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Spring

作者: Gin

 圭吾と初めて出会ったのは、私が大学4年生の教育実習で付属中学校に行ったときだった。彼は私が担当したクラスの生徒だった。生徒たちと初めて対面したとき、担任の先生が、

「今日から1年A組の担当になった教育実習生の皆さんです。一人ずつ自己紹介してもらいましょう。」

といきなり無茶ぶりをしてきた。幸い私は順番が最後だったので少しだけ考える時間があった。

「家庭科を担当します林玲子です。私は映画が大好きで、最低でも月に一回は観に行きます。昨年度公開された映画ではアナ雪、ホビット、るろうに剣心2、3など面白い作品が目白押しでしたが、私の1押しはトム・クルーズ主演のALL YOU NEED IS KILLです。皆さん是非見てください。映画って本当に良いものですね。」

往年の映画解説者水野忠雄さんの決め台詞をもじった自己紹介をした。みんなが私を見ている中で、ひときわ目を大きく見開いてじっとこちらを見つめている男子がいた。まだ幼さの残る頬のラインのわりに少し大人びた黒目勝ちの瞳がアンバランスで、心臓を鷲づかみにされたような気がした。給食を食べている最中に、その彼が突然耳元で、

「日曜日、映画行こう。」

と囁いた。出会ってから半日である。私はふざけているのだと思い、たしなめようと顔を向けたとたん、待ち合わせの場所と時刻を書いたメモを手に握らされた。その表情は真剣そのものでふざけているようには、全く見えなかった。皆の前で何か言えば傷つけてしまいそうで、私は何も言えずにそのままにしてしまった。


 付属中での実習期間は一週間しかなく、毎日、目が回るような忙しさだった。指導教官の授業を見学し、感想を提出し、同期の実習生の行った授業については、彼女の指導案プラス実際の授業について考察したレポートを提出しなければならず、更に自分の指導案を担当の先生に提出し、OKをいただき、実際に授業を行い、反省のレポートを提出し、OKを貰って漸く終了である。忙しさに紛れて彼のことを考えそびれているうちに土曜日の夜になってしまった。

 まさか本気じゃないだろうとは思っていたが、はっきり断った方がいいだろうと電話をかけてみることにした。初めに電話に出たのは、お父さんだろうか。

「はい、高橋です。」

とおっしゃったので、

「夜分に申し訳ありません。教育実習で圭吾君にお世話になっています林と申します。昼間相談があったらしいのですが時間がなくてちゃんと聞けなかったもので、ご迷惑だとは思ったのですが、お電話させていただきました。」

と言った。少しの間、応答がなかったので、何度か

「もしもし、聞こえてますか。」

と言うと電話の向こうの声が、若干小さくなって聞こえた。

「圭吾と代わります。」

「はい、お電話かわりました。」

変声期の少年の声がした。メモの内容の真意を聞きたいとストレートに言ったが、彼は、電話では話しにくいから、明日映画を見た後でゆっくり話したいと言うので、そうすることにした。私を誘った理由が映画を見ることだけではないことがはっきりした。

 中学生と映画を見に行くってどんな服を着ていけばいいのだろう。貧乏学生だった私は寮の友人や後輩に洋服を借りることもあった。私は相当童顔で、映画館で中学生に間違えられることもよくあったので、後輩に洋服を借りることにした。

 翌朝、めちゃくちゃ早く目が覚めた。侘しい寮の朝食に納豆をプラスして掻き込むようにして食べた。日曜日なので他に朝食を食べてる人はいなかった。私は念入りに歯磨きをした。化粧はどうしようか。ちゃんとした化粧品は持ってないけど、高3の時化粧品メーカーから貰ったサンプルを時々使っている。が、教育実習には化粧して行ってないからやめておこう。そして、昨日後輩から借りた服を着た。鏡を見て、

