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あっちがわシリーズ(仮)  作者: 七瀬みる


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2/3

あっちがわの水

 前にもおはなししましたね。

 その町には、ときどき、あるはずのない道があらわれます。

 みっちゃんはその道をみつける名人です。

 いいえ、ほんとうは、道のほうがみっちゃんをみつけるのかもしれません。


 まえぶれなんかありません。

 いつだってだしぬけです。

 ママとお買い物にいったスーパーの駐輪場のすぐとなりに――

 いつもはピッタリくっついて、すきまなんかなかったはずの、ご近所さんどうしの塀のあいだに――

 いつもは立ち入り禁止のかんばんと、トゲトゲのはりがねで、とおせんぼしてある、工事現場のすみの草むらに――

「まえからずっとここにありましたけど、なにか?」

 みたいな、すました顔をして、あるはずのない道が、ぽっかり、口をあけているのです。

 そうして、そのむこうから、だれかが、みっちゃんを、呼んでいるのです。

 その声がきこえると、みっちゃんは、ついつい、そっちに行ってみたくなるのです。


 それは、《あっち》の世界につながる道。

《あっち》の世界の入口です。

 知っているのは、みっちゃんと、おばあちゃんだけ。

 それでも、たしかに、それは、あるのです。


 その日も、そうでした。


 夏がおわりに近づいて、河川敷の草むらに赤いトンボが飛ぶようになったころでした。

 夜にはエアコンがいらなくなって、リーンリーンとすずしい虫の声がきこえたりするけれど、昼間はまだまだ暑くって、冷たいジュースなんかおねだりしたくなるころでした。

 みっちゃんが、リビングでおひるねをしていると、ふと、だれかに呼ばれた気がして、目をさましたのです。

 だれの声だか、わかりません。

 なのに、なんだか、なつかしい気がするのでした。

 もういちど聞きたい、もういちど会いたい、そんな気がするのでした。

 でも、リビングにはみっちゃんのほかにだれもいません。ママも二階にいるみたい。かすかに掃除機の音が聞こえてきます。

 気のせいだったのでしょうか?

 夢だったのでしょうか?

