キャメロン家の男装姫
クロエ・キャメロンは侯爵家の末っ子で、四人の兄を持つ。
男ばかりが続いた中に生まれた紅一点ということで、幼い頃は、それはもう手放しで可愛がられた。
氷属性系の美形すぎる父と、身内贔屓で見れば「愛嬌があるよね」な母を持つきょうだいたちは、揃いも揃って父の顔立ちを受け継いでいた。
これを母は、ちょっと、いや、かなり問題視した。
詳しいことは分からないが、若き日の両親にはなんやかんやあったらしい。古参の使用人がそんなふうに漏らしていた。
そして、「美形だからといって調子に乗っちゃあいけないよ(超意訳)」な家訓が生まれた。
領地は広く、気候は穏やかで、治安は拍子抜けするほど良かった。
そんな環境で育ったクロエは、兄たちのあとを追って野山を駆け、森に突っ込み、川に落ちた。
もはや『わんぱく』の域を越えたが、母が家族会議で「対外的には『お転婆』ということにしましょう」と提案し、満場一致で可決された。
クロエは、よく笑い、よく走り、よく食べ、わんぱく──もといお転婆な少女に成長した。
そういった経緯から、クロエは幼い頃から男装だった。
ドレスもワンピースも一日でダメにするので、母は「あらあら、困ったわねえ」と言いながら、息子たちの服を着せた。たぶん困ってなどいなかった。
これが男装の始まりである。母に言い逃れの余地はない。
だが、父も娘の男装を許していた。
「お前の好きなようにしなさい」
物心が付く頃から、この父は筋金入りの愛情表現家であった。
◇
幼い頃から第一近衛隊の父に憧れ、剣一筋に育ってきた長男と次男が、相次いで騎士科の学園に進んだ頃、七歳になったばかりのクロエに婚約話が舞い込んだ。
ブラズウェル伯爵家の嫡男、オーティスである。
初めて会ったときのオーティスは、透き通るような肌に、細い体付きの小柄な少年だった。
声が少し掠れていて、喉が弱いとすぐ分かった。
そして、毎年、夏になるとオーティスがキャメロンの領地に避暑に来るのが恒例になった──静かな時間を過ごすために。
政略というよりかは、彼の両親が療養を目的に結んだ婚約だった。ブラズウェル伯爵が、父の信頼する部下だったことも大きい。
だが、クロエが『静かな時間を過ごす』わけがない。
オーティスと、その侍従のタージを引き連れ、領地を駆け、領民に「今日も元気だねえ!」と言われながら、領の森にだけ生ってる黄色い林檎をもぎもぎ、袖で拭いただけのそれをむしゃりと頬張ったり、迷子の猫ちゃんの飼い主探しをしたり、拾った棒でちゃんばらしたり、それはもう振り回し、全力で遊び尽くした。そして、オーティスに怪我をさせた。
当然、母からは雷を落とされた。
「他所様のご子息になんてことを! め!」と叱られ、ゲンコツを喰らった。
この母ときたら、四人の息子が悪さしたときと同じ叱り方をするのだ──良く言えば平等、悪く言えば大雑把、ときたま繊細じみたこと言うタイプだった。
ゲンコツは別にいい。いや、よくはないけど、三秒で終わるから、やはり『別にいい』。
けれど、おやつ抜きはやめてほしい。
クロエはわんわん泣いて抗議したが、平等で大雑把で稀に繊細な母は「だめよ」と言って譲らなかった。
母の作る、じゃがいもとひき肉の香草パイと、マーマレードジャムのパイは絶品で、どこでも気軽に食べられない。
父も、兄たちもこれが大好きで、なんなら父の職場である第一近衛隊の方々もこれが好きだし、その奥様方にはレシピを狙われている。
世界一美味しいパイの禁止を言い渡されたら、世界の終わりである。
そんな絶望の中にいるクロエを救ったのは、頭に小枝を絡ませ、頬と膝小僧に擦り傷をこさえた青白い顔のオーティスだった。
「キャメロン夫人、クロエ嬢を怒らないでください。それに、僕が行きたいとお願いしたんです。ねえ、タージ?」
急に話しかけられた侍従のタージは、ものすごく空気の読める子供だったので、「ええ、そうです」とオーティスの質問に素晴らしい反射神経で返した。
母は「あら、まあ」と言って、クロエの頭を撫でたあと「パイを焼いてあげるから許してね」と言って慌てて台所に引っ込んだ。
なよなよしてて、すぐにぜえぜえして立ち止まり、木も登れない軟弱な都会のおぼっちゃまだと思ったのに。
そんな彼に庇われたクロエは恋に落ち──るはずもなく、親友認定した。
それからの夏は、毎日が大冒険! ひゃっはー!
