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メイとエリと

世界初の脳波による会話実験といえば、アレクサンドラとトーマシンによる「メイシー、私の声が聞こえる?」「サンディ、あなたの声を感じているわ」というものが有名である。しかしこれは正確な事実ではない。これはあくまで世界に向けて公開で行われた初めてのデモで、このやり取りも事前に決められたコマーシャルコピーであった。


[[rb:脳波 > EEG]]コミュニケーションの先駆者であったアレクサンドラと、その助手トーマシンが研究室で初めて交わした脳波は、お互いの犬の好みに関するものだったと言われている。もちろん、互いの嗜好を知らなかったのではない。同僚や上司――所長も視察に来たという――が見守る中、思いついたのが他愛もない世間話だった、ということだ。


こうして「声を感じる」という画期的なメディアとして世に出た脳波コミュニケーションだったが、数十年以上にわたって主戦場は研究室の中だけであった。「直接話した方が早い」「電話の方がコストが低い」と実用性が低く見積もられてきた脳波コミュニケーションは、AIによる脳波の選択的増幅手法と歴史的なマッチを果たすまで、既に三度の冬の時代を経ていた。


脳波の選択的増幅に耐えられる人間は限られている。古い事例では、AMラジオの電波塔の下に銀歯のある人が立つと放送が聞こえるという現象がよく知られているが、一方で強い頭痛に見舞われて立っていられない人もいたらしい。特に、先天的な脳波耐性を伸ばすには幼い頃から訓練を積む必要があった。


脳波の強力さは頭の良さであると宣伝され、脳波コミュニケーション業界の最大手「イーコム」が教育分野に進出してからというもの、それらは「脳力」と言い換えられて大金と引き換えに『実験台』の確保が続けられた。


イーコム自身は脳力訓練者を囲い込むための一部全寮制の高校を経営しているが、その候補者自体は教材を通じて入り込んだ無関係な幼稚園や小学校、児童養護施設から吸い上げ続けている。空前のAIバブルが続く中、AIというキーワードだけで発展しているイーコムだったが、実際には複数の教育機関を野放図に経営するほどの資金があるわけではなかった。


「エリ、おかえり」


「ん、ただいま。あ、マシュマロココアじゃん。もうクリスマスだもんね~」


「あのね、エリ。私、宇宙に行くことになっちゃった」


「……ん、宇宙?」


「うん。まぁ、月なんだけどね」


「あぁ、月……いや、遠いよ。宇宙に比べたら近いけどさ」


「そうだよね~。遠いよね……あははっ!」


天井に向かっていやに明るい声でそう笑うのは、そのイーコムの学園に訓練者として通うメイである。十七歳。身長一五六センチ。体重四六キロ。ピンク色の検査着に身を包む白い肌は病弱そうな印象を与えるが、持久走なら昔からエリには負けない。ショートボブに入り込んだ濃い青色のインナーカラーは彼女なりのおしゃれではなく、訓練者に特有の現象である。


脳力開発部の活動中にメイと話しているのは、彼女の幼馴染のエリだ。メイとは対照的なロングヘアで、小さい頃は活発なエリの後ろに必死でついていくタイプだった。いつの間にかエリの背を追い越して、テスト前にサボりがちなメイを捕まえて勉強を教える姿はまるでお姉さんである。


エリは脳波耐性の兆候がなかった非訓練者だが、メイの脳力開発をサポートするのに効率がよいと判断されて一緒に来ることになった。どちらも養護施設の出である。自ら脳力開発を希望して入った他の生徒たちとは違って、彼女たちには安定した生活と比して選択の余地がなかったのだ。


「で、なんで月なの?」


「知らないけど、石井が言ってた。今年はちょうど満月とクリスマスが重なるから、月からイベントやるんだって」


「えっ、クリスマス? もう再来週じゃん」


「そうそう。あいつらって私たちの都合とかマジで何も考えてないもん」


「もー、どうせ自分は仕事だからって巻き込まないでほしいよね。イルミどうしよっか?」


「うーん、今年は我慢かな~……」


脳力開発部は、この学園に訓練者として推薦入学した生徒が入寮と同時に所属する部活である。部活とは言いつつ訓練者に課せられた義務のようなもので、かれらは放課後になると器具を用いた脳波増幅の訓練や検査に回されるのが通常であった。しかし、メイの脳力開発に当てられる時間の六割は、こうしてエリとだらだら過ごす放課後に使われていた。


