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華絵はアパートの借間の実家で母とともに永年一緒に暮らしていた愛猫を夫の実家へ連れてきていた。 猫の名前は『サバンニャ』。オス猫である。たてがみのようにも見える首の周りの長めの毛とその色が、サバンナに棲むライオンに似ていることからそう命名された。
サバンニャはまだ目も充分に開かないほどの生まれたばかりの頃、段ボールに入れられアパートの階段に捨てられていたところを華絵に拾われ、以来十年間華絵が大事に育ててきていた。
多くの年老いた家猫が晩年に近くなって患うのは膀胱炎である。サバンニャも多くの猫と同じように半年ほど前から膀胱炎を患っていた。その場合、段々と『おしっこ』が定められた猫砂のトイレでできなくなってきて家のあちらこちらでたれ流し状態になってくる。そんな訳で、体の弱い母に猫の世話と雑巾掛けを任せておくのは大変だろう、と思い、華絵はあえて寂しがる母を背に猫を連れてきた。
このところ、サバンニャのたれ流しはいよいよ本格的になってきて、サバンニャは華絵と一緒に苛められたりお腹を蹴られたりすることが多くなってきた。サバンニャは調子が悪くなると床に伏せたままお尻を上にあげてぶるぶると左右に腰を振る癖がある。華絵はその格好を見ると、可哀そうにと思いつつも可笑しくなって自分自身を笑わせることが出来た。嫁入りしてからほとんど笑顔を忘れてしまった華絵にとって、唯一の笑いが愛猫サバンニャとのひとときだった。
「みゃあ」サバンニャが華絵の目を見て鳴く。
「みゃあ」華絵も真似をして鳴く。
たったそのひとときが華絵の笑顔の間であった。
あるとき華絵はふざけてサバンニャのまねをして床に伏せ腰を左右に振っていると、突然床に激しい音と振動があった。
ばっし――ん!
驚いて華絵が振り向くとそこには満夫の父、満太郎が立っていた。
「誰? ひょっとして、おっ、お義父さま? ええっ? 何ですかその格好は?」
その姿は華絵にとって、いや、普通の人間にとって俄かに現実とは信じがたい格好だった。頭には女性用のカツラを被りその上に兎の耳をつけたバニーガールのような姿。もちろん足は黒の網タイツだ。真っ赤な口紅は唇からはみ出し、その表情は怪しく口角を上げている。手にしているものは玩具のような小さめの鞭のようで、どうやらそれを床に強く打ちつけたようだ。
「あーら。華ちゃん。あんまりお尻振っちゃダメ。華形家のお嫁さんはもっとおしとやかじゃないとね」と満太郎。
――! お義父さんがおねえ系!? まっ、まさか。いったい何がどうなってるの!
「驚いた……。お義父さん。悪ふざけはやめてください。何のおつもりですか?」
「大丈夫よん。今日は優しくしてあげるから。子猫ちゃん」
華絵はぶるっと身震いがした。
――おねえ系のレズビアンなんて聞いたことない……。
満太郎は兎の耳の被りものを華絵に差し出して言った。
「それ被って鳴いてごらんなさい」
華絵は兎の鳴き声とはどんな風だったか考えたが、思い浮かばず目を白黒させた。満太郎は急に激しい男口調でどなった。
「こら! 早く言うことをきいて鳴くんだ! 『みゃあ、みゃあ』って鳴け!」
――ええっ? みゃあ? この耳、猫じゃないしっ!
「みゃあ。みゃあ」
華絵はいわゆる『天然』である。どうしていいかもわからず、とりあえず鳴いた。
「おっ、その顔。その顔がいいわね。蛇に睨まれたカエルのような顔」
華絵はさらに呆気にとられ、目が点になり思考回路を停止した。
――蛇に睨まれたカエルのような顔って。普通のカエルの顔といったいどこが違うって言うのよ。
満太郎は華絵の心の中を見透かしたように、にやにやと気持ちの悪い笑い顔を浮かべながらさらに異常とも思える言葉を口にした。
「私はね。最初はね。追い詰められた恐怖の表情がとっても好きだったのよ。ところが、人間と違って、動物は追い詰められても決して恐怖の表情を見せないのよね。ほら。鹿やシマウマが猛獣に追いかけられて食べられそうになっても表情ひとつ変えないでしょう? でもね。それはそれでまた快感になってきたのよね。ふふふ。あなたは追い詰められてもあんまり恐怖の表情を見せないから好きよ」
「何のことか私にはさっぱりわかりません」
「そう。それじゃあ、教えてあげるわね」
「教えていただかなくて結構です。そんなこと……」華絵は即座に言葉を返した。
満太郎は目を吊り上げた。華絵は、しまった、と思ったが、この状況では開き直るほかはなかった。
「あなたも役員秘書のはしくれなら、経営書の一冊や二冊読んでるでしょう? イノベーションってどういうことか知ってる? イノベーション、すなわち改革とは、新しい満足を生み出すことである。ふふ、わかる? 新しい満足って……」
華絵は役員に回覧される経営関係の雑誌やベストセラー本は大抵無理やり読まされているのでピンときた。
――ピーター・ドラッガーの『マネジメント』に出てくる言葉だ。満足の意味を完全に取り違えてるよ。この人……。
満太郎はさらに続けた。
「正義について熟慮する、その気持ちに表れる人格こそが正義である。それは自らの重荷を意識して生きるということなのだあ」
華絵はまたピンときたが、逆に訳がわからなくなってきた。
――たしか、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の言葉だ。
満太郎はおもむろに大きめなリュックサックを引きずってきた。まるで石でも入っているかのようにかなり重たそうである。
「さあ、新しい満足を教えてあげる。まずは服を全部脱いで、自分をさらけだすのよ! そして……」
「そして?」
満太郎はリュックを指差した。
「この重荷を背負いなさい!」
「ぶうっ!」
――ウチの会社の親会社の専務よ。こんな人に経営任せていて、ホントにウチの会社大丈夫なワケ?