「良し!」

と声に出して気合を入れた。なんだかテンションがおかしい、胸がざわつく。胸のざわつきを抑え、映画館に向かってペダルを漕いだ。

彼が見ようと誘った映画は「ターミネータージェニシス」ターミネーターシリーズの最新作である。「ターミネーター1」は、DVDで見たけど、見終わったときは頭を殴られたような気がしたものだ。その後一か月ぐらい、メインテーマ曲が頭の中で流れ続けた。「ターミネーター」はよくSFやアクション映画に分類されるが、「ターミネーター1」に限って言えば、タイタニック以上のラブストーリーだと思う。

 私は、昨夜、支払いは全て割勘にしようと決めていた。しかし、映画館に着いたとたん、彼から映画の前売り鑑賞券を渡され、先制パンチにノックアウトされそうになっている私に、

「飲み物は何がいい?勿論ポップコーンは外せないよね。」

と畳みかけるように尋ねてくる。半ズボンに蛍光イエローの半そでシャツ、おそろいの色のスニーカーに薄手のジャケットを羽織りキャップを被った彼は、ひどくお洒落でグラサン掛けたら完璧だなと思ってしまった。

「チケット代出してもらったから、今度は私が買ってくる。君は何がいい?」

と言うと、

「やだな玲子さん、友達と映画見に来てるんじゃないんだから、ちゃんとエスコートさせてね。親父に小遣いいっぱい貰ってきたし、女性のエスコートの方法も伝授されたから、ね。」

いきなりの名前呼びにどきっとしたが、どうやら、父親に入れ知恵されたらしい。ここはお父さんの顔を立てるとするか。初めての二人で映画鑑賞はとても楽しかった。共通の趣味を持った人との会話は愉快に弾むし、話題を探さなくても次々と湧き出てくる。誰かと映画を見てこんなに楽しかったのは初めてかもしれない。

 それから、近くの公園に場所を移して彼の話を聞いた。

「僕の母は、僕が10歳の時に子宮頸がんで亡くなったんだ。父は産婦人科医だから、母の死を自分のせいみたいに思っているところがあって、父をなぐさめるためにも、母が亡くなってからは家事は僕がやっていた。最近、漸く父も元気を取り戻して、朝食を作ってくれたりしていた矢先だった。昨夜の玲子さんからの電話でちょと動揺していた。」

「玲子さん母に似ているんだ。顔の輪郭や声と話し方。親父も昨日の電話の声がそっくりだったって言ってた。親父が言っているのは、母さんの若い頃の事だと思う。僕はそっくりだとまでは思わないから。初めて、玲子さんが話すのを聞いた時、母に似てるなって思ったんだ。どんな人なんだろうって凄く興味を惹かれたし、玲子さんのことが知りたいと思ったんだ。これが、あのメモを書いた理由。今日一緒に映画を見て、確かに声は母さんに似ていると思ったけれど、いろんな意味で玲子さんのことが知りたくなった。林玲子という女性に物凄く興味がわいたんだ。だから、僕と付き合ってみませんか。」

「え、私先生なんですけど。」

「もう、教育実習終ったじゃない。」

「私が何歳か知ってる?」

「年齢は関係ないでしょ。」

「私は一応大人なので、18歳未満の子どもと不適切な関係になることはできないのよ。」

「適切な関係ならいいんでしょ。適切な関係を深めましょう。」

ああいえば上祐。らちが明かない。結局私は、彼の言い分に負けて次のデートの約束をした。

 それからは度々二人で映画を見に行った。中学生に奢られるのは流石に気が引けるので、割勘じゃないと行かないと言って奢るのは止めさせた。二人の映画好きが、一緒に映画を見ると、こんなに楽しいんだと言う証明のようだった。価値観も似ていて映画の批評をし合うとめちゃめちゃ楽しかった。

 次の年の3月、私は大学を卒業した。卒業式の当日、彼は式場まで来てくれて、卒業式が終わったら、親戚の叔父さん、叔母さんが経営しているフレンチレストランに連れていってくれた。

