の時代の話です。今の幕府の政治を批判しているわけではありません』という形を取って、『時代劇』として演じることが多かったのね」


 江戸時代の……時代劇。


「『忠臣蔵』とかもそうよ。あれの元になった『討ち入り事件』はもちろん江戸時代にあったことなんだけど……歌舞伎の物語は、南北朝時代の話として書かれているの」


 ……はぁ。よく判らないけれど。


「そういうのは、武士の世界を描いた物が多くて……表現も大げさで、力強いのよ。それが……『時代物』ね」


 加奈子さんの説明の続きを……愛美さんがしてくれる。


「これに対して『世話物』というのはね……江戸時代の現代劇なのっ!」


 江戸時代の……現代劇。


「うん……基本的に江戸時代の町人の世界の話で、その時代に起きた事件とかを元に、物語が作られているの。だから、表現は基本的にナチュラルで……時にリアリズムな芝居を『生世話』って呼ぶのよ」


 ……はあ。

 歌舞伎にも、色々あるんだ。


「恵ちゃん……面白いこと、教えてあげようか?」


 愛美さんが、ニッと微笑む。


「今日最初に観た『勧進帳』が、最初に上演されたのが元禄十五年……1702年よ。そして、最後に観た『髪結新三』こと『梅雨小袖昔八丈』の初演は、明治六年……つまり、1873年よっ……!」


 1702年と1873年……?1


「二つのお芝居の間には、百七十年以上の時間があるのよっ!」


 ……百七十年!

 そっか……そんなに長い歴史があるんだ。

 ……そうだよな。

 伝統芸能だもんな。


「ちなみに……今日の中幕の『鏡獅子』の初演は、明治二十六年……1893年が初演ね。実は今日観た作品の中では、一番新しいのよ……!」


 加奈子さんが、そう補足してくれた……。


「……恵ちゃん、古い時代のお芝居も、舞踊劇も、新しい時代のお芝居も……これみんな、全部まとめて『歌舞伎』なんだよっ……!」


 『勧進帳』も『鏡獅子』も『髪結新三』も……全て歌舞伎。

 本当に、長い間、続いてきた芸能だから……。

 とてつもなく幅が広くて……奥が深いんだ……。


「……とっても、面白かったです。綾女さんのお義兄さんの演技も魅力的だったですけど……あの新三をやりこめる『大家さん』が良かったですね。すごく迫力があって」


 オレは……とにかく、オレに言える感想を言った。

 芝居の良し悪しは、オレにはわからない……。

 オレが言えるのは……自分が何を気に入ったかという点だけだ。


「……恵ちゃん、ホント?」


 愛美さんが、オレの目を覗き込むようにして言った。


「ホントですよ……オレ、あのお爺さんの俳優のファンになっちゃいましたから……!」


 テレビドラマとかには、出てないのかな?

 出てたら、必ず観るのに……。

 今日の収穫は、それだけで充分だろう。

 歌舞伎なんて……もう二度と観に来ることはないんだろうし……。


「愛美ちゃん……そろそろ行きましょうか?」


 加奈子さんが、席を立った……。

 ああ……帰るんだな。

 うん……もう九時過ぎだし。

 家に帰ったら……十時か。

 バァちゃんの遺影が……頭に浮かぶ。


「そうね……そろそろいいと思うわ」


 愛美さんは……ちょっと、緊張しているみたいにそう言った。

 ……何がいいんだろう?


「……行きましょう、恵ちゃん」




   ◇ ◇ ◇



 愛美さん、加奈子さん、綾女さんに続いて……席を立つ。

 愛美さんは……観客席から、出口へ向かう人の流れに逆流して劇場の廊下に出た。

 迷うことなく……出口とは反対側の……建物の奥の方へ進んでいく。


「あの……こっちは、出口じゃないですよね?」


 心配になって……加奈子さんに尋ねてみた。


「ふふっ、当たり前でしょ!」


 加奈子さんは、軽く笑う……。

 綾女さんは、こっちを向いてくれないし……。

 愛美さんの表情は……何だか硬い……。

 ……オレたち、どこへ向かってだろう?!

 そのまま……廊下を真っ直ぐに突っ切って……。

 愛美さんは……壁の突き当たりの『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた鉄のドアを、ギィと押し開いた……!


「……愛美さん。それ、勝手に開けるのはマズイんじゃ?!」


 ……『関係者以外立ち入り禁止』なんだし。


「……いいのよっ!」


 愛美さんは、一言そう答えるだけ。


「……大丈夫だから」


 綾女さんが、チラッとオレに振り返る。


「無関係ではないからね、わたしたち……!」


 加奈子さんが、ニコッと微笑んでくれた。

 ……あの。

 それって、どういうことですか?