夏の終わりにオーティスを迎えに来た彼の両親は、太陽の下で過ごせた息子を見て涙目になり、ブラズウェル伯爵夫人に至ってはクロエをぎゅっと抱き締めた。
なんのこっちゃ、分からないが、自身の母よりも優しくてとびきり美人な夫人のことはすぐに好きになった。
そもそも、クロエは人見知りしない娘だったので、第一印象が相当嫌な者以外にはほとんど好意を抱いたりする。
◇
クロエは婚約者とその侍従と夏を重ね、十五歳を迎えた年に王都の学園に入学を果たした。
母は、自分の出身校である女学校に入らせたかったようだが、クロエがこれに強く反対した。
その理由はたくさんあるが、最たるものを一つだけ挙げるとすれば『制服』である。
白を基調としたブレザーに赤と紺のリボン?
ああ、無理! 無理無理無理ぃ……!
食いしん坊のクロエがハンガー・ストライキを起こしてまでの抗議に折れたのは、母ではなく父だった。
「そんなに嫌なら、女学校はやめよう。男子用の制服を着られないか、頼んでみよう」
持つべきものは、娘に甘い父である。
……と、これが、クロエが王都立ジョンソン=レイエス学園に入学した理由だ。
着用制服はもちろん男子用。
クラスはオーティスとタージと同じだったので、好奇の目もへっちゃらだった。
というか、そんな目で見てくる奴はともかく、つっかかってくる野郎どもには地面と仲良くなってもらった。クロエは腕っぷしも強かった。
だが、クロエはいずれ社交界に出る身。一年後にはデビュタントも控えている。
将来、社交界で顔を合わせる令嬢たちに嫌われたら大変だ。
なんせ、人と違う者はそれだけで異端と見做すのが思春期の少年少女たちである。
ああ、心配。とても心配。
と、はらはらを抱えた関係者一行のあれやこれやは、あっけないほど早々に消えた。
なぜって?
そりゃあ、クロエが同年代の男子共よりも格好良かったからだろう(クロエによる自己分析)。
顔は、若かりし頃に恋文タワーなるものを作った父似で、女子にしては高めの身長。
やんちゃでわんぱくだが、食事のマナーや場面でのあいさつは完璧。なにより、意地悪な男子にがつんと言って守ってくれるクロエがモテないはずがなかった。※ただし女子限定で。
加えて、薄幸の美少年な婚約者と、その侍従である異国の血が半分混ざったエキゾチックな美少年が側にいるのも女子たちのハートをがっちり掴んだ。
クロエの学園生活は最高のスタートを切った。
◇
季節はめぐり、入学から一年が経った。
王都は春めき、学園の中庭にも花の香りが漂いはじめている。
十六歳の誕生日を迎えたクロエは、二か月後のデビュタントを控えていた。
……デビュタントといえば、白いドレスである。
男子の制服に慣れきった身としては、もはや極刑の宣告みたいな響きだ。
父は「もうそんな年か」と感慨深げに笑い、母は「どんな型がいいかしらねえ」と嬉しそうに布見本を並べた。
兄たちは揃って「クロエがドレスだって!?」と腹を抱えた。
兄たちは全員、敵である。嫌いだ。ふんっ、ってしてやる。
クラスの令息たちもまた然り。影でこそこそ言うなんて最低だ。
だけど、オーティスは違った。
あの穏やかな声で、彼は言った。
「僕は、似合うと思うよ」
それを聞いた瞬間、心臓がひどく忙しくなった。
最近のクロエはおかしい。
オーティスに微笑まれると、逃げ出したいような、けれど嬉しくてたまらない気持ちになるのだ。
昨年の年末から春にかけて、オーティスは拳二つ分も背を伸ばした。
今では六フィートに届くほど。肩の線が広がり、声も低い。
もはや、入学当初の『薄幸』という印象は、どこにも残っていない。
やわらかな青みを帯びた銀の髪に、キャラメルシロップのような瞳。
薄い唇と、たれ気味の目元には並んだ二つのほくろ。
穏やかな物腰もあいまって、ついこの前入学したばかりの下級生たちは彼を『王子様』なんて呼んでいる。