 そのころには、圭吾が中学生だとか9歳の年の差があることなどはどうでもよくなっていた。

 私たちは逢うべき相手にめぐり逢ったのだ。

 その日私は、母が用意してくれた振袖を着ていた。柄は友禅の典型的な絵柄で花やら牛車やら様々な模様が描かれていて、白地が基調で裾の方だけが淡いピンク色の布地に映えていた。帯がまた素敵で、ピンクなのに派手じゃない絶妙な柄と色で凄く気に入った。家はとても貧乏で、母は働きづめだった。よく、こんな振袖を用意するお金があったものだ。でも、その気持ちが嬉しかった。三歳下の妹が短大に行きたいと言い出したときは、相当もめたらしい。しかし、子どもに泣かれると親は負けてしまう。妹が短大に入学してから、あの二人がどんな風に暮らしているのか想像するのも怖ろしい。私の着物姿に彼はいつもと違って、ちょっと照れている感じだった。なんだかとても嬉しくて、母にお礼を伝えなければと思った。

 圭吾が、

「親父が紹介しろとうるさいから、今日呼んでるんだけど。」

「えっ、そんな突然。何を着ればいいのか分からない。」

「振袖でいいよ。」

「そうだった。ちょっと動転して、勿論お会いしたいわ。」

圭吾がお父さんに電話したところ、もうすぐ着くという事だった。まもなく圭吾のお父さんが現れた。

3人そろったところで、シャンパンでお祝いした(もちろん彼には飲ませない)。お父さんは、ダンデイで知的な感じながら、優しさが滲み出ているような人で、こんなに優しそうな男性に会ったこと無いなと思った。圭吾は確実にその遺伝子を受け継いでいる。

「今日、大学を卒業した人とは思えないな。高校生か中学生にさえ見える。可愛いらしいね。」

「父さん僕の彼女なんだからね。変なこと言わないで。」

「すまん、すまん。付き合うのは構わんが、条例に違反しないように節度をわきまえて付き合うこと。玲子さんよろしくお願いします。」

と釘を刺された。

「勿論、分かってます。こちらこそよろしくお願いします。」

ちょっと緊張したけど、お父さんとお会いできてよかった。私と圭吾の年齢差は、小骨が喉に刺さったままのような状態だったから、お父さんのお許しはありがたかった。

 

 私は就職先がまだ決まっていなかったけど、卒業したら、寮は出ないといけないし、アパートを借りてここで生活していくのも無理がある。奨学金のこともあるし、勉強して教員採用試験に合格するしか道はないと思った。大学に行かせて貰っただけでも、感謝・感激・雨・嵐である。私は早く母の役に立ちたかった。

 A県を離れる日、後輩がお弁当を作ってくれた。帰りたくない気持ちに拍車がかかり、どうしてもその日の内に帰ることができなかった。夜、母から罵倒の電話があった。とにかく早く帰ってこいとのお達しである。何か御馳走を用意してくれていたのかもしれないという思いがよぎった。

 圭吾とは昨日のうちにお別れをした。駅で別れると取り乱してしまいそうだったからだ。今日、帰れなかったことは電話で話した。

 次の日、私の乗る時間に合わせて研究室の同期が、まげわっぱのお土産を持って見送りに来てくれた。

びっくりした。電車の時間も教えてないのに。4年間迷惑ばかり掛けたのに。実は、圭吾も1時間ぐらい前から来てくれていて、二人の今後の話をしていた。スマホを買うことで話がついた。でも、お金がないから直ぐには買えないかなとも話していた。同期の友達の見送りは全くのサプライズでちょっと慌てたが、圭吾は素知らぬ顔でフェイドアウトしてくれたので事なきを得た。電車が出発した後、圭吾はどうしたかなと考えていたら、車両のドアが開いて、彼が入ってきた。びっくりして、

「どうしたの?」

と聞くと、

「ん、少し送って行こうかな。」

「ありがとう。どこまで行く?」

「ん~I駅まで、かな。」

「え~ほとんど実家じゃない。」

「実家に帰ったら、仕事どうするの?」

「取り合えず、目標は教員採用試験に受かって、先生になることだから、8月までは勉強頑張るね。ちゃんと勉強すれば、受かる自信はあるから安心して。そのあとは、家庭教師とか学校の講師をやる。」

