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我慢に我慢を重ねてきた華絵の堪忍袋の緒を切ったのは三女の妙子だった。
「ねえ。猫のサバンニャが見えないんだけど、庭へ出て行ったのかしら。あなたたちどこかで姿見かけなかった?」
「ああ、あのボロ猫ね。見たわよ。ていうか、獣医さんに渡しといたわ」と妙子が言う。
「どういう意味? 獣医さんが往診に来ることなんてあるの?」
「あるわよ。マルチーズのマシュマロンの定期健診よ。マシュマロンは西ヨーロッパチャンピオンのエンシャント・シーカー・ダンサーの曾孫よ。お義姉さんに変なもの食べさせられて病気にでもなったら大変だからね」
「ちょっと待って。私がいつドッグフード以外の食べ物与えたってのよ! あのね。そんなことより獣医さんがサバンニャを連れて行くって言ったの?」
「いいえ。ボロ猫のやつ、私の靴におしっこしたから引き取ってもらったのよ」
「引き取ってもらったっていったいどういうことよ!」
「どういうことも、こういうこともないの。持ってってもらったのよ」
「どこの獣医さんよ! 私のサバンニャを取り戻すから!」
「どこだったかなあ。なんせ獣医は三軒かかってるからねえ、ええっとねえ……。忘れた。はは」
華絵は遂に手を出した。妙子の長い髪に掴みかかろうとした。ところが悪いことに三女の妙子は四人の妹の中でずば抜けて体格が良く、高校時代には女子柔道部の主将だったのだ。
華絵は逆に襟首を掴まれて、綺麗に巴投げを決められ、三メートルほど先のフローリングの床に背中から激しく叩きつけられた。受身を知らない華絵は、同時に頭も床に強く打ちつけた。
「痛あ――っ」
華絵は俄かに立ち上がることもできず、戦意を喪失した。脇で見ていた四女の美智子の笑い顔と対照的に彼女は表情を歪めた。
その後、華絵は世田谷区内の動物病院へ片っ端から電話し、サバンニャの所在を確認してみたが、どこの病院も心当たりがない、とのことだった。
――この家の人たちはみんな完全に異常だ。異常なのは私の方じゃない。ゼッタイに。
そう思いつつ、しかし、今の彼女に出来ることは何もなかった。
――例えば満夫と離婚したら自分はどうなるか……。
華絵は今の会社を辞めさせられるに違いないと思った。将来はエリートとして、父、満太郎が経営し専務を務める大企業の役員にまで昇りつめるということがほぼ約束された満夫にとって、別れた妻がその企業のグループ会社で今の自分と同じ会社にいることなどあってはならないことだ。
華絵には何の欲もなかったし、今の会社への未練などもほとんどないが、上場企業の正社員としての職を失うことは、たちまち体の弱い母とともに路頭にさまようことになるような気がしてひたすらそれを懼れた。優秀な弁護士事務所をいくつもかかえる華形家を相手に慰謝料など請求することなど到底出来るはずもないし、会社を辞めさせられた上、逆に家系の名誉のために悪者にされ慰謝料を請求されて、身ぐるみ剥がされてしまうのがオチである。
八方塞がりの状況の中、華絵は感情を失ったロボットのようにマイペースで言葉もなく暮らすようになっていった。姑や四人の妹たちは、何を言っても、何をしても唯々無反応な彼女を次第に相手にしなくなり、父、満太郎との週一回のお相手も無表情にこなして、あたかも平和が訪れたかのようにも見えた。しかし、華絵にはまだ僅かな人の『こころ』が残されていた。
――このままではいけない……。
ある日、華絵は夕食を済ませた後、電車に乗り一人で夜の新宿へと向かっていた。彼女は、完全に人の『こころ』を失う前に、それを取り戻したい一心で彼女なりに必死になっていたのである。