 けれど……

 掃除機のほかに、もうひとつ、別の音が聞こえていました。

 チッチッチッチッ

 みっちゃんは、いつも肌身はなさずもっている、かいちゅう時計を取り出しました。

 音が大きくなりました。

 チッチッチッチッ

 いつもは、とまったまま、ピクリともうごかない針が、いまは、あたりまえのように、うごいています。

 それは、おばあちゃんにもらった、かいちゅう時計。

 いつもはちっとも動かない、こわれているみたいにみえる、かいちゅう時計。

 でも、近くに《あっち》の道があらわれると……そのときだけ、その時計は、きゅうに、うごきだすのです。

 そして、どうやってか、わからないけれど、きっと、みっちゃんを、たすけてくれるのです。

 みっちゃんが、あんまり《あっち》の道に迷い込むので――そのたびにママをあんまり心配させるので――用心のために、おばあちゃんがくれた、おまもりみたいな時計です。

 それが、いま、こうしてうごいているということは、どこかにまたあの道がひらいているにちがいありません。

 だったら、さっきの声も、ただの夢なんかではなくって、ほんとうに、道のむこうで、だれかがみっちゃんを、呼んだのかもしれないのです。

 みっちゃんは、とびおきました。

 カラカラとリビングのガラス戸をあけて、お庭にでました。

 つっかけをはいて、物干しざおのむこうの、アルミ扉のお勝手口にむかいます。

 そこをあけると……

 そこはもう、いつものご町内ではなくて、みしらぬ森の雪景色なのでした。

 雪かきをした小道が、足下から、ずっとむこうまでつづいています。

 みっちゃんは、目をぱちくりさせました。

 あっちがわの道が、お家のこんな近くにあらわれるのは、はじめてのことでした。

 近いどころか、直通です。

 いつもは、もうすこし、ひかえめに、町のあっちやこっちで、「いえいえ、ふつうの道ですよ?」みたいな顔をして、みっちゃんがみつけてくれるのを、待っているのですが……

「……道もあつかましくなってきたのかしら?」

 思わず、そうつぶやきました。

 それから、ぶるっと、からだをふるわせました。

 さいしょのビックリがおさまると、とたんに、あたりの寒さに気づいたのです。

 みっちゃんは、じぶんでじぶんの肩をだいて、その場で足ぶみをしました。

 歯がガチガチとなりました。

「さむいさむいさむいーっ」

 そういった息がまっしろです。

 それは、真冬の寒さでした。

 あたりには、葉っぱの細い、幹がまっすぐな木が、立ち並んでいます。

 葉っぱのうえにも、地面にも、ぶあつい雪がふりつもっています。

 その雪を左右にかきわけて、ほそいひと筋道が、つくってあります。

 でも、その道だって、あらためて、深い雪におおわれているのです。

 まだだれもふんでいない雪が、こもれびをあびて、きらきら、ひかっています。

 とっても、きれいです。

 でも、夏用の半そで一枚で、くるような場所では、ありません。

「帰る」

 みっちゃんは回れ右をしました。

 あんまりさむすぎて、いつもみたいにたんけんするどころの話ではありません。

 さっきまでのあたたかい場所に帰りたい。その一心でした。

 でも、回れ右をしても……

 そこには、もう、もとのお庭なんて見あたりません。

 さっきひらいたばかりのアルミの門扉だって、いつのまにか、しれっと、消えています。

 みっちゃんのおうちなんて影も形もなくて、前にも後ろにも、雪景色の森が、どこまでもつづいているだけなのでした。

「……そうよね、あっちがわって、そういうところよね」

 みっちゃんは、がっくり、肩をおとしました。

 つっかけをはいただけの足は、いつのまにか、ふくらはぎまで、ふかい雪にうもれています。

 これでは、もう、さっきみたいに足ぶみもできません。

 見た目はふわふわした雪も、あつまると、すごく重たいのです。そうしてとてもつめたいのです。

 そのうちには、手も足も、つめたいをとおりこして、じんじん、痛くなってきました。

「ママぁ……」

 みっちゃんはべそをかきました。

 このまましんじゃうのかしら。

 本気で心配しました。

 その人がきてくれたのは、そのときでした。

 足音はきこえませんでした。

 足跡だって、みあたりませんでした。

 そのひとは、深い雪の上に、沈みもしないで、かろやかに、浮かぶみたいに、立っているのでした。

 いつのまに、どこから、やってきたのでしょう?

 気がつけばその人はそこにいて、そうして、みっちゃんを、そっと、抱きしめてくれるのでした。

 その人にだっこされると、胸の奥からほわーっとあたたかいものがひろがって、かじかんでいた手も足も、やっとまた血がかようようになって……なんだかとっても安心して、あたたかくて、いい匂いがして、そのまま、眠たくなっていくのでした。