「圭吾は、何になりたいの?高校はどこを目指してるの?」

「ん~、今考えてる所だから、ちょっと待ってね。父に許可ももらわないといけないし。決まったらちゃんと話すよ。辛抱してね。」

 彼は私を少し子ども扱いする。何歳か分かっているのかしら。まあ、私は童顔なので、二人でいると同い年ぐらいに見える。そして、私だけが、年の差を気にしている。これが、26歳と35歳なら気にもならないだろうに。冷静に考えれば年齢で決まることなど、年功序列ぐらいじゃないだろうか。

 特急のシート席に彼が窓側で私が通路側、彼は車窓の景色に見入っていた。私はそーっと彼の指に自分の指を絡めた。彼が、珍しいことするなという目で、一瞬私を見た。私は明後日の方を見て胡麻化した。

 私が乗り換えるI駅まで、彼は一緒に来てくれた。彼の帰りの電車までは随分時間がある。私の方は、10分程度だ。駅の椅子に腰かけて、少しの間、手を繋いでいたが、決心して立ち上がった。

「それじゃあ、行くね。電話は9時過ぎにお願いします。スマホを買ったら直ぐ連絡する。」

「体に気を付けて。試験頑張って。」

「圭吾も、お父さんと話し合ったら連絡頂戴!」

別れ難くて、心がちぎれそうだった。咄嗟に、お互いのコートを掴んで引き寄せ、むさぼるようにキスをした。

 普通列車に乗り換えて、座席に座った途端、涙が後から後から溢れだし、しまいには嗚咽も出そうになって、正直困った。荷物の中からタオルを取り出し、洗面所で顔を洗うと少し落ち着いた。

「これで青春も終りかなと呟いた…」

大阪で生まれた女みたいな気持ちに包まれていた。しかし、青春は終わらなかったし、死ぬまで日々は続く。

 

 実家に帰ると母は、車の免許を取るよう私に進めた。母は車の免許を持っておらず、いろいろと苦労している様子を見てきた私は、直ぐに教習を受け始めた。1日2時間程度の教習を受け、2か月後無事免許を取った。6月から中学校の講師をしてほしいと教育委員会から連絡があり、断ると採用試験に受からないのだろうか、それとも採用試験の勉強に集中したほうがいいのか悩んだが、お金も欲しいし、講師をすることにした。

初めての講師生活はなかなか刺激的だった。1学年8クラス、私は3年に配属され、副担任と言う立場だった。前の先生が編み物クラブとテニス部の顧問だったので引き継いだ。しかし、部活は教師の労働時間に組まれてないし、授業の準備をしていると帰宅時間になるので、ほとんど参加することができなかった。編み物は洋裁に比べ苦手だったが、教える立場なのでそんなことも言っておられず、編み物の本を買いあさり、通勤時にセーターを編むことにした。編み物の良い所は、狭い空間でできることだ。朝と帰り合わせて1時間ぐらい編むことができるので、2か月ほどで仕上げることができた。

 3年生の女子はパジャマ制作の真っ最中で毎時間、毎時間ミシンを壊してくれるので、大抵のミシンは直せるようになった。その学校は「男女相互乗り入れ」と言って男子も女子も家庭科と技術を学習できるカリキュラムになっていて、1年男子は1学期の間、調理の授業を受けることになっていた。男子生徒は調理には大変意欲的で、活気のある授業になった。家庭科の授業は実習だと2時間必要だが、座学で2時間行うのは、大変だった。例えば保育など。人生経験が少ない私にとっては、かなり大変で、前日夜中まで予習しても、冷や汗を流しながら授業を行っていた。

 なんだかんだで1学期は終了したが、3年生の副担と言うことで夏休みも入試関連の仕事で休みがもらえず、結局採用試験前日まで忙しかった。お陰でその年も採用試験には受からず、来年は、採用試験が終わるまでは試験勉強にいそしもうと決意した。