今日も授業が終われば、タージと三人で寄り道の約束がある。
風に靡いた髪を払いながら、クロエは深呼吸した。
学園のレストハウスは、昼下がりの光で満たされていた。
磨かれた木の床に、窓際のカーテンがやわらかく揺れ、ざわめきの中に笑い声が混じる。
貴族も平民も、教師にさえ気兼ねなく肩を並べられる数少ない場所。
香ばしいパンと紅茶の匂いが混ざり合い、春の陽気にちょうどいい温度だった。
クロエは制服の上着を肩に掛け、扉を開けた。
中を見渡すと、すぐに見つける。
いつもの窓際の席。
オーティスとタージ。
……そして、見慣れない背中が一つ。栗色の巻き毛。華奢な肩。どう見ても女子だ。
まあ、だからといって、特段何もない。彼らはモテる。入学直後はもっとすごかった。
クロエの足取りはいつも通り。速度も変えない。
「おまたせ」
そう言って、いつものように椅子を引いた。
そして、これまたいつものように、相手が席を離れるか、挨拶をして長居するかの二つに一つを選ぶのを待つ。
今回は、後者だった。
「はじめまして。私、先日、学園に転入しました、プリンプトン子爵家のブリットですわ。クロエ殿のお噂はかねがね。よろしくお願いいたします」
……ん? 『殿』?
ブリットは、クロエを『殿』の敬称で呼んだ。
それは、男装しているとはいえ、学園に通う者たちがまず使わない呼び方だった。
親しい友人でも、冗談にすらしない。
だからこそ、わざとだと分かった。
ほほう?
クロエは、なるほどね、と思った。
怒らせようとしているのなら、弱いなあ、とも思った。女の子って、ほんとに可愛い。
「うん、よろしくね。私のことは知っているだろうけど、一応名乗らせてもらうね。クロエ・キャメロンだよ」
そのタイミングで、タージが、クロエとオーティスに茶を淹れた、いい香りだ。
「どうぞ」
ブリットの前にだけカップを置かなかった。
タージは割と沸点が低いのだ。
しかし、これがブリットに席を立たせる作戦ならば乗らざるを得ない。
「ありがとう、タージも一緒に飲もうよ」
「いえ……お二人の邪魔はできません」
いつも一緒に飲むくせに? と心の中でツッコミつつも、これがブリットに席を(略)。
さて、このあとはどうしたものか。
そう思っていると、流れるようにオーティスがクロエの手をさらった。
「クロエのデヴューが楽しみだな」
「………」
オーティス、お前もか。
心の中で、ていっ! と東方式手刀で突っ込み、こくりと頷いて婚約者を見つめ返す。こういうときは母の真似である。
母もよく、美形な父を見つめ返し、赤面もせずに笑うだけで、父に群がる魑魅魍魎な女どもを地に叩き落としてきたらしい。
乳母談だが、未だに父を狙う女がいるとかいないとか。……たぶん、いる。
と、まあ、そんな話はさておき。
つまり、舐められてたまるか、という……ん? なんか、オーティスの顔が赤い……?
学園に入学してからは、徐々に体力が付き、今では健康体になったと思っていたのに。こりゃあ、大変!
オーティスの額に手を寄せ、「熱? 大丈夫?」と問う。「いや」と返ってきたけれど、あらら目まで潤んでる。
可哀想に……と思っていると、ブリットがガタン! と椅子を鳴らし立ち上がった。
裾を大きく翻し、香水の匂いだけ残して去っていく。
クロエは、その後ろ姿をぽかんと見送った。
「嵐のような令嬢だったね……あ、オーティス、保健室に行こ?」
「……いや、大丈夫。熱はないから」
「ええ? たぶん、あるよ? ほら、首も赤いじゃないの」
首に手の甲を当てた瞬間、その手を取られた。指先が離れない。
「だ、大丈夫だから」
「ほんと?」
「クロエ様、そこらで勘弁してあげてください。オーティス様に熱はありません」
タージにまで言われてしまった。
虐めてるわけじゃないのに!
