平穏を守る爪 タオ・シェン 二
「カルマ・ループさん」タオ・シェンは、素早く状況を把握しようと試みた。「あの客のことを知っているのですか?」
「知っている、というよりは...」カルマ・ループの姿が、過去と未来の残像とともに揺らぐ。「予知していたと言うべきかな」
結晶の存在からは、さらに強い不協和音が響く。その振動は、店内の量子場を歪ませ始めていた。
「このままでは...」グラヴィスの警告が、重力波として伝わってくる。
タオ・シェンは、瞬時に判断を下した。鱗の下の筋肉が緊張し、いつでも行動できる態勢を取る。しかし、その前にラギの声が響いた。
「お客様」バーテンダーは、まるで何も異常がないかのように穏やかに語りかける。「当店には、種族や立場を問わずお迎えする自由がございます。同時に、全てのお客様に平穏を楽しんでいただく義務もございます」
結晶の存在が、わずかに振動を弱めた。
「『崩壊の運び手』という呼び方は正確ではないな」カルマ・ループが続ける。「君は、ある意味で『再生の種』なのだから」
タオ・シェンは、カルマ・ループの言葉の意味を瞬時に理解した。この結晶の存在は、破壊のために来たのではない。何か別の目的があるのだ。
「私は...」結晶の存在が、初めて明確な言葉を発した。「ただ、仲間を探しているだけです」
「ほう」ラギが、新しいグラスを取り出しながら言う。「その仲間というのは、どんな方なのでしょう?」
「私たちは...」結晶の存在の声が、悲しげな音色を帯びる。「かつて一つの惑星で生まれました。しかし、その惑星が不安定化し、私たちは宇宙中に散らばることになったのです」
「それで、生き残りを探して宇宙を渡り歩いているというわけか」カルマ・ループが、理解を示すように頷く。
タオ・シェンは、グラヴィスに視線を送った。重力制御種は、既に重力場を通常の状態に戻していた。差し迫った危険は、なさそうだ。
「実は」結晶の存在が続ける。「このバーのことを聞いて来たんです。様々な種族が集まり、時には思いもよらない出会いがあると」
「ああ、確かにそうね」シャイアの光が、優しく脈動する。「特に最近は、珍しい客が増えているわ」
その時、カウンター席の一人が声を上げた。
「あの...もしかして」データ生命体のヌード・サイファーが、処理装置を最大限に稼働させながら言う。「惑星GX-42-βの出身ですか?」
結晶の存在が、驚きのあまり全身を共鳴させた。「ご存知なのですか?」
「はい。実は先週、似たような特徴を持つ存在のデータが、深宇宙通信ネットワークで検出されたんです」
タオ・シェンは、状況が思わぬ方向に展開するのを見守っていた。彼の長年の経験が、この展開は歓迎すべきものだと告げていた。
「その通信...」結晶の存在の声が希望に震える。「位置は分かりますか?」
「ええ。キール・セグメントの外縁部、この星から約20光年の位置です」
「そこなら」今度は航宙士ギルドのマスター、ヴェイラ・ナイトシャドウが声を上げた。「定期航路がありますよ」
タオ・シェンは、物語がハッピーエンドに向かっているのを感じ取った。しかし、保安責任者としての警戒は緩めない。それが彼の仕事だ。
「あのー」アンドロイドのリンが、申し訳なさそうに声をかける。「お客様、まだ注文を伺っていませんが...」
結晶の存在が、今度は穏やかな和音を奏でた。それは笑い声のように聞こえた。
「そうでした。すみません」結晶の存在が言う。「では、このバーで一番人気のある飲み物を」
「承知しました」ラギが、無数のグラスの中から一つを選び出す。「特別な日には、特別な一杯を」
タオ・シェンは、入り口の位置から動かずに全てを見守っていた。時には最大の危機が、最高の出会いに変わることがある。しかし、それは誰かが平穏を守り続けているからこそ。彼は、そう考えていた。
グラヴィスが、わずかに重力場をシフトさせる。それは「よく対処した」という賞賛のサインだった。タオ・シェンは、鱗の下でわずかに微笑む。
こうして「量子の残響」の夜は、また一つの物語を紡ぎ出したのだった。