 夏休みの間に、圭吾に会いに行った。講師をして最初の給料でスマホを購入したので、それからは毎日9時に電話をしていた。週一ぐらいでオンライン電話をしていたので、圭吾の顔の変化は分かっていたが、会ってみたら、身長が5センチ位伸びていた。4か月でこんなに伸びるんだと改めて成長期の凄さを実感した。進学についてはまだお父さんの了解が得られていないということで教えてはくれなかったが、久し振りに会って、圭吾が私の心のよりどころになっていることに気付いた。彼と一緒の時が、一番自然体でいられる。A県に3日滞在して、二人で映画三昧した。

 2学期は運動会でマスコット(青龍とか白虎などのマスコットキャラクター)の看板を描く生徒の監督係を命じられた。私は、大体において生徒の能力を信じているので、マスコットを何にするかは100%彼らが決めるのを待つだけである。

 で、ちょっともめた。

 生徒たちが決めたのは、「うる星やつらの」ラムちゃんだった。黄組のキャラクターとして、私はピッタリだと思っていたが、年配の男の先生からクレームがついた。曰く、

「露出が多い。」

「はあ?確かにラムちゃんは露出が多いけど、健康的で健全で、若者は誰も嫌らしい目で見たりしませんよ。あなたが嫌らしいだけなんじゃないですか。」

「それにクレームつけるんなら、もっと早い段階でしろよ。生徒たちの努力が無駄になるだろうが。」

と言いたかったけど、新卒の講師が年配の先生にそんなこと言えるわけない。私が任された仕事にクレームをつけるということは、私の価値観を否定することであり、私と生徒のやる気を削ぐものである。それらを踏まえた上でのクレームだったのか。否、講師の女が気に入らなかっただけだろう。

 私は仲良くしている先生や学年主任などをマスコットを描いている部屋に招きマスコットを見てもらった。誰も露出が多いとか不愉快な思いをするなどと言う人はいなかった。結局、クレームは取り下げられた。

 私の講師生活は10月末日で終わった。12月から友達に頼まれて家庭教師をすることになった。中学3年生と中学1年生と小学1年生の3人を見てほしいと言われた。受験生は責任が重いけど、その子は真面目で素直な子だった。無事希望の高校に入学したのに2年生の夏休み中に自殺した。もっと話を聞いてあげられるような家庭教師だったら何かしら助けになれたのかなと悔やんでいたら、友人にそれは思い上がりだと言われた。確かに、人の生き死にに係わることは他人の力が及ぶようなことではないのかもしれない。

 私は来年こそ採用試験合格するぞと心に誓った。

 採用試験は、大学受験のようにペーパーテスト。課題曲から自分の好きな曲を選んで弾くオルガンテスト。25メートルプールを泳ぐ水泳テスト。鉄棒で逆上がりをする逆上がりテスト。グループでテーマに沿って話し合うグループ面接があった。私が一番苦手としていたのは、オルガンである。それ以外はそれほど問題なくクリアできるのだが、オルガンだけは一朝一夕にできるものではなかった。オルガンは何とかパスしたものの、ギリギリである。

 幸いその年の採用試験に合格し、翌年、正規の教諭となった。


 3回目の採用試験の前に、圭吾から話があるから会って欲しいと連絡があったのでA県まで会いに行った。大学を卒業して彼が実家近くまで送ってくれた日から、もう何度も通った道だ。昔はもっと遠かった気がしていたが、最近は近く感じる。彼とは殆ど毎晩電話しているが自分ながら良く話すことがあるものだと思う。圭吾は中3になっていた。初めは、私が泊まるホテルの近くのカフェで話すつもりだったが、大事な話だから玲子さんの部屋で話したいと言われ、受験生だし、別れ話かなと覚悟した。しかし、全然違っていた。

「玲子さん、初めてのデートの時に、僕はこの人と一生共に生きて行こうと思ったんだ。あれからその気持ちは1ミリも変わっていない。照れるから、今まで口にしなかったけど、でも玲子さんには伝わっているという自信があった。玲子さんには伝わっていたよね。」

私は、彼の顔をガン見しながら頷いた。(てめえ、そんな大事なことちゃんと言えよな、そりゃあ圭吾の気持ちは伝わっていたけどな。)