配属されたばかりの脳力研究者なら、おしゃべりが脳力を高めるなんて不思議なことだ、と言うだろう。しかし、ある程度の経験と知識があれば、これがアレクサンドラとトーマシンのエピソードと同じだと気付くはずだ。


世界初の脳波による会話を成功させたボストンの研究室では、二人と同じように脳波での会話を行おうと同僚たちがヘッドギアを着用しあった。しかし、彼女たちほどの遠距離で会話を行える者たちはいなかった。初めは脳波の男女差に注目して分析が行われたが、大きな有意差は見つからない。


最終的に見つかったのは、日常的に会話――定型的な会議や合理的な議論ではない、ただの他愛ない会話――を交わすペアにおいて、脳波コミュニケーションの成績が高くなる、という仮説だった。アレクサンドラとトーマシンはプライベートでも非常に仲がよかったと言われており、成績のよい研究者たちもその傾向が強かった。ただ、この観点を支持する公的な研究は今までほとんど残っておらず、研究者の間でも経験則に留まっていた。


この仮説が正しいなら、脳波コミュニケーションは結局のところ決まった二人の間での通信に特化していて、不特定多数と電話のように使うには向いていないということになる。実際のところ、AIによる選択的増幅が可能になるまでは、五百メートル程度の通信でさえ莫大な電力と強力な脳波耐性が求められた。


しかし、脳波コミュニケーションが役に立たないという噂が流れてしまってはバブル崩壊の呼び水になりかねない。イーコムが一発逆転の計画として長年進めているこのプロジェクトも、経営を圧迫しつつあった。だからこそ、新たな冬の時代の到来を恐れているイーコムは、月面から脳波コミュニケーションの技術力を全世界に見せつける必要があった。


「そもそも、なんでメイが行かなきゃいけないの? 他にもやる気のある推薦組なんかいっぱいいるじゃん」


「だって、私が一番成績いいんだもん。みんな脳力低いのに親に期待されて来た子ばっかり」


「はぁ、両親に期待されてても成績がそれじゃあね……」


「あははっ、エリひどすぎ。なんか、石井がまた冬の時代がどうこうって言ってたし。今回は絶対成功させたいみたい」


「そんなに成功させたきゃ自分で行けっての」


「言えてる」


脳力開発は現代になっても安全なフレームが判明していない実験的なプロジェクトだ。実験台になった生徒たちをトラブルや苦痛に巻き込みながら少しずつ前に進むしかなかった。イーコムの輝かしい成果発表は、かれらの日々の苦しみを言い換えただけでしかない。


メイが関節の痛みで身体を丸めて寝込んだり、強い頭痛で起き上がれずに嘔吐を繰り返しても耐えられたのは、エリがいてこそだった。エリのことを考えているとき、確かに彼女の脳波は強くなっていた。


「で、どれくらい月にいるの?」


「分かんない。月面基地に超選択的増幅装置を設置して、地上と交信実験をするんだって。しばらくテストさせられるかも」


「え、それ……脳大丈夫かな? 流石に死なない?」


「う~ん……まぁ、ちょっとヤバいかもね。でも、私かぐや姫になれるんだってさ」


「かぐや姫?」


「地上に向かって脳波でスピーチするの。月から世界平和を見てますよ~って」


メイが両手を広げて床を見つめてから、笑顔で手を振ってみせる。


総理大臣でもない、大統領でもない、王様でもないただの女子高生が、一方通行かもしれない旅に出て月からスピーチだなんて。インパクトで投資を集めたいだけのイーコムが考えそうな計画だ。渋谷に大きなドローンディスプレイでも浮かべてスピーチでもするつもりなんだろうか。あるいは、手を振る彼女の姿がそのまま脳内に送り込まれる、ということなのかもしれない。


