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翌日の日曜日。
華絵は前日も家に帰らず、ホテルに宿泊した。無断外泊の二日目である。さぞかし皆が怒っているに違いない。帰ったらどんな凄い嫌がらせや、酷いお仕置きが待っているか、華絵には想像も出来ないほどだった。しかし、今の彼女の頭の中はピロミクンのことで一杯だった。
その日の夕方、華絵はピロミクンとイタリアレストランの入口にいた。華絵は超高級なレストランでのフルコース料理やマナーなども彼に経験させてあげないと、と思い、敢えて彼に行ってみたい店を選ばせて代金は華絵のカードで支払うつもりだった。
いい雰囲気のお店だと感じて二人で店内に入り、席に着いてメニューを見ると、『一九八』という数字が見えた。
――ひとり一万九千八百円のコースか……。ちょっと高いけど奮発しちゃおうか。
華絵は、彼の選んだ店だ、つべこべ言わずに好きにさせてあげよう、と思った。
ところが、次の瞬間、華絵はメニューの数字に目を丸くした。そこには¥一九八〇 と書いてあった。
――フルコースディナーで二千円? たった? どうなっているの?
今の会社へ就職するまで貧乏の極みだった華絵にとって、二千円は一食の金額として決して安いものではない。当時の自分ならば高すぎて手の届かないところである。
一転、結婚してからは頻繁に高級レストランで外食をとるようになったが、フルコースのディナー料理でたったの二千円などというのは見たことも聞いたこともない。最低でも五千円くらいはかかる。
メニュウは案の定だった。イタリアンのフルコースといいながら、前菜は胡瓜の酢のものにバターピーナッツである。胡瓜とピーナッツでは全然合わないし、だいいち料理の手間はほとんど掛かっていない。メインの肉料理はごく普通の豚肉のしょうが焼きのようである。しかも量だけは妙に気取っていて、一口で食べられるほど少ない。魚料理は、サバの味噌煮そのものだ。しかも煮込み過ぎていてフォークでは崩れてしまって手に負えない代物である。デザートに至ってはジュースを凍らせたようなキャンデーだ。
すっかりしょぼくれてしまった華絵は、ピロミクンの顔を見て思わず反省し自分を恥じることになった。
ピロミクンは至って満足げであった。表情にはほとんど表れていないが、華絵はもはや彼の微妙な胸の内を何となく感じられるようになっていたのである。
――あなたには何もかもが満足に感じられるのね。素直で純朴な人。ごめんなさい、ピロミクン。私が間違っていたわ。
デザートを食べながらピロミクンは珍しく自分から話題を切りだした。
「華絵さん。僕ね。実は映画に出たんだよ。草原の輝きっていう映画。知ってる?」
そういえば、昨年の秋口にプチヒットした邦画として華絵の記憶の片隅に残っている。
「ああ、知ってるわ。見なかったけど、たしか遠距離恋愛の純愛映画って聞いてた。すごいじゃない。どんな役で出演したの?」
「ラストの教会での結婚式に列席してる人」
――そうか。やっぱりね。エキストラね。
華絵はそう確信したが口にはしなかった。その代わり少しの期待を胸に一言だけ確認した。
「列席者って家族か親戚の人の役?」
「ううん。特に決まってない」
――完全なエキストラだ。
「そう。出演料は貰えるんでしょ?」
「うん。二千円もらった」
ピロミクンは嬉しそうである。例によって感情を顔に出さないが、そわそわしている様子が何となくそう感じさせている。華絵は本人が喜んでいるのに自分の方ががっかりしたような顔つきをしてはいけないと思い、精一杯の笑顔をして見せた。それを見たピロミクンは「頑張るぞ!」と言いたげに大きく頷いた。