 彼はおもむろにポケットから5センチ四方ぐらいの箱を取り出し、蓋をパカッと開けて言った。

「玲子さん、僕と結婚してください。」

「ちょっと待って!圭吾まだ15歳でしょ。法的に無理じゃない。」

「勿論、今すぐは無理だけど。僕は東大の医学部に入りたいんだ。そして、産婦人科で生理痛の緩和ケアの研究をしたいと思っている。東大にはその道の有名な先生がいらっしゃるから是非その先生に指導を受けたい。母が子宮頸がんで亡くなったことがきっかけで婦人科に興味を持ったけど、婦人科系の勉強をしていると生理痛で苦しんでる女性が沢山いることを知り、力になれないかなと思ったんだ。玲子さんも生理痛大変なんじゃない?生理休暇は取れている?やっぱり言い出しにくいでしょ。働く女性の80パーセントが生理痛に苦しんでいるけどその内生理休暇を取っている人は0.9パーセントと言われている。なかなかデリケートな問題なんだと思う。」

「ドラゴン桜で『あんなところに入れるのはバケモンだ』と言われた東大の医学部だけど、ちゃんと作戦を立てて取り組めば、僕も合格できると思っているんだ。合格の可能性を高めるため、東京にある東大を目指すための進学校に入学することにした。今年はその高校に入学するため猛勉強するつもり。勿論、父の許可はもらったんだ。お金も掛かるからね。」

そこまで一気に言うともう一度、

「玲子さん、僕と結婚してください。僕は玲子さんのことが好きで好きで仕方がないんだ。本当は今すぐ結婚したいぐらいだけど、それは無理があるし、だから結婚の約束だけでもしておきたいんだ。」

とすがるような眼で見つめた。指輪を見ると、中央に大きめのダイアモンド、左右に小粒なアクアマリンが一つずつ配置されていて、とても美しい。

「どのみち、すぐに結婚できないんだから、今、婚約する必要性がわからないな。」

私がそう言っている間の圭吾の表情を見ていて、彼が今婚約したい理由が分かった。彼は東京へ行ったら一人っきりで入試と戦わなくてはならない。分かってはいるけど、少しビビってもいたんだと思った。私と婚約することで援護射撃をしてほしかったのだろう。

「はい、私でよければ。よろしくお願いいたします。」

私は結局そう答えた。彼は椅子から飛び上がって喜び、私を抱きしめて顔中にキスをした。私は、暫くキスされたままフリーズしていた。A県を離れた時、I駅で、離れ離れになる辛さで初めて抱きしめ合ってキスをした。あれから丸1年。まさか婚約することになるとは思っていなかった。そして、圭吾がこんなに感情を表したのは初めてのことだ。意外なことばかりで脳が情報を処理しきれなくなっていたのだと思う。徐々に現実感が戻ってきた。今、プロポーズされてハイと返事しちゃったよね。彼のことは大好きだけど、中三の男子と婚約してもいいのかな?いや、多分犯罪。

「指輪どうしたの?」

「小学校の時からずっと貯めてたお金で買ったんだ。指輪は、従妹のお姉さんに選んで貰った。大きさも分からなかったから、取り替えて貰えるよう契約したから大丈夫だよ。」

大きさを見るために指輪を左手の薬指に着けてもらった。大きさは丁度良かった。デザインも素敵だった。そのまま暫く着けていることにした。婚約の実感が湧いてくるまで。婚約の実感はなかなか湧いてくるものではなかったが、指を伸ばして指輪を見ていると、自然とにやけて来て、そんな私を見て彼もにやけていた。

「こんなに若くして結婚の約束なんかして、この先もっと素敵な子が現れたら後悔するんじゃないの?」

私は、「はい。」と返事をしたくせにそんなことを聞いた。圭吾は、

「素敵な子は沢山いるかも知れないけど、玲子さんはひとりしかいないから絶対後悔しないよ。」

私は彼の甘い言葉にちょっとクラッとした。彼には勝てないな。私も肝を据えるしかなさそうだ。圭吾より素敵な人は他にいない。それに、圭吾との物語は、もう始まってしまっているのだから。