エリはその光景をしばらく思い浮かべていたが、十二単姿のメイがすまし顔で地球を見下ろす姿がどうにも面白かったようで、くすくすと笑ってみせた。


「ふふっ。竹取物語にそんなシーンないでしょ」


「うん、そう。なんか石井が考えたんだってさ。すごい早口だったし」


「うわぁ、やっぱおっさん先生のセンスだ」


「あははっ、本当にそれ。こういうのカッコいいと思わないか?って真剣に言われて、マジで殴ろうと思ったもん」


脳力研究者と高校教師を兼任する石井は、彼女たちのクラスの担任でもあった。こんな学生を実験台にして喜ぶ壊れた研究者――しかも、彼女たちから見れば冴えない中年教師でしかないのだ――が、ふと少年時代の夢とロマンを思い出して壮大なデモプランを練っているのだとしたら、なんて滑稽なんだろう! 本人から見れば嘲笑としか思えない彼女たちの笑い声は、若々しい感性と共に彼のつまらないレガシーを吹き飛ばしていた。


彼女たちはひとしきり笑いあっていたが、ふとメイがきゅっと口を結んで黙り込む。エリもそれに合わせてじっと彼女の顔を見つめた。それから、先に口を開いたのはメイのほうだ。


「ねぇ、正直どう?」


「どうって、だって月でしょ~……? メイがいなくなるなんてマジで無理。意味分かんない」


「じゃあもしさ、もしもだよ。一緒に来て欲しいって言ったら……どう思う?」


「私も? 月に? えっ、行っていいの?」


「……あ、いや、無理だと思うけど」


「はっ? なんで一瞬期待させた?」


メイは迷っていた。幼い頃からずっと過ごしてきたエリに、ひょっとしたらここで別れを告げなければならないかもしれない。施設で脳波耐性なんてくだらない特徴を見出されて、エリと離れるなら絶対行かないと泣き喚いた日のことを、メイは絶対に忘れられない。あの日も今日みたいに、近所のコンビニに散歩しに行くみたいな顔で、「先生、私もメイと一緒に行きますよ」と答えたのだ。


エリをここに連れてきたのはメイだった。それなのに今度は、メイが先にここを去ろうとしている。私の脳力はなんて勝手なんだろう、とメイは思った。もしも私がいなくなって、エリは私に縛られないで生きていったらそれでいい……なんて心の底から思えたら、きっとメイは宇宙に行くだなんて正直には言い出さなかっただろう。


エリが私の言葉に呆れてこの学園を去れば、私だって彼女を諦められる。しかし、悩むことなく自分も月に行きたいなんて言い出すエリを見て、メイはほんの少しだけ、またあの日と同じように彼女の言葉に縋りたくなっていた。


「じゃあ、これならどう? 私が月に行ってから……ちょっとだけ、協力してほしいんだけど」


メイの声のトーンに合わせて、エリも神妙そうな面持ちのまま、無言で頷いた。よほど真剣な顔をしていたのだと、メイは自分の口を押さえて小さく息をつく。エリは彼女の表情がころころ変わるのが面白くて、声を出さずに少し笑っていた。


「地上から、私と話してほしいんだよね。私のスピーチに応えて、会話してほしいの」


「それだけ? でも私、脳力の素質ないけど」


「エリはずっと私と一緒にいてくれたから。私と繋がるだけなら、なんとかなるよ。私がエリの分のチャネルまで開く、から……」


そう言い終わるより前にメイの声が詰まって途切れてしまう。どうにか涙が溢れないようにぐっと目を見開いて、きゅっと口を結んで息を止めていた。涙を目に溜めたままなら泣いたことにはならない、という小学生時代の二人の取り決めを、メイだけがまだ信じていた。


