十.げきじょう
オレたちの車は……そのまま、どんどん都心に向かって走り続ける……。
大きな通りを、走り抜けて……。
何か……本当に東京の繁華街って感じの所を走っているんですけれど……。
……そうだよな。
『カブキ』の劇場なんだから……こういう所にあるんだよな。
と……思っていたら。
車は……繁華街を抜けて……。
「……あれって」
「……恵ちゃん、知らないの?皇居だよ」
……さすがに、オレだって皇居ぐらいは知っている。
都内には……他にお堀は無いだろう。
このお堀端の景色を見れば、だいたい判る……。
……ただ。
……オレは今まで、車の中から皇居を観たことなんて無かったから……。
ていうか……車になんてそんなに乗らないし。
さすがに……バスは乗るけれど。
こんな、普通の乗用車に乗ったのは……生まれてこの方、ほんの二、三回だ。
……車に乗る必要なんて、無いもんなあ。
オレの普段の生活では……。
……し、しかし。
お堀の廻りってのは、本当に凄い建物ばかりだな……。
何か……日本の中心ていうか。
国のお役所の建物がいっぱいっていうか……。
へえ……警視庁って、こんな所にあるんだ。
……あ。
……あの建物は、知っている。
あれ……国会議事堂だよな……多分。
うん……テレビで観るのと、同じ形している。
総理大臣が住んでるとこだよな、確か……。
て……おいおい。
この車……。
どこへ向かっているんだよ……。
……ん?
「……何じゃ、ありゃ?」
思わず……声を出してしまった。
何か……すんげぇ立派な……何かロボットアニメの秘密基地みたいなコンクリートのでっかい建物がある……。
コンクリートの壁がくるっと開いて、ミサイルとか発射しそうな感じだ。
「あれ……最高裁判所よ」
オレのぽかーんとした顔を見て……加奈子さんが、小さな声で教えてくれた。
……あれが。
最高裁判所……?!
教科書で、その存在は知っていたけれど……。
本当に、実在していたんだ。
しかし……何で、あんな戦闘要塞みたいな建物なんだ?!
「……歌舞伎の劇場は、最高裁判所のすぐ裏にあるのよ」
なぜ……そんな場所に?!
『カブキ』って……もしかして、相当ヤバイものなのか……?!
「……うふふ」
加奈子さんが……オレの顔を見て笑う。
「……はい?」
オレは……意味が判らない。
「愛美ちゃんの言う通りね……ホント、可愛らしい弟さんね……」
また……年上の女性に……。
……可愛いと言われた。
「でしょう。加奈子さんっ……!」
って……愛美さん。
何で、あなたが鼻高々なんですか……?!
「コロコロ表情が変わって……面白いわね、恵介さん!」
加奈子さんは……天使のように微笑む。
「素直で良い子なのよ……恵ちゃんは……!」
愛美さんもニコッと微笑む。
「はい……着きましたわっ!」
運転席から……清香さんの声がする。
お堀端の道から……建物の敷地の中へ……。
確かに……そこに劇場はあった……。
現在の時間は……午後四時二十二分。
「……開演八分前」
助手席から、綾女さんがそう言う。
「大丈夫よ……定刻より、少し開演が押すと思うから」
愛美さんが、またオレの知らない単語を言った。
オレたちのロールス・ロイスは……劇場の入り口前に着く。
「……皆さんは、このまま中へお入り下さい。私は、駐車場に車を置いてから参ります」
清香さんが、そう言う。
「うん……ありがとうね、清香さん」
ドアをガチャッと開けて……愛美さんが降りる。
……続いてオレも。
……と。
助手席側のドアから……綾女さんが降りてきた。
綾女さんの全身を見るのは、これが初めてだ……。
………って。
……で、でっかい。
……ドが付くほど……でかい!
ついに、オレの前にその全貌を現した綾女さん……。
天覧学院の夏の制服に……ショートカットで、とってもスレンダー。
そして……オレより遥かに背が高い。
これ……百八十を越えてるよな……?!
「……なに?」
二重で切れ長の綺麗な眼で……。
綾女さんが……オレを見下ろす。
正に……『ザ・クール・ビューティ』だ……!!!