「ママ……?」

 そのあたたかくていい匂いがして安心する感じに、もしも名前があるとしたら、きっと、そういう名前だったにちがいありません。

 みっちゃんのまぶたが重くなっていきました。

 そして夢をみたのです。


 みじかい夢でした。

 でも、いい夢でした。

 とってもしあわせで、なつかしい夢でした。

 オルゴールの音がしました。

 小さなお星さまやお月さまが、音楽に合わせて、ゆっくりと回っています。

 みっちゃんは、ちいさな、赤ちゃんになって、天井にぶらさがったそのお星さまやお月さまを、みあげているのでした。

 あたたかい腕がみっちゃんをだっこしています。

 そうして、みっちゃんのお口に、やわらかいぷにぷにしたおっぱいを含ませてくれているのでした。

 ちゅうちゅうすると、あまい、あたたかいミルクが流れこんできます。

「わらってるよ」と、男の人がいいました。

「いい子、いい子」と、女の人が歌うようにいいながら、ゆっくりとみっちゃんのからだをゆらしました。

 みっちゃんは、なにもかも、ぜんぶ、その人たちにまかせきって、安心していればいいのでした。なにも考えず、なにもしないで、ただ、あまえていればいいのでした。

 もうずっとそうしていたい、どこへもいきたくない、そんな気がするのでした。

 夢はそこでおわりました。


 目がさめると、さっきとおなじ雪の森でした。

 でも、もう寒くありません。

 むしろ、胸の奥がじわーっとあたたかくて、からだ全体がぽかぽかしているのです。

 手も足もあたたかくて、なんだかムズムズするくらい。

 じっとしていられなくて、あたりをむやみにかけまわりたいくらいでした。

 でも、

「もうすこし、飲んでおきなさい」

 女の人はみっちゃんをだっこしたまま、まだ、はなしてくれません。

 口におしつけてくるのは、夢のなかみたいなおっぱいではなくて、冷たい透明なコップでした。

 ああ、そうか――みっちゃんは思い出しました。雪のなかで動けなくなったみっちゃんに、どこからともなくあらわれたその女の人が、その氷みたいにつめたいコップから、なにか飲み物を飲ませてくれたのでした。

 冷たい、透明な、味のない飲み物でした。

 なのに、飲んだとたん、からだがあたたかく、軽くなって、そうして、なつかしい夢を見たのでした。

(このあいだのおじいちゃんもジュースを飲ませてくれたっけ。あっちでは、あたしに何か飲ませるのがはやってるのかしら?)

 とにかく、そのおかげで助かったのは、まちがいありません。

 みっちゃんは、すなおに口をつけて、こくこくと、もう何口か飲みました。

 ふしぎな飲み物でした。

 味がないのに、おいしいのです。

 冷たいのに、ぽかぽかするのです。

「これ、なあに?」

 みっちゃんはききました。

「時の泉の水」

 女の人はいいました。

「ここは記憶の森。思い出が雪になってふりつもるの。つもって、つみかさなって、春になると、それがとける。とけて、流れて、しみこんで――地面の下でゆっくりと浄化されて、やがて清水になってわきだすの。うれしい思い出も、悲しい思い出も、つらい思い出も、恐ろしい思い出も、何年、何十年かかるかわからないけれど、いつかはきれいになって、こころをうるおす水になるの。こころをあたためる水になるの」

「?」

 なんだかむずかしいお話でした。

 みっちゃんにはよくわかりません。

 でも、女の人が、なんだかとてもかなしそうな様子なのはわかりました。

 あらためてみてみれば、ママとはぜんぜんちがう人でした。

 でも、どこか、なぜか、ママみたいな感じもする人でした。

 だから、その人がかなしそうなかおをしていると、みっちゃんまで、かなしくなってくるのでした。

「なかないで」

 みっちゃんは、女の人のほっぺにさわって、いいました。

 女の人は、みっちゃんの手に、ほっぺをすりすりしました。

 そうして、みっちゃんの頭をなでなでして、

「いい子ね。やさしい子」

 と、ほめてくれたのです。

 そうしていると、ほんとうに、ママみたいでした。

 だから、その女の人に、

「すこしだけ、お手伝いしてくれる?」

 と、いわれたとき、みっちゃんは、こくん、と、すなおにうなずいたのかもしれません。

 ママじゃないけどママみたいなその人の、役に立ってあげたいと、思ったのかもしれません。

「いらっしゃい」

 女の人は、みっちゃんの手をひきました。

 みっちゃんは、ぶあつい雪の上に、ふんわりと立ちました。

 さっきみたいに、足がうまったりはしませんでした。

 かじかんだりも、しませんでした。

 雪はふわふわの雲みたい。それか綿菓子みたいで、冷たいどころか、なんだか、あたたかそうにさえ感じるのでした。

「それは、泉の水を飲んだから。こころがあたたまったから」

「? そうなの?」

「夢を見たでしょう。あたたかい夢を」

 さっきの赤ちゃん部屋の夢でしょうか?

 あの夢とさっきの水と、何かかんけいがあるのでしょうか?