深刻そうな彼女を面白がっていたエリも、まさかメイが泣き出すとは思わなかったらしく、慌てて立ち上がって肩をさする。


「えっ、何で泣くの⁉ 本当に月で死んじゃうわけ?」


「分かんないよ! 分かんないけど……たぶん死なない! 死ぬから泣いてるんじゃないもん!」


下を向いて叫んだ拍子に涙が零れて、メイは慌てて袖でテーブルを拭った。袖の上にもさらに残った涙が落ちて広がっていく。もう泣いてたっていいや、とそのままエリに向かって手を差し出して、拗ねた声で呟いた。


「手。繋いで」


「もー、メイって泣くとすぐ手繋ぎたがるよね」


「違うって! エリの頭が痛くならなかったら、平気だから……ほら、握って?」


そんなに怒らないでよ、と言ってエリがメイの手を握る。


その瞬間だった――これは、エリの感覚である。メイの手から自分の腕を通って、不思議な色の塊がせり上がってくる気がした。それがメイの不安と悲しみの核であることが、なぜかエリにはもう分かっていた。その小さな塊がぴんと弾ける。脳が揺れる感覚と共に、中から現れたのはぬるくて青い液体だった。制服に染みこんでも濡れた感覚がない。


胸がじんわりと温かくなって、消えていった。彼女にとってはこれが三分間ほどの光景だったが、実際には数秒のできごとである。


メイにしてみれば、いつもよりちょっとだけ手に力を込めただけだ。普段の訓練でヘッドギアを通じて言葉を入力するのと根本的には変わらない。しかし、エリからわずかに逆流する温かさ、光、柔らかい毛布のような感触。脳波の相性がいい二人だけが交わせるひみつの感覚……これがトーマシンの気分だったんだ、とメイは思った。


(私ね、このデモを壊す方法を知ってるの。しかも、今すぐ月から帰れるやつ)


(えなにこれ、すごいね。私の声も聞こえてるの?)


(うん。ちゃんとエリの声を感じてる)


(で、なんだっけ。デモをめちゃくちゃにするの?)


(そう。左手、見てみて)


エリが手を広げる。手の中には黒い、しかしよく見るとわずかに青色とオレンジ色に光っている小石のような物体が握られていた。もちろん、彼女が持ち込んだものではない。じっと見ているうちに、メイがさっき自分の手を通して流し込んできた不安と悲しみの核に思い至った。


でも、あの不思議な色の塊はどんな色だったっけ……灰色かもしれない、銀色だったかも、いや、赤く光っていたような……目が覚めてから夢を掴むような覚束ない感覚のまま、目の前の現実の可能性は黒く重たい小石に沈み込んだ。海辺に転がっているような、ただの冷たい小石。これは、メイが思い浮かべた不安そのものだったのかもしれない。


(増幅AIを触ってるときに偶然見つけたんだ。この力、全部使ってデモをめちゃくちゃにするの。もっと人がいれば、たぶんもっと大きい物質が作れるから)


(へー、すご……脳波で隕石でも降らせる気? そんな壮大な計画に私を巻き込もうっての?)


(そうだよ。私、エリと一緒にいたいから)


(いいじゃん。やろうよ)


つつ、と青い光の筋がエリの手を走る。メイはその光が消えるのを待ってから、小さく息を吸ってまた思考を吐き始めた。


(でも、こんなプロジェクト失敗させたらただじゃすまないよ?)


(そりゃそうでしょ。イーコムなんて倒産確定だもん。いい気味じゃん)


(……エリも私のせいで犯罪者になるんだよ? それでも――)


(はー、うるさ……メイがそうやっていつも遠慮するところ、マジで嫌い!)


(……っ⁉ き、きら……)


(あー、面と向かって口に出せないこと、思ってるだけで言えるの便利だわ。確かに脳波ってすごいかも)


(エ、エリ……? あのね、私……)


(自分だけ脳力開発してるからって、私に迷惑かけてるなんて思い込むの、今すぐやめて。私たちがただの幼馴染なんて思ってるの……メイだけだから)


そう言い捨てて、エリがメイから手を離した。その瞬間、二人の指先から大きな閃光が飛び出して、弧を描いて消えていく。驚いて顔を見合わせた彼女たちは、今度はどちらともなく笑い始めていた。

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