平穏を守る爪 タオ・シェン 一
タオ・シェンは、入り口に立ちながら、舌で空気を味わった。人型爬虫類である彼の感覚器官は、空気中の化学物質の微細な変化を察知できる。そして今、彼は何か異常なものを感じていた。
「グラヴィス」彼は隣の重力制御種に向かって、ほとんど聞こえないくらいの声で呟いた。「今夜は妙だ」
重力場の集合体であるグラヴィスは、形を僅かに歪ませることで返答した。それは「同意する」というサインだった。
普段の「量子の残響」なら、入り口を通過する客たちの持ち込む空気の変化は、既知のパターンの組み合わせでしかない。アルコール、様々な種族固有の体臭、宇宙船のエンジンオイル、時には違法な薬物の痕跡...。しかし今夜は、それらとは全く異なる何かがあった。
「何かあったの?」アシスタント・バーテンダーのシャイアが、青白い光の触手を伸ばしてきた。
「ああ」タオ・シェンは、できるだけ平静を装いながら答えた。「通常のスキャンを強化してくれないか。特に新規の客に対して」
シャイアの光が微かに明滅する。了解のサインだ。
その時、入り口のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」アンドロイドのリン・8Kが、完璧な笑顔で迎える。
入ってきたのは、これまで見たことのない種族だった。外見は人型に近いが、全身が半透明の結晶で覆われている。スキャンによると、その結晶は未知の物質で構成されていた。
「お一人様ですか?」リンが声をかける。
結晶の存在は、かすかに共鳴するような音で答えた。「ええ」
タオ・シェンは、グラヴィスと視線を交わした。グラヴィスの重力場が、わずかに強まる。
新しい客は、カウンターの空いている席に向かった。ラギ・ソーンは、いつものように穏やかな笑顔で注文を聞いている。しかし、タオ・シェンには分かった。バーテンダーもまた、この客に対して警戒を解いていないことが。
「シャイア」タオ・シェンは再び小声で呼びかけた。「あの客の素性は?」
「調べています」シャイアの声が、彼の鱗の振動として伝わってくる。「でも...奇妙なことに、どのデータベースにもマッチしません」
これは前例のないことだった。「量子の残響」には、銀河中のあらゆる種族のデータが集積されている。それなのに、まったくの未知の存在とは。
その時、店内の量子場が微かに揺らいだ。
量子シールド室にいた因果律存在のカルマ・ループが、突然姿を消した。次の瞬間、彼は結晶の存在の隣に出現していた。
「やあ」カルマ・ループの声が、時空を震わせる。「『崩壊の運び手』とやらに会えるとは思わなかったよ」
結晶の存在が、ゆっくりと振り向く。その全身から、今度は不協和音のような振動が発せられた。
タオ・シェンの背中の鱗が、一斉に逆立った。