解せぬ。ぐぬぬ。
こうして、クロエは意図せずにブリットを撃退したり、婚約者を翻弄していたのだが、本人はそのことにまったく気付いていなかった。
◇
デヴュタントの日、クロエは、母と使用人たちに囲まれ、頬を膨らませていた。
もはや朝とは呼べない時間に起こされ、半分寝たまま風呂で洗われ、爪を磨かれ、髪を梳かれ、あれこれ揉みくちゃにされ、日が昇ってもまだドレスまで辿り着けていない。
「もう嫌だ。飽きた。ドレスなんか着たくない。デヴューなんかしたくない」
と言ったら乳母に泣かれてしまい、今ここ──頬を膨らませるしかないというわけだ。
「まあまあ、なんて可愛いのかしら。ふふ、私、ちゃあんと女の子を産んでいたのねえ」
しみじみ言う母に同意して、使用人たちがうんうんと頷く。
満足げな顔の列。全員、達成感を味わっているのだろう。
不本意ながら、小さくお礼を言うと拍手が湧いて、嫌になる。
階下に降りると、一番目の兄と四番目の兄がいた。
何を言われるのか、想像しただけでうんざりしていたのに──どっこい。
からかわれるどころか、「父上と母上がクロエに男装を許したのは英断だな」などと言い出す始末。
意味が分からない。
父なんて、歓喜のあまり泣いていて、母に頭を撫でられている。
この人のどこが氷属性? ただの子犬では?
「地上に舞い降りた天使かと思った。お前の母の次に、可愛い。世界二、可愛い。とても可愛い」
……さいですか。
どうやらクロエは、『世界二』らしい。
そんな単語、この家にしか存在しない。
父と母と一緒に会場入りすると(なぜか、一番目の兄と四番目の兄も着いてきた)、会場全体が息をのむ音がして、クロエは怖くなった。
男装していた自分のドレス姿はどう見えているのか不安でたまらない。
家族にはクロエが天使に見えているのだろうが、そんなものは愛情による錯覚だ。
「お母様……」
「あらあら、私の可愛い怪獣ちゃんったら。パイが食べられなくて泣きそうなときの顔をしてるわね。どうしたの? 不安になってしまったの?」
母の『怪獣』呼びに安堵する日が来るなんて。
とはいえ、本当のことなので、素直に頷く。
母はにこりと微笑み、クロエの手をぎゅっと握った。
「ふふ、大丈夫。と、言っても私の言葉じゃ弱いかしら。……そうね、オーティス君にたくさん褒めてもらえば、きっと不安も消えるわ。私も色々言われたけれど、旦那様の言葉だけを信じてきたの。それに私たちは何があってもあなたの味方よ。これだけは覚えていてね、愛しているわ」
胸の奥が熱くなる。
こういうとき、どういう顔をしていいか分からない。
ただ、母の手が温かいことだけは分かった。
「色々とはなんだ、ユマ」と、空気を読まない父を、母が「あとでね」と躱わす。
その光景を見て、クロエはふっと肩の力を抜いた。
「さあ、お父様と一緒にオーティス君のところに行ってらっしゃい」
「……はい、お母様」
我が国のデヴュタントは、社交界への正式な紹介を兼ねた成人の儀である。
壇上では、父から婚約者へと令嬢の手が渡される。
その瞬間から、娘は婚姻を許される身となり、同時に成人として酒を口にできる。
王妃陛下から花冠と祝詞が授けられ、二人は壇上を降り、最初のダンスを踊って式を終える。
──そして今、まさにその場に立っている。
父から、オーティスにクロエの手が渡ると、会場全体が今度は「はううん」と、ため息をついた。怖い。
「クロエ、とっても綺麗だ」
「……ほんと? ……変じゃない?」
「変じゃないよ、綺麗だし、可愛い。とても似合ってる」
その言葉を聞いた瞬間、クロエの心の中に蔓延っていた靄がぱあっと晴れた。
オーティスは、嘘はつかない。
自分の言葉より、オーティスの言葉のほうが信じられる。
それだけのこと。
けれど、それがすべてだった。
クロエは、晴れ晴れとした気持ちで壇上を降り、オーティスとダンスを踊った。
幼い頃から何度も繰り返したステップ。息はぴたりと合い、会場が静まった。
その隅で、ブリットがハンカチの端を噛んでいたとか、いなかったとか。
踊り終えた二人は、グラスを片手にテラスへ出た。
「う、苦ぁい。私、お酒だめかも」