「……いや、あの……バスケ部とかですか?」
何か……とてもマヌケなことを聞いてしまった。
『背が高い』=『バスケ部』って……。
オレは、バカか……。
「……違うわ」
綾女さんは、一言で否定した。
「……綾女さんは、『ミュージカル研究会』よっ!」
愛美さんが、教えてくれる……。
……そうだった。
ミュージカルに出たくて、ダンスやってるんだっけ……。
「さあ……みなさん、参りましょう―!」
そう言って……加奈子さんが、愛美さんの手を握る……。
二人は……仲良く手を繋いで、歩いて行く…。
そのすぐ後ろを……綾女さんが、大きな歩幅で追い掛ける。
まるで……愛美さんたちを警護するかのように。
同じ制服を着た三人は……それぞれ違った魅力を持っている。
愛美さんは……あっけらかんとしているけれど、和風の清楚で可憐な女性だ。
加奈子さんは……艶やかで、華やか。西洋風の大人っぽい美人。
綾女さんは……スポーティな体格にクールな性格。ボーイッシュな綺麗な顔立ちをしている。
三人とも……飛び切りの美人だ。
美しい上に……気品がある。
みんな、落ち着いていて……大人っぽくて、キラキラして見える。
オレの公立の中学校では、まず出会えない……ホンモノの『お嬢様たち』だ……。
どうして……オレ。
こんな人たちと一緒に居るんだろう?
こんな場所を歩いているんだろう……?!
オレと彼女たちの間には……見えない壁があるように思う。
こんなに近くにいても……現実には、遥か遠くに離れている。
……だって、オレは。
「……恵ちゃん、こっちよ!」
前を歩く愛美さんが……笑顔でオレに振り向いてくれる……!
「……あ、はい!」
オレは、早足で三人の後を追い掛ける……!
小柄で貧弱な肉体のオレは……この背の高い三人のお姉さんには、相応しくはないと思う……。
「うわっ……並んでいるっ!」
開演直前だというのに……。
劇場の前には、人がいっぱい居た。
……待ち合わせとかしているのかな。
……いや、よく見ると。
劇場の玄関口に『受付』の机が出ていて……そこで、チケットやパンフレットの受け渡しなんかをやっていた……。
……あれ?!
和服を着た綺麗な女性が、正面に立っていて……お客さんに次々と挨拶しているぞ……。
……あの着物の人。
どっかで、見たことがあるような……?!
「……テレビのニュースキャスターをしていらした、高塚瑛子さんよ」
加奈子さんが、そっと教えてくれた。
……ああ、そうだ。
割と人気のあった人だ。
確か……芸能人と結婚して、テレビ局を退社したはずだ……。
「今は……芳沢三十郎さんの奥様だから」
芳沢三十郎って……歌舞伎役者の……。
うん……オレでも、名前くらいは知ってる。
舞台だけでなく、テレビドラマや映画の主役とかもやる人だし……。
確か、何年か前には、ハリウッド映画にも出演したことがあったと思う……。
「歌舞伎の世界ではね……俳優の奥さんやお母さんが、ああやって劇場の玄関に立って、ご贔屓のお客様にご挨拶したり、手配を頼まれたチケットをお渡ししたりするのよ……!」
加奈子さんの説明に、オレは納得する。
……なるほど。
俳優の奥さんは、大変なんだな……。
……あっ!
「あの……ここ入場料って幾らなんですか?どこで買えばいいんです?」
……こういうのって。
……やっぱり、高いんだろうな。
どうしよう……オレ、そんなにお金を持って来てないぞ。
……二千円で足りるだろうか…?
不安そうなオレの顔を見て……加奈子さんが、ククッと笑う……。
「……恵介さん。今日の公演のチケットなんて、もうとっくに全部売り切れているわよ。三十郎さんの出演なさる舞台は、いつもすごい人気なんだから……!」
「……発売初日に完売した」
綾女さんが、補足してくれる……。
「……じゃあ、どうやって劇場の中に入るんです?」
チケットも無いのに……?!!!
「あたしたちの分は、前もってお願いしてあるの……あそこの受付へ行って名前を言えば、チケットを手渡してくれることになっているわ……!」
加奈子さんが、笑ってそう教えてくれた。
「……恵ちゃんの席も、お姉ちゃんがちゃんと頼んでおいたから……何も心配しなくていいのよ……!」
愛美さんも、ニッコリと微笑んでくれる。
「……じゃあ、お金は?」
チケットのお金は……誰に払えばいいんだ?!
「今日は、あたしが無理に誘ったんだから……お姉ちゃんが払うわよ」
愛美さんは、そう言ってくれるけれど……。
「いや……あの、そういうわけには……!」
そうはいかない。
そんなことで愛美さんに甘えたら……後で、バァちゃんに怒られる……!