「あたたかい思い出を抱きしめていれば、他人の記憶に凍らされずにすむ――ここはそういう場所」

「ふーん?」

 やっぱり、よくわかりません。

 でも、まあ、おとなって、そういうものでしょうか。

 ママだって、おばあちゃんだって、なにいってんだかわかんないことは、よくあります。

 あんまり気にしないことにしました。

(おとなって、しょうがないわねぇ)

 こころのなかでつぶやいて、あとは女の人に手を引かれるまま、だまって、歩きました。


 たどりついたのは、森の奥のちいさな泉でした。

 でも、水はぴくとも動きません。

 表面にはぶあつい氷がはって、まあるい波紋のかたちのまま、かたまっているのです。

 もしかしたら、底まで凍りついているのかもしれません。

 空気だって凍っているみたいでした。

 それまでだってしずかでしたが、泉のまわりは、それにわをかけて、なん倍もしずか。

 あんまりしずかすぎて、耳の奥がキーンとなっているのが、かえって、うるさいような気がします。

 みっちゃんも、つい、ひそひそ声になってしまいました。

「凍ってるわ」

「そう。もうずっと凍ったまま。春がこなくなったから」

「春? こないの? なんで?」

「だれかが、そう望んだのよ。――ここでは思い出が雪になってふりつもる。春になればそれがとける。とけて、きえる。なら、春なんかこなければいい。だいじな思い出が、きえてなくならないように」

「だれかって、だあれ?」

「だれかしらね。きっと、時間がその人のいうことをきいてあげたくなるくらい、特別な人だったのかもしれないわね」

 女の人はわらったみたいでした。

 鼻だけふっと息がとおるような、ふしぎなわらい方でした。

「?」

 みっちゃんは首をかしげました。

 女の人は、かまわず、はなしつづけました。

 みっちゃんにおはなししているというより、はんぶん、ひとりごとみたいでした。

「でも、それは過去にとらわれるということ。未来に背を向けるということ。その人だって、ほんとうは、わかっていたのよ」

 たのしい思い出も、かなしい思い出も、つらい思い出も、ふって、つもって、とけて、ながれて、しみて、濾されて、きれいに、とうめいに、ならなければならない――そう、女の人はいうのでした。

「だから、ゼンマイを、まきなさい」

 女の人は、カギをとりだして、みっちゃんに、わたしました。

 ちいさな、透明な、カギでした。

 手でふれると、冷たい、まるで、氷でできているみたいな、カギでした。

 みっちゃんは、かいちゅう時計を、とりだしました。


 時計のうらには、あながふたつあいています。

 まんなかがじこく合わせ。

 もういっこがゼンマイです。

 氷のカギは、ゼンマイあなに、ぴったり、はまりました。

 みっちゃんは、まきました。

 カチカチ

 カチカチ

 さいしょは、じゅんちょうでした。

 ゼンマイは軽快な音をたてました。

 カチカチ

 カチカチ

 でも、そのうちに、だんだん重くなって、それ以上、どうしたって、まわらなくなりました。

「いっぱいだわ」

「なら、もう、いいでしょう」

 女の人がいいました。

 みっちゃんは、うなずいて、カギをぬきました。

 時計をひっくりかえして、ふたをあけます。

 すると……

 チッチッチッチッ

 チチチチチチチチ

 チーーーーーッ!

 時計が、ふるえはじめました。

 秒針が、すごいいきおいで、クルクル、まわっています。

 それにつれて、いつもは見えないくらいノロノロとしか動かない、ほかの二本の針も、すうーっと、目にみえるはやさで、まわりだすのでした。

「はじまったわ」

 女の人がいいました。

 さいしょは何がおきているのか、ほとんどわからないくらいでした。

 けれど、すぐに――

 ぷるぷる

 ぷるぷる

 泉の表面がふるえはじめました。

 そのふるえが、森ぜんたいに――木に、雪に、空に――ひろがっていくみたいでした。

 見れば、さっきまでかたく凍りついて、ピクッとも動きそうになかった泉の氷が、いつのまにか、あちこちで、とけて、ひびわれて――そのすきまから、こぽこぽ、こぽこぽ、水がわきだしています。

 わいて、あふれて、ながれて、ひろがって……まわりの雪を、つぎつぎ、とかしていっています。

 足下の雪はもうかなりとけて、ぶあつい氷のうえに、浅い水の層ができています。

 その水のおもてに、泉からの、まあるい波紋が、ふわー、ふわー、と、くりかえしひろがっていくのでした。

 風が吹いていました。

 木々がざわざわと音をたてました。

 とけた雪のしずくが、葉ずえから、雨だれみたいに、ふりそそぎました。

 ポチャン!