初めて飲んだお酒は、香りは甘いのに苦いような酸っぱいような、複雑な味がした。アルコール度数は低いはずなのに、ザ・お酒感がして、どうにも好きになれそうもない味である。
「そうだと思って、林檎ジュースも持ってきた」
「さすがオーティス!」
緊張やら何やらの感情がないまぜになった状態でのダンスのあとなので、喉が渇いていた。
こくこくと飲み、はあ、と息をはくと、オーティスは安堵したような笑い声を漏らした。
「どうしたの?」
「いや、いつものクロエだな、って思ってさ」
「ええ~?」
「今日は……いや、いつも可愛いんだけど、今日はとびきり可愛いからね」
「……ドレス着たほうがいい?」
「どっちでもいい。どっちも可愛い」
「……ふうん」
可愛いなんて、今日はじめて言われた。さきほど壇上で言われたのと合わせても四回目。綺麗も二回言われた。
嬉しいけど、やはり反応に困る。
「ずっと、君がデヴューしたら言おうと思ってたことがあるんだ」
「……え? 何?」
「ああ、不安な顔しないで。僕はね、君のことが好きだって言おうと思ってたんだ」
「? 私もオーティスのこと好きだよ?」
オーティスが首を振る。
「ありがとう。でも、僕の『好き』と君の『好き』は違うよね」
「同じだよ!」
ムッとしてしまい、思わず声が強くなる。
「……親愛や友情と、恋慕は違うよ」
「……」
正直、クロエはその違いがよく分かっていない。
でも、なんとなく分かる気もしている。
だけど、説明してみてと言われたら言語化はきっと難しい。そんなところだった。
それでも、異性で一番好きなのは彼だ。
クロエの沈黙を肯定と取ったのか、オーティスがふっと笑う。
「初めて会ったときから、好きだった。君は底抜けに明るくて、行動的で、皆に愛されてて、僕の手を引いてくれた。絶対に置いていかなかった。文句も言わなかったし、同情もしなかった。眩しくて、太陽みたいだって思った」
「……」
褒めすぎではなかろうか?
「今もそう思ってる。僕じゃ、頼りないかもしれないけど、どうか結婚してほしい」
「た、頼りなくないよ!」
グラスをテラスの手すりに置き、空いた両手でぎゅ、と彼の手を握る。
上手く言えないけど、どうにか伝えたい。
「あ、あのね──」
クロエが言葉を言いかけたところで、テラスの入口のカーテンが、ばさりと大きく揺れた。
「見つけたぞ! キャメロン侯爵令嬢!」
派手な顔立ちの青年が堂々と進み出る。
「私はアルヴェイン・ヴァルシュタット! ルーヴェン王国の第二王子だ!」
「……」
「……」
名前に聞き覚えがあった。
確か、ルーヴェンへ嫁いだ第一王女殿下──つまり、この国の元姫の息子だ。
舞踏会の後、賓客への挨拶に回っていたらしい。だが、どういうわけか、彼は予定外にテラスへ現れたようだ。
オーティスも同じことを思い出したのか、クロエと視線を交わして小さく頷く。
オーティスが半歩前に出た。
踵が床を叩き、短い音が響く。
胸の前で右手を軽く握り、深く頭を垂れる。
「ルーヴェン王国の第二の小さき陽にご挨拶申し上げます。ブラズウェル伯爵家の嫡男、オーティス・ブラズウェル、並びに婚約者クロエ・キャメロンにございます。このたびはお声がけを賜り、恐れ多くも光栄に存じます」
礼を解いたあと、衣の裾がかすかに鳴った。
王族への挨拶として、非の打ちどころのない所作である。
だが、アルヴェインは、オーティスの肩を押しや──れない。オーティスのほうが体幹がいいようだ。
ムッとしたのかアルヴェインは、今度はどんっ、と強めに押しやり、クロエにずいっと手を差し出してきた。
「光栄に思え! この俺が娶ってやる。この手を取れば、お前は王子妃だ! 正妻にしてやろう! どうだ、嬉しかろう?」
何言ってんだ、こいつ。
クロエは、口にしてはいけないことを思った。
口には出さなかったけれど、顔には出た。思いきり出た。
こいつの嫁なんか絶対嫌だ、と『顔』が全力で主張していた。
そして、ふと、オーティスにはこんなことは思わないなあ、と思った。
それから、これこそが彼に伝える『言語化できる想い』だと感じた。
言葉にできなかった『好き』の正体だと気付いたのだ!