そう思って……ドキッとする。
……バァちゃん、もういないんだっけ。
「……うーん。大丈夫なんじゃないかな?恵介さんのチケットは、瑛子さんが『招待扱い』にしておいて下さってると思うわ……!」
加奈子さんが、不意にそんなことを言った。
「……『招待扱い』って?」
「だから……無料ってこと。恵介さんがお金を払う必要は無いと思うわ……!」
加奈子さん……?!
何で……高塚瑛子が、オレを招待してくれるんです……?
オレが、そう尋ねる前に……綾女さんが口を開いた。
「…チケットは、わたしがまとめて貰ってくるから……!」
そう言うと……綾女さんは、一人で受付の高塚瑛子のところへつかつかと歩いていく……???!
……あれれ?
高塚瑛子が……綾女さんに、ニコニコと微笑んでいる。
……何か、喋ってる?!
……こっちを見ている。
綾女さんて……高塚瑛子の知り合いなの……?!
「……瑛子さんは、綾女さんのお姉さんなのよ……!」
加奈子さんが……そう言った。
……は?!
そういえば……確か、綾女さんの名字も『高塚』だったような……?!
「……ほんと、こうやって見ると美人姉妹よねっ!」
愛美さんも……綾女さんと高塚瑛子を見て、そう言う。
「え……綾女さんて、確か五歳の弟がいるんじゃ……?」
うん……そう聞いたぞ。
「弟さんもいるけれど、お姉さんもいるのよ。上の瑛子さんと下の弟の健くんは、二十歳くらい離れているんだっけ?」
「綾女さんのお父様が、どうしても男の跡取りが欲しかったそうなの……!」
加奈子さんが、そう付け足してくれた。
はあ……上のお姉さんが、二十歳の時で……。
下の弟さんが、四十歳の時の子と考えたら……。
そんなに、おかしくもないのか……。
で……綾女さんが、お姉さん寄りの姉弟の真ん中……。
なるほど……親しげにチケットの受け渡しをしている二人は、とてもよく似ていた。
長身で、知的な『美人』であるところが特に……。
……しかし。
愛美さんは……内弟子が居るような日本舞踊の大先生の孫娘。
加奈子さんは……映画スターの洞口文弥の愛娘。
そして、綾女さんは……元テレビのキャスターで、今は人気歌舞伎俳優の奥さんの妹……!
……はぁ。
一件ずつなら……「すっげぇ!」と叫び出したくなるような衝撃も。
三つ重なると……溜息しか出ない。
……そうだよなあ。
この人たちはみんな……天覧学院へ通ってるんだもんなあ。
お金持ちと有名人の子供が通う私立の名門校……。
ハイクラスな世界の住人なんだ……。
「……はい、これ」
綾女さんが、お姉さんから全員分のチケットとパンフレットを貰って来てくれた。
「あの……お金は?」
そうだ……それが肝心だ。
「……気にしなくていい」
綾女さんは……そう言う。
「……でも」
よく知らない人に、無料にして貰うのは……。
何か……気持ちが悪い。
いや、こっちは高塚瑛子を知っているけれど……。
あっちは、オレのことなんか知らないはずなんだから……。
「……いいのよ、恵ちゃん。瑛子さんには、後でお姉ちゃんがちゃんとお礼をしておくからっ……!」
愛美さんが、優しくそう言ってくれるけれど……。
いいのか……それで。
「さあさあ、開演時間が近いわよ……急いで、席へ行きましょう……!」
再び加奈子さんが、みんなの先頭に立つ……。
うん……とにかく、今は劇場の中へ入ろう……。
◇ ◇ ◇
オレたちの座席は、観客席一階の……ど真ん中だった。
前から五列め。
そこに四人……綾女さん、加奈子さん、愛美さん、オレの順で座った……。
席に座った瞬間に、ハッと判ったことがある……!
……もしかして、ここ。
……『とても良いお席』なんじゃないだろうか……?!
席に座って正面を見ると……舞台全体が、視界の中にきっちり綺麗に納まってる。
こんな良い席……幾らぐらいするんだろう?
オレは……さっき綾女さんに貰ったパンフレットを開いた……。
……ええっと。
『……特別席 12000円(学生8400円)、1等A 9200円(学生6400円)、1等B 6100円(学生4300円)、2等 2500円(学生1800円)、3等 1500円(学生1100円)』
ここ……特別席だよな……多分。
ここより良い席はないよな。
……ということは。
お一人様……12000円。
学生料金でも……8400円!!!
……マジですかっ?!
オレ……今からでも、帰ってもいいですか?
