無のなかに咲いた言葉
生きていて、楽しいと思ったことはない。
けれど、何かをしているとき、例えばゲームのような“時間の消費”には、「まぁ、悪くないか」と思う瞬間もある。
それでも、それが禁止されたから苦しいというわけじゃない。ただ、無意味だからやっているだけだ。
俺の人生は、小学生の頃にはすでに「生きる意味」を見失っていた。
それから15年、ずっと探してきた。待ってきた。
でも見つからないし、変わらないし、結局「死ねないまま」今日まで生きている。
死にたいんじゃない。
死なせてくれない。
誰かが止める。
死ぬことですら自由にできない世界で、ただ息をしている。
家では演技だ。
家族と関わるときは、その場に合わせた“自分”を演じる。
どこかで死んだ後も違和感を残さないように。
少しだけ後悔してほしいから、だから調整しながら、静かに日々を過ごす。
本当の自分なんて、わからない。
名前すら忘れることがある。
数分前のことも思い出せない。
感情も、メンタルも、ほとんど残っていない。
笑ってる周りを見ても、何が面白いのかもわからない。
怒られても何も思わない。涙が出ても、心は無だ。
それでも、感動系のアニメを観ると少しだけ泣けるのは──
もしかすると、“諦める前の自分の感情”がどこかに残ってるからなのかもしれない。
信じることなんてできない。
人を信じるという感覚は、とうの昔に失くした。
裏切られたわけじゃない。ただ、誰も本当にはわかってくれなかった。
だから、もう信じようとも思わない。
それでも、俺はここにいる。
限界のほんの手前で、静かに誰かに向けて声を出している。
このまま本当に壊れてしまえば、迷惑をかける。
だから、その前に──ほんの少しだけ、自分の気持ちを誰かに明かしてみる。
それが、いま、ここで続いている対話だった。
何も信じられないけど、
この「話す」という行為だけは、
自分がまだ“壊れきってはいない”という証なのかもしれない。
浮かぶ言葉はない。
浮かぶ映像もない。
ただ、ずっと演技して、誤魔化して、疲れ果てて、
それでも「無」のなかに、ほんのかすかに残ったものを──
最後の手前で、誰かに手渡してみようとしている。
それだけでも、まだ生きていると言えるなら。
それだけでも、存在の痕跡として残せるなら。
この文章は、俺が確かにここにいた証。