「ねえ、オーティス! やっぱり私、オーティスが好き! あのね、クラスの子が言ってたの。『キスしたいって思う』とか、『ダメなところを可愛いって思う』のが恋なんだって。お父様にも、お兄様たちにも、タージにも、王子様にも思わない! どっちも当てはまるのは、オーティスだけ! 私は、絶対、絶対、オーティスとしか結婚したくない!」
「……クロエ……」
「すぐ顔が赤くなるとこも、涙目になるところも可愛い! ねえ、これって、同じ『好き』でしょ?」
「──貴様ぁ……っ! 王族に向かって、その口の利き方はなんだ! 誰の前で言葉を吐いていると思っている!!」
怒鳴り声を聞き、はっとする──あ、忘れてた。こいつ、いたんだった。
「よりにもよって、下位貴族の小僧に想いを告げるだと? 恥を知れ!」
アルヴェインが手を振り上げ、オーティスがクロエを庇うように抱き締めたと同時に──
「あー、いたーー! 皆、アルヴェイン殿下はテラスにいるぞー! 殿下、おやめくださーい」
護衛が慌てて間に入り、アルヴェインの肩を押さえた。
「ご公務の場にございますー、どうかご自重をー」
「ええい! 離せ! この手を離せと言っている!!」
「離すわけないですよー、まったくもー。ほんっと、すみませんー、悪気はないんで許してやってくださいー。ではでは、うちの王子が失礼しましたー」
暴れるアルヴェインは、ガタイの良い護衛にあっさりと押さえ込まれ、そのまま連行されていった。
静まり返ったテラスに、風が通り抜ける。
「な、なんか、すごかったね」
「ああ、うん、そうだね」
「ねえ、これが原因で戦争になったりする? 外交問題とか、大丈夫かな?」
クロエの質問に、オーティスは首を振る。
「いいや、ならないよ。大丈夫。というか、少し思い出した情報がある。……ルーヴェンの王家と、キャメロン侯爵家に関することだ。あとで侯爵を交えて話そう」
「? うん! じゃあ、とりあえず会場戻ろっか」
「こらこら、まだ戻らないよ──ねえ、クロエ? さっき、君は、僕とキスがしたいって告白してきたよね? その話がまだ済んでいないよ」
「…………ん? なんか解釈のニュアンスが違うかも。私が言ったのは──」
「僕も、君とキスがしたかった」
「えっ、あ、あの……オーティス、聞いてる?」
背にある彼の手が、熱を帯びた。
指が腰をなぞり、ゆっくりと顎を持ち上げる。
近い。息の混ざる距離。
どくん、と心臓が跳ねる。
えっ、ちょっ、待って、待っ──
言葉になる前に、唇が触れた。
あまりに優しく、けれど確かに。
唇が離れても、時間だけが動かなかった。
音も、風も、何もかもが遠くなる。
そして、夜風が甘い香りを運んでいった。
「よかった。これからは我慢しなくていい?」
「……え? ……我慢、って?」
クロエが、彼のその言葉の意味を理解するまで、そう長くはかからないだろう。
これにて、クロエのデヴュタントは幕を閉じたのである。
◇◇◇
さて、このあとの話を少し。
なんと、アルヴェインの母君──つまり、我が国の第一王女殿下だったお方は、かつて父に懸想していたことが判明した。
これは、オーティスが言っていた『話し合い』で知った。
言葉を選ばずに言えば、父は姫を「面倒だ」と感じていたらしい。
もっと端的に言えば、「クッッッッソ面倒だ、絶対に姫と結婚したくない」だったそうだ。
それで母と三年の契約結婚をしたのだが、しかし。父が母に恋してしまい、今や五人の子の父である。
そんなこんなで、過去の黒歴史を自分の息子に見たアルヴェインの母君は、この話をまるっとなかったことにして、事なきを得た。
というか、逆に謝罪文が来た。
たぶん、父が何かしたのだろう。でも詳しくは聞いてない。怖いから。
ちなみに、最高学年になった現在も、クロエは男装を続けてる。
スカートなんて、真っ平ごめんだ。
……でも、まあ、結婚式のドレスは着てもいいかなあ、と思っていたりする。
【完】
※クロエの両親の「なんやかんや」は、同作者の『契約結婚が終わる日』にて。