ここ、オレみたいな人間が座っちゃいけない席なんだと思います……。
……そんなことを考えていると。
愛美さんが……「はい、これ」と、ポケット・ラジオみたいな機械を手渡してくれた。
それは……パステルカラーのプラスチック製の四角い箱。
『消毒済み』と書かれたビニールを被せたイヤホンが付いている……。
「……何です、これ?」
バァちゃんの補聴器によく似ているけれど。
「……イヤホン・ガイド。恵ちゃんは初めてだから、解説の放送があった方がいいと思って、借りてきたのよ」
それは……助かる。
何しろ、オレは歌舞伎を観るのは初めてで……。
……ていうか。
何が歌舞伎なのかも、良く判ってないし。
……でも。
この機械……一つしか無いみたいですけれど?
「……愛美さんたちのイヤホンは?」
と、オレが尋ねると……。
加奈子さんが……笑い出す。
「わたしたちは……解説の音声がある方が、かえって鑑賞の妨げになるのよ……!」
あ……歌舞伎初心者は、本当にオレだけなんですね……。
「……あたしたち三人は、ほとんど毎月、劇場に来ているのよ」
愛美さんも笑ってそう言う……。
―だから『観劇日』か……。
「わたしと綾女さんは月一回だけど……愛美ちゃんは、もっと来ているんでしょ?」
加奈子さんの言葉に、オレは驚く。
「……うん。あたしは、お祖母様とも来るし……毎月、同じ公演を最低三回は観るわ」
「えっ……同じのを三回も観るんですか?」
三回観たって……内容は変わらないんだろ?!
ていうか……学生料金でも8400円✕3回って……。
いや……オレの金じゃないんだから、別にいいんだけれど……。
「……あのね、恵ちゃん……同じ芝居でも、全く同じではないのよ!」
愛美さんは、真面目な顔でオレにそう言う……。
……あの……意味がよく判らないんですけど。
「……あのね……歌舞伎は、基本的に一ヶ月公演なのっ!厳密には二十日から二十五日くらいの期間での上演なんだけどね。それだけの期間、ずっと公演を続けていくとね、やっぱり途中でお芝居が細かく変化していくのよ……!」
……芝居が変化?
「お芝居は生き物だから……お客様の前で演じていくうちに、良くなったり、悪くなったりするのよっ!公演の初日では、まだよく身体に馴染んでいなかったお芝居が、中日の辺りには慣れていって上手くなったり……逆にだれてしまって悪くなったりとかね。役者さんがだれてしまった演技に新鮮さを取り戻すために、細かい演出をガラッと替えることもあるわ。衣装を替えてみたりとかね。……でも、やっぱりみんな一流の役者さんたちだから、最終日の千秋楽には一ヶ月の『集大成』となる演技をみせてくださるのよ!だから、一ヶ月公演の初日と真ん中辺りと千秋楽を観比べて、舞台の変化を楽しむのが、とっても面白いのよ!」
……愛美さんは、楽しそうにそう言った。
はあ……本当のお金持ちの歌舞伎好きは、そういう楽しみ方をするんだ。
でも、そんなの…よっぽど芝居に精通していないと判らないだろうし……。
正直……そこまでして観る理由が、オレには全然理解できない……。
「愛美ちゃんは、同じ演目を最高何回観たことがあるんだっけ―?」
加奈子さんの問いに、愛美さんは……。
「鏡太郎先生の『鷺娘』を……十七回観たわ。でも、あれはお勉強よ。丁度、あたしも発表会で『鷺娘』を踊ることになってたから…」
……一ヶ月に十七回!
チケット代は、全部で幾らになる?
金持ちのやることって……信じられない。
「あれ……そう言えば、清香さんはどうしたんです?」
オレたちのすぐ横の席は……すでに他のお客さんで埋まっている。
清香さんは、どこに座るんだ……?
「清香さんは……二階席よ。撫子先生の教室では、内弟子は2等席以下でしか観劇しちゃいけない決まりになっているから……」
加奈子さんが……そう言う。
「…どうして?」
どうして、オレが『特別席』で……。
加奈子さんは『2等席』なんだ……?!
「……仕方ないわ。ここは色んな方の目があるから。恵介さん……周りのお客さんをよく見てご覧なさい……!」
加奈子さんにそう言われて……あらためて周囲を見てみる……。
……あれっ?!
あそこの席にいるのって……有名な落語家さんだよな……?
こっちは、元プロ野球の有名選手で……。
あっちの人は……ワイドショーとかによく出ている評論家の先生……?
あ……あそこに居るの、映画によく主演している女優さんなんじゃ……?
