あっちがわの仮面 3.太陽とトカゲ
空の赤みがだんだんと濃くなっていきました。
それにつれて、地上は、すこしずつ、明るさを失っていくようでした。
ほのかに赤い夕景のなかに立つ、エキゾチックな仮面をつけた半裸の男。
真昼の町なかで見かけたら、笑うしかないその姿も、このロケーションだと、一種異様な存在感をかもしだすみたいでした。
存在感。または、威圧感とも、迫力とも、いうべきだったでしょうか。
「真昼のラームダハッラを歩いてわたろうとは命知らずな子どもたちだ。ましてこの日照りのさなかに」
詠唱を終え、天幕をのぞきこんだ男は、健太郎を見おろしながらそういいました。
しずかな口調でしたが、うむをいわせない威厳がありました。
はあ、どうも、と、健太郎はただひょこっと頭をさげることができただけでした。
違和感に気づいたのは、そのあとでした。
「あれ? 日本語?」
秘境物……にしては、あっさり言葉が通じています。夢でも見ているのでしょうか。
仮面の男は、その疑問には答えず、手にした木製のおわんをさしだしました。
「飲んでおけ」
さっき、たき火で煮こんでいたものでしょうか、すこし脂のういた液体が湯気をたてています。
「これは……?」
「叡知の水」
「えいち……?」
ききましたが、答えはありません。
「飲んだらすこし休め。この子より君のほうがダメージが深い」
それだけいうと、男はまた顔をひっこめようとしました。
健太郎はあわてて、呼びとめました。
「いや、休んでる場合じゃないって。人をさがしてるんだ」
すると男は、すこしだけふりかえって、
「あわてなくても、向こうからやってくる。――時守ならばな」
そういうのでした。
しずかですが、やっぱり、うむをいわせない口調でした。
それ以上はなにもいわず、六歳児をつれて出ていきました。
残された健太郎は、わたされたおわんの中身をみつめて……
意を決すると、ずずっ――ひと口、すすりました。
うすい塩味のスープでした。
汗で塩分を失った体に、しみわたりました。
ぱさぱさした白い肉みたいなものや、何か香草のようなものも、すこし、はいっているようでした。
*
そのあと、すこし眠りました。
眠っているあいだに、健太郎は、夢を見ました。
高い山の頂上に、きれいな女の人がすわっていました。
その全身は光り輝き、熱を発しています。そうやって、下界を照らし、温めているのでした。
(太陽の女神だ)
と、健太郎は思いました。
すると、一匹のオオトカゲが、その女の人の足下に這いより、見るまに、するすると、そのからだに巻きついたのでした。
なにしやがる、と、健太郎は思いました。
でも、女の人は、平気でした。
それどころか、トカゲと、女の人は、見つめ合い、口づけなどかわすのでした。
なにしやがる、と、健太郎はべつの意味で思いました。
女の人の声が聞こえました。
『焼け死ぬこともなく、わたしを抱ける、あなたはだあれ?』
『オゥブナーガダーシュ。おれのウロコはかたい。かんたんに焼けたりしない』トカゲが答えました。
そして、いったのです。
『おれの巣穴にきて、おれの子を産んでくれ』
女の人は承知しました。
二人は山をおりていきました。
おりていくにつれて、最初は岩と石しかなかった山肌に、草が生えはじめました。
けれど、その草は、女の人が近づいてくると、茶色く枯れて、カサカサに干からびて、ついには、火をふいて燃えだすのでした。
それでも、二人はなお山をくだっていきました。
草のつぎには、灌木が生えているのが見えてきました。
けれど、その灌木たちも、女の人が近づいてくると、茶色く干からび、火をふいて燃えはじめるのでした。
それでも、二人はなお山をくだっていきました。
やがて、行く手に、林が見えてきました。
けれどその林の木々たちも、女の人がそばまでくると、やっぱり、火をふいて燃えてしまうのでした。
あたりはもう山火事です。
女の人が嘆きました。
『ああ、わたしは、やっぱり、あなたの巣穴に、行けはしない。行けば、すべてを、焼き亡ぼしてしまう』
『かまわない』トカゲはこたえました。『たとえすべてを亡ぼしても、いとしい人、おれはきみをはなしはしない。おれの巣穴にきて、おれの子を産んでくれ』
『いとしい人、あなたの子を産みましょう。でも、それはあなたの巣穴でではない』
女の人は、トカゲをふりすてると、元きたほうへ走っていきました。
高い高い山のいただきに走っていきました。
そのまま、さらにずっと走っていきました。
上へ上へ――
女神は、山より高い空の上まで、かけあがっていくのでした。
トカゲもそのあとを追って、空へ上っていくのでした。
健太郎の頭に、ふっ、と、ことばがうかびました。
『いまでもトカゲは女神を追いかけている。女神はいまも逃げている。太陽が空を走るようになったのは、そういうわけだ』
『ときどき、トカゲが追いつくこともある。日蝕はそうして起こる。そして子どもが生まれる。子どもたちは地上に落ちて、アオジタトカゲの一族になった。かれらがいつも陽をあびて、空を見あげているのは、母を恋しがっているからだ』
これは神話だ――
健太郎は気づきました。
この世界に生きる人たちが語り伝えてきた神話。
あるいは伝説。
そのイメージ、そのことば、その情報が、頭のなかに流れこんでくるのだ、と……なぜか、理屈ではなく、感覚で、そう理解することができるのでした。
(なんで? どうなってる?)