 足元で、魚がはねました。

 バサバサバサッ!

 木々のこずえから鳥の群れが飛び立ちました。

 泉がバクハツしたのは、その、つぎの瞬間でした。

 ドドーッ!

 氷がもりあがって、われて、くだけて――いっぱいの水が、水けむりをあげて、一気に噴きだしました。

 まいあがった水滴がおひさまをキラキラさせて、お空におおきな虹がかかりました。

 でも、ゆっくりながめている場合ではありません。

 気がつけば、みっちゃんの足下だって、われて、くだけて、くずれているのです。

「あら? あらあら?」

 足下には、もう、地面も、何もなくなって……

 ドボォーン!

 深い水のなかにおっこちてしまいました。


 水の中には、何十メートルもありそうな、じょうしきはずれの大木が、にょきにょき、何本もそびえていました。幹のまわりには葉っぱがぜんぜんなくて、枯れた枝はなんだかガイコツみたい。葉っぱがあるのは、ほんのてっぺんだけみたいでした。

(あ、そっか。下は、ぜんぶ、雪に、埋まってたんだ)

 みっちゃんは気づきました。

 何年も何十年も、もしかしたら何百年もふりつもって、ぎゅっと押しつぶされた雪が、ぶあつい氷になりながら、上へ上へとつみかさなって、だんだん、森をうめていったのでしょう。

 さっきまで地面みたいにみえていたのは、そうしてできあがった、ぶあつい氷の表面で、ほんものの地面は、もっとずっと下のほうにあったのでしょう。

 いま、その氷が一気にとけて、森いっぱいの水にかわって……

 みっちゃんは、その水びたしの森の底へ、深く、深く、しずんでいくのでした。

 ゴボゴボと、泡がものすごい音をたててのぼっていきました。

 口からも鼻からも水が入り込んできます。

 でも、ふしぎと、苦しくはないのでした。

 みあげると、しばらくは、おひさまが、水面に、キラキラしていました。

 けれど、それも、だんだん、遠く、暗くなっていきました。

 みっちゃんは、深く、しずかに、しずんでいきました。


 どこまで、しずんだでしょう。

 森の巨木も、もうみえません。

 底なしの暗やみでした。

 底なしのしずけさでした。

 なのに、ふと、声がきこえました。

 いいえ、気づかなかっただけで、それまでも、ずっと、きこえていたのかもしれません。

 たぶん、それは、耳にきこえる音ではなくて、脳に、こころに、ちょくせつひびいてくる声だったのでしょう。

 まわりはあいかわらずしずかなのです。でも、同時に、数えきれないたくさんの声が、暗やみのなかに、じゅうまんしているのでした。

 男の人の声もありました。

 女の人の声もありました。

 数えきれないたくさんの声が、泣いていました。うめいていました。叫んでいました。怒鳴っていました。

「くそっくそっくそっくそっ!」

「ふざけるなふざけるなふざけるな!」

「どうしておまえばっかり!」

「どうしてわたしばっかり!」

「ウソツキ!」

「裏切り者!」

「いかないで!」

「消えちまえ!」

 それは雪になってふりつもった思い出たちの声でした。

 つもりつもって、とけて、あふれて、けれど、まだ地面にしみて濾過されていない――きれいに、とうめいに、なっていない――どろどろした、きたない、どす黒い思い出たちの声でした。

 そのつらい、かなしい、苦しい、きたない思い出たちが、口からも鼻からも入りこんできて、みっちゃんのからだもこころも、内がわから、どす黒くそめていくのでした。

(あ、これ、だめかも……)

 怒ったり怒られたり、傷つけたり傷つけられたり、捨てたり捨てられたり、踏みつけたり踏みつけられたり、奪ったり奪われたり――いくつものだんぺんてきな光景がみえました。

 そうして、そのときの、それぞれのきもちが、ぜんぶ、みっちゃん自身のきもちみたいに、なまなましく感じられるのでした。

 キライなきもちも、憎いきもちも、ゆるせないきもちも、ねたましいきもちも、みじめなきもちも、うらめしいきもちも――ぜんぶ、じぶんのなかからわいてくるみたいに、感じるのでした。

(キライキライキライ!)