え……もしかして。
ここら辺の席って……?!
「別に……有名人や芸能人ばかりじゃないけれど……大きな会社の経営者や作家の先生もいらしているわ」
……はぁ。
「……こんな席に清香さんが座ったら、人によっては『撫子先生は、自分の内弟子を甘やかせている』って思われるかもしれないでしょ……だからなのよ……!」
加奈子さんの説明で……よく判った。
確かに……劇場内のこの辺の席のお客さんたちをよく見ると……。
みんな……すごい着飾ってる。
特に女の人は……ブランド物っぽい洋服とか、派手な和服の人もいるし……。
とにかく……見た目からしてお金持ちだって判る……。
……そうだよなあ。
歌舞伎を観る人なんて……基本的にお金と時間が余っている人なんだろうなあ。
っていうか……学校の制服で来ているなんて、オレたちしかいない。
いや、そもそも……学生だけで、こんな席に並んで座っている人なんて他にはいない。
……いいのか、オレたち。
もっとも……愛美さんたちの天覧学院の制服は……。
さすがの風格というか……とっても、お上品な感じで、この空間のゴージャスな客層に何とかマッチしているけれど……。
オレの公立中学の制服は……こりゃ何だ?!
愛美さんが……シャツやベルトだけでも、高級品を持って来てくれた意味がよく判る。
……でも。
シャツとベルトだけじゃあ……全然足りていない。
何より……オレそのものが貧相だ。
一人だけ、この場に相応しくないような気がする。
愛美さんたちの……美しさや上品さに比べて……。
オレには、貧弱さと弱々しさしか無い……。
……ダメだ、オレ。
「―恵ちゃん…そろそろ始まるわよっ!」
と……隣の席の愛美さんが。
オレの腕をトントンと叩く……。
「……始まる?」
舞台袖から……チョンッ!と拍子木の音が鳴る……!
そして……ピョーォォォ!という力強い笛の音……!
劇場内の灯りがスゥーっと暗くなり……するするすると幕が上がる……!
明るい光に満ちた目映い舞台―……
舞台の後ろには……大きな松の絵。
その前に、赤い布を敷いた大きな雛壇があって、黒い和服の男たちがずらりと並んでる。
それぞれ……三味線とか笛とか鼓とか、楽器を持つ人もいて……。
……何が、始まるんだ?
パンフレットによると……最初の芝居の演目は『勧進帳』……。
イヤホンから聞こえてくる解説によると……。
どうやら……『源義経』とか『武蔵坊弁慶』とかが出てくるお芝居らしい……。
……おっ!
何か、顔を真っ白に塗ったくった水色のお侍さんが、家来をたくさん連れて出て来たぞ。
……あっ!
……何か、しゃべり出した…!
……ええっと、あの。
……すみません。
これ……ホントに日本語なんですか?
横を見ると……愛美さんたちは、真剣な顔で舞台を見ている……。
判るんだ……この言葉が。
多分……これって、大昔の日本語なんだと思うけれど……。
オレには、何を言ってるのか……さっぱり判らない。
それから……役者さんが、観客席と舞台の間にある橋みたいなところ……『花道』って言うんですか?
そこに誰かが登場してくる度に、観客席のずっと上の方から……「―マツハシヤッ!!」とか「―フジシマヤッ!!」とか……怒鳴り声で叫ぶのはどういうことなんです……?!
あれ……観客がやっているの?
誰も注意しないの……?
……あああああ。
……歌舞伎って、よく判らない。
一応、イヤホンで……『今の場面では何をやっているのか』とか、『これは、どういう意味なのか』とか……説明してくれるんだけど。
オレには、どうにも興味が持てなくて……。
……そのうち。
笛とか、三味線とか、鼓とか……和服のオジたちの合唱とかを聞いていると……。
オレ……どんどん眠たくなってきて。
そう言えば……今日、五時間目が体育だったんだっけ……。
あ……眠い……。
眠くなって………。
意識が……ブラック・アウトする……。
…………。
…………。
…………。
この作品では……場所は国立劇場ですが、公演のシステムは歌舞伎座の形で進みます。
本当は、歌舞伎座に行きたかったのですが……今、再建中ですし。
新しくなったのを観るまでは、何とも書きようが無いので。
それと……演舞場は、何かあまり好きではないので。
ごめんなさい。
私は、十年くらい前に、夏の繁忙期に三ヶ月間だけ歌舞伎座でアルバイトしていたことがあります。
まあ……三ヶ月くらいじゃ、何も判らないですけれど……。
では……また明日。