神話のイメージは、なおも、まだ、あとからあとから、流れこんできました。
トカゲや太陽だけではありません。空を飛ぶ鳥の神話。地をかける獣の神話。星の、山の、海の、川の、大地の神話。五本指の人間の誕生。狩りの神話。穀物の発見。魔物の神話。英雄の神話。
さまざまな神話のイメージが、次から次へ、健太郎のなかに流れこみ、語りかけ、そして通りすぎていくのでした。
*
目がさめると、あたりはもうだいぶ暗くなっていました。
でも、空にはまだ焼けこげのような赤い色が残っています。
たき火もまだ燃えています。
それらの明かりで、あたりの様子は、それなりに見てとることができました。
健太郎のとなりには、六歳の健太郎が、大の字になって、すやすやと眠っています。
仮面の男は、さっきと同じように、たき火のそばにすわっています。でも、もう、詠唱はしていないようでした。
(叡知の水はできあがったからな)
さっきの詠唱は、叡知の水に呪力をこめるためのものだった――健太郎は、ごく自然に、そう理解しました。できてしまいました。
なぜ理解できるのか、それも、わかる気がしました。
(なんてこったい)
かるくため息をついて、起きあがりました。
ぶるっと、からだにふるえが走りました。
昼間の暑さがうそのように、気温は急激にさがりはじめているようでした。
健太郎はダウンジャケットを六歳児の上にかけてやると、自分は肩をさすりながら、たき火に歩みよりました。
火のそばにすわり、からだをあたためながら、仮面の男を見つめました。
仮面の人は、うつむいて、小さな刃物で、コリコリ、コツコツ、何か木を削るような作業をしています。
ずっと、無言でした。
仮面のせいで、表情もわかりません。
ただ、わかることもありました。
仮面に彫られた、白と黒のひし形模様は、ウロコの図案。キバのある口からのぞく青い二股の舌は、ある種の生物の特徴をあらわしているのだ、と……今でははっきり理解できるのでした。
(舌の青い四つ足のヘビ……オゥブナーガダーシュだ)
仮面の人が、すこし顔をあげました。
仮面の下の見えないはずの顔が、なぜか、ふっと笑ったように感じられました。
でも、それだけでした。
仮面の人はなにもいわず、またすぐに下を向きました。
コリコリ。コツコツ。たき火のあかりで、作業をつづけています。
さきに沈黙にたえきれなくなったのは、健太郎のほうでした。
「なあ」と、健太郎は、いいました。
「たすけてもらったことには、礼をいうよ。でも、よかったのかい? 叡知の水って、あれ、トカゲのスープだろう。あんたたちの部族にとっては神聖な生き物じゃないのか、特別な儀式のときにしか食わない……。それを、おれみたいな、部外者に飲ませて――」
おかげでいろいろわかるようになったけどさ――そう言いかけて、健太郎は口をつぐみました。
たしかに、さっきからの健太郎は、ほんらい知っているはずのない、この世界についての知識、常識みたいなものが、わかるようになっていました。
それが、仮面の人に飲まされた「叡知の水」のおかげだということも、知識はもちろん、感覚としても、理解することができました。
部族の祖先としての特別な生物。その肉を食べることで、霊的に一体化し、その能力を身につけることができる。トカゲのシンボルは「智恵」と「生命」。だから「叡知の水」。それを作ることのできる仮面の男は、部族の呪術師――ムンドゥ=ラングァ――なのだ、と……。
でも、本来の健太郎の常識が、それを口にだして、はっきりと認めてしまうことを、ためらわせていました。
それに、叡知の水を飲む前から、言葉が通じていたことも、わすれたわけではありません。
たすけてもらったからといって、かんたんに信用するわけにはいかない――健太郎はこころのなかでそう身がまえているのでした。
仮面の呪術師は、見すかしたように、また笑いました(健太郎には、たしかに笑ったと思えました)。
「部外者なら、掟にしばられることもあるまい」
「いや、そうかもしれないけど! ……ただ食っただけじゃない。叡知の水だぞ? ムンドゥ=ラングァだけの秘儀だろう。おれを呪い師にでもするつもりか」
「ムンドゥ=ラングァが決めたことだ。だれも文句はつけぬ」
「だから、なんでだよ……!?」
「必要だろう、これからの君に」
「おれに? なんで?」
健太郎は目をパチクリさせました。
呪術師は、喉の奥でわらいました。
「きみの太陽は、まったく、トカゲづかいが、荒いからな」
「おれの……太陽?」
「おでましだ」
トカゲ仮面が顎をしゃくりました。うしろを見ろ、と、いうことのようです。
健太郎はふりかえりました。
いつのまにか日はもうあらかた沈んで、あたりはすっかり暗くなっています。さっきからずっとたき火の明かりに照らされていた目には、ほとんどまっくら闇に見えました。
でも、逆に、向こうからは、丸見えだったのでしょう。
「ちょっと、アンタ! こんなとこでなにやってんのよ!」
暗やみのなかから姿をあらわしながら、みち子が、そういって、どなりました。




