プロローグ 一
人の噂話というのは、時として最も速い光よりも早く伝わることがある。
少なくとも、辺境惑星ネヴァ・リンブスにあるバー「量子の残響」では、そんな現象がごく当たり前に起きていた。それもそのはず、店内には光よりも早い存在が、文字通り居座っているのだから。
「またあの話かい?」
バーテンダーのラギ・ソーンは、カウンターグラスを磨きながら、微かに笑みを浮かべた。銀色を帯びた黒髪の中年男性は、その手つきも表情も、まるで何百年も変わらないように見える。実際、変わっていないのかもしれない。
「ええ、マスター。また始まったみたいです」
アシスタント・バーテンダーのシャイアが、青白い光の渦を形作りながら答えた。エネルギー体である彼女は、店内のあちこちに同時に存在することができる。今この瞬間も、カウンター内の一部が彼女で、入り口付近の空気の一部も彼女だった。
噂の中心は、六人掛けテーブルに座る航宙士ギルドのマスター、ヴェイラ・ナイトシャドウだった。光帆種の彼女は、虹色に輝く半透明の姿で、優雅に宙に浮かびながら、テーブルを囲む仲間たちと話をしていた。
「新航路の発見?」
「いいえ、もっとスケールの大きな話よ」
「ギルドの再編?」
「それより大きいわ」
囁き声が、量子の残響の空気を震わせる。いや、正確には空気だけではない。電子も、光子も、そして量子もつれも、全てが噂話に反応していた。
カウンターの隅では、改造人類のジャック・ノヴァが、左目に埋め込まれた量子センサーで状況を分析している。彼の隣では、同じく改造人類のマリア・スターダストが、医療用インプラントで体調をチェックしながら、話に耳を傾けていた。
「なあ、ドクター・エス。お前なら分かるだろう?」
ジャックが、隣に座るシリコン知性体に声をかける。灰色の結晶のような体を持つドクター・エスは、ゆっくりと振動しながら答えた。
「私の計算では、確率は72.8%。ただし、誤差範囲は±15%ね」
「相変わらず歯切れが悪いな」
店内の空気が、さらに震える。今度は入り口が開く音に反応して。
そこに現れたのは、この店の常連の一人、因果律存在のカルマ・ループだった。螺旋状の時空の歪みのような姿で、彼は静かに量子シールド室へと向かう。彼の周りには、過去と未来の残像が幾重にも重なっていた。
「カルマさん、今日は早いですね」
ウェイトレスのリン・8Kが声をかける。最新世代のアンドロイドである彼女の動作は、人間と見分けがつかないほど自然だった。
「ええ、リン。今夜は特別な夜になりそうだからね」
カルマ・ループの言葉に、店内の空気が再び震えた。今度は、期待と不安が入り混じったような波動となって。
入り口では、重力制御種のグラヴィスと人型爬虫類のタオ・シェンが、いつも通り警備を続けている。彼らの存在が、この不思議な空間の安定性を保っているのだ。
ラギは、カウンターに新しいグラスを置きながら、再び微笑んだ。
「さて、どんな物語が始まるのかな」
彼の言葉は、誰に向けられたものでもないようで、全ての人に向けられているようでもあった。量子の残響という名前の通り、その言葉は空間に共鳴し、幾重もの反響を生んでいく。
そして物語は、まさにそこから始まろうとしていた。