(みんな大っ嫌い!)

(***なんかしんじゃえっ!)

 胸が冷たくて、苦しくて、お腹のそこから、憎しみがわいてきて、こわくて、かなしくて、だれもかれもをめちゃくちゃに刺し殺してあげたいような気がするのでした。

 でも、そのときでした。

 ボーン

 ボーン

 絵本やお歌にでてくる、むかしの大時計みたいな音が、聞こえました。

 みっちゃんは、はっと、意識をとりもどしました。

 思い出たちの声が、うそみたいに遠のいていきました。

 どこからか、さっきまでいっしょにいた女の人の声が――思い出たちとはちがう声が――聞こえてきました。

「時計を、しっかり、にぎっておきなさい。もとの時間を、見失わないように」

 いわれてみれば、意識がとけてしまいそうな、まっくらやみのなかで、手にした時計の感触だけが、やけにクッキリ、ハッキリしているのでした。

 みっちゃんは、ぎゅっと、その感触を、にぎりしめました。

 すると、チーッと、すごいはやさだった時計の音が、だんだん、ゆっくりになって、やがて、チッチッチッチ、と、ふつうのはやさに、もどっていったのです。

 それでいい、と、女の人がいいました。

「さあ、おかえりなさい。あなたには、まだ、もうすこし、時間がある。その時間を、たいせつになさい。でも、わすれないで。いずれ時はくる。避けられはしない。……あの子にもそう伝えておいて」

 なんのこと?

 あの子って、だれ?

 みっちゃんはふしぎに思いました。

 でも、もう、おはなしする時間は、ありませんでした。

 あたりの水が、きゅうに、はげしく、つよく動きだして……みっちゃんのからだを、一気に押し流していきました。

 行く手に見えるのは、あれは、さっき見えていた、おひさまの光でしょうか? それとも別のなにかでしょうか?

 みっちゃんは、暗いトンネルのなかをつっぱしる電車みたいに、その光にむかって、一直線に、はこばれていくのでした。

 光は、どんどん、おおきく、強くなっていきました。

 まぶしくて、目をあけていられなくなりました。

 ふと、オルゴールの音がきこえた気がしました。

「わらってるよ」と、男の人がいいました。

「いい子、いい子」と、女の人がいいました。

 光がさく裂しました。

 つぎの瞬間、みっちゃんは、その光のむこう側に、一気に、押し出されていました。

 そこには、もう、水がありませんでした。

 きゅうに肺の中がからっぽになって、呼吸ができなくなりました。

 苦しくて、のどをかきむしりたいくらい苦しくって――でも、からだがおもたくて、身もだえることもできません。

 みっちゃんは、苦しまぎれに、叫びました。


「オギャア!」


 ……気がつくと、そこは、もとどおり、お庭のすみの勝手口のアルミ扉の前でした。

 扉はしまっています。

 夏のおわりのおひさまが、強烈に照りつけています。

 リビングのガラス戸は、さっき、みっちゃんが出てきたときのまま、あけっぱなしです。

 時間は、ほとんどたっていないみたいでした。

 手のなかのかいちゅう時計は、いつもどおり止まって、ぴくりとも動きません。

「まあ、何してるの、そんなところで」

 掃除機を持ったママがガラス戸から顔をのぞかせました。

 みっちゃんは、ものもいわず、ママに走り寄りました。

 ぎゅっと、しがみつきます。

「なあに、どうしたの?」

 ママはちょっとびっくりしたような顔で、掃除機をおいて、床に膝をつきました。

 みっちゃんは、そのママのお腹のあたりに、だまって、ただ、ぐりぐりと、顔を押しつけるのでした。

「どうしたのよ、おかしな子ね」

 ママがわらっていました。

 お星さまやお月さまがまわっていた、さいしょの夢の女の人みたいに、やさしい笑い方でした。

 その声をきいていると、みっちゃんの目には、わけもなく、あつい涙がこみあげてくるのでした。

 ママの手が、そっとみっちゃんの背中にまわって、よしよし、ぎゅって、してくれました。


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