「……歌舞伎の世界ではね……劇場に来たお客様が、俳優さんの『楽屋』を訪問するのは普通のことなのよ……ほら!」


 加奈子さんが指し示すドアの向こう……。

 いわゆる、バック・ステージには……長い廊下に、俳優さんの楽屋が幾つも並んでいた。

 まだ、本番が終わったばかりで……舞台衣装のままの俳優さんや黒衣の格好をした人たちが、うろうろしている。

 あ……加奈子さんの言うとおりだ。

 確実に、観客としか見えない人も歩いている。

 これはみんな……贔屓の俳優さんに会いに来ているんだ。

 あ……そっか。

 愛美さんたちも……綾女さんのお義兄さんの芳沢三十郎に挨拶しに来たんだな。

 今日は……三十郎さんの奥さん(綾女さんのお姉さん)の瑛子さんにチケットを手配して貰ったんだし……。

 オレの分は、招待券にして貰っちゃてるし……。

 このまま楽屋に挨拶しないで帰ってしまうというのは……とても失礼なことなのかもしれない……。

 こういう世界の『常識』は、オレにはよく判らないけれど……。

 でも……オレも一緒に来ちゃって、良かったのかな?

 オレ……一人だけ、部外者なわけだし。


「あの……愛美さん。オレ、外で待ってましょうか?」


 と……恐る恐る、聞いてみると、


「……いいから、付いて来なさいっ!」


 ちょっと声が怖い……。

 まあ、しょうがない。

 招待にしてもらったオレの分のチケットのことは……オレが自分で瑛子さんにお礼を言うべきだろうし……。

 元アナウンサーで、人気歌舞伎俳優の奥さんに……オレみたいのが、直接お礼を言うのは失礼かもしれないけれど……。

 ……ん?

 何だ……この匂いは?

 歌舞伎のバック・ステージは……白粉と役者さんの汗が混じった独特の匂いがした。

 ふっと、廊下の奥の舞台の方を覗いてると……。

 まだ芝居の熱気が……あちらこちらに、籠もっている感じがした。

 廊下に貼られている案内板には、『浴室→』というのが見える……。

 ……そうか。

 歌舞伎の劇場には、風呂場があるんだ。

 そうだよなあ、全身に白粉を塗りたくったりしてるんだもんな。

 あんなの、お風呂場でなけりゃ落とせないよな……。

 うん……眼に入ってくるもの、全てが珍しい。

 ……とっても、興味深い。

 こんな所……もう一生、来られないんだし。

 気分を切り替えて、気楽に見学させて貰おう。

 オレは、そう思った……。


 愛美さんは……草緑色の暖簾の掛かった楽屋の前で立ち止まった……。

 そこには……またしても、清香さんが先回りしている。

 清香さんも……ご挨拶かな。

 清香さんは……無言のまま、スッと愛美さんに頭を下げる。

 愛美さんも、真顔でウンウンと頷いてみせる。

 加奈子さんと綾女さんにも、目配せして……。


 ……どうしたんだ?

 ……何かあるんだろうか?


 楽屋口の暖簾には、茄子の絵と何やら漢字が染め抜かれている……『緑郎左衛門賛江』。

 ……あれっ?!

 ……ここって、もしかして。

 芳沢三十郎さんの楽屋じゃ……ない?


「……先生、愛美さんがいらっしゃいました」


 清香さんが、楽屋の中の人に取り次いでくれた……。

 ……え?

 先生って……誰?!


「……うむ、入って貰いなさい」


 部屋の中からは、年輩の男の低くて渋い声が聞こえる……。


「……さあ、恵ちゃん。行くわよっ」


 愛美さんは、何だかとても緊張しているし……。

 愛美さん、綾女さん、加奈子さん、オレの順番で暖簾を潜る……。

 中は……畳敷きの和室になっていた。

 思っていたよりも……広い。

 履き物を脱ぐ『次の間』になっている所に……紺色の和服を着た若い男の人が二人控えていた。

 ……多分、お弟子さんとか、付き人さんとか……そういう人に違いない。

 奥の座敷の方を覗いてみると……。

 使い込まれた年代物の鏡台の前に……誰かがいる……?!


 ……あわわわわっ!!!


 それは……さっきの『髪結新三』の大家さんだった……!


 芝居の時の衣装のまま……化粧もそのまま…。

 その『老優』は、どっしりとして……部屋の主として、そこに座している……!


「先生……本日は、お招きいただきましてありがとうございます」


 加奈子さんと綾女さんが……サッと老優に頭を下げた。

 オレも……頭を下げる。

 ……これって。

 この俳優さんが、加奈子さんたちを招待したってこと……?


「うむ……よく来てくれました。楽しんでくれましたか?加奈子ちゃん、綾女ちゃん……!」


 老優の眼が、ギロリとオレを睨んだ。

 まるで「お前なんか呼んだ覚えはない」と言わんばかりの……強烈な視線!


「……お祖父様……こちらが、山田恵介さんです!」


 愛美さんが、かしこまってそう言った……!


 ……お祖父様だって?!!!




 下げが天丼になってますが……気になさらないように。

 そろそろクライマックスです。


 では、また明日。

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