 圭吾にプロポーズされるまで、実は私は結婚願望が無く、社会に出て仕事をして自立することこそが人間としてあるべき姿だと思っていた。それに、恋愛にもあまり興味がもてなかった。それなのにこんなことになるなんて・・・三つ目の坂、まさかだね。

 圭吾は東京の進学校に無事入学した。その学校には寮があり東京都以外からの学生が大勢いた。ずっと少人数の家族だった圭吾には嬉しい驚きだったようだ。落ち着いて学習できる環境かどうか、かなり心配したけど、圭吾には合っていたようで、成績がぐんぐん伸びてきたのだ。


 連日の猛暑にうんざりしていたが、流石は軽井沢、涼しい!今年の夏休みは、圭吾と軽井沢で待ち合わせだ。圭吾は高校2年生になっていた。私は、圭吾の到着時刻より2時間ほど前にホテルに到着していた。

 A県で大学時代を過ごした私は、生まれ育ったT県に帰って就職し、給料を貰い始めていたので、今日は、民宿でなくホテルを予約した。圭吾が中学生の間は私がA県まで会いに行ったり、彼と私の実家のある町の中間地点で待ち合せたりしていた。離れているとなおさら会いたくなるのはどうしてだろう。新幹線が通って、東京まで時間がかからなくなって、昨年は東京まで2回ほど行った。

 しかし、東京は人が多いのに、道路が狭く、あっちを向いてもこっちを見てもビルばかりで、呼吸困難に陥りそうだった。生まれてから騒音と言えば鳥のさえずりとカエルの鳴き声だけのような田舎で育った私にとっては、身体的にも精神的にもかなり過酷と言っていい。そして、やはり遠距離恋愛は心が削られる。スマホで顔をみながら話せるようになったとはいえ、触れることはできない。電話するたび辛くなる。それでも次の日にはまた声が聞きたくなるし、会いたくなる。しかし、来年は大学受験の年。私も気を引き締めて、圭吾の邪魔になるようなことはやめよう。

 そろそろ圭吾が到着する時刻なので、軽井沢駅まで迎えに行った。半年ぶりに会う彼は、また身長が伸びていた。そしてその表情は陰りを帯びていた。思春期だからあたり前と言えばあたり前だけど、何かあったのかな。子どもっぽい笑顔は健在だけど。荷物をホテルに置いて、ホテルの周辺を散策することにした。彼から見た私にも変化はあるのだろうか。白樺が生い茂るホテルの裏庭の散策路に向かった。白樺の白い木肌と木漏れ日の揺れる様子が美しい。彼と手を繋いで歩いていたら不意に涙がこぼれ、私は立ち止まった。このところ私は情緒不安定だ。彼は理由も聞かず抱きしめてくれた。彼の腕に次第に力が入る。お互い求めあっているのだろうか。不謹慎な思いが胸に広がる。白樺の木漏れ日がさやさや揺れても、この思いは消えない。どうしよう。どうしたらいいの?私はもやもやした気持ちをいつまでも心の中に閉じ込めておくのが物凄く苦手だ。でも、口に出してしまったら、取り返しがつかなくなるかも。そんな邪心を胸に1時間以上も歩いていた。

 いつの間にか、辺りが桃色に色づき薄い水色の空とさわやかなコントラストを見せていた。いつも自然は私の心をフラットにしてくれる。いつだって「どうしよう」ではなく、「どうしたいのか」が大事。部屋に戻って、いつもの私を取り戻そう。そして、私がどうしたいと思っているのかを彼に話そう。

 部屋に入った途端、私は後ろから彼に腕を回した。また身長が伸びた彼の広い背中に顔をうずめると、

「玲子さん、どうしたの?何か心配事?」

と圭吾が聞いた。そして、大きな手で私の手を包んで、私の目を覗き込んだ。

「さっきから、なんとなく変だけど。」

「私、欲望に負けそうなの。あなたと愛し合いたくて仕方がないの。」

彼は左の頬にそっとキスすると、

「したいことは我慢しないでしたほうがいいよ。」

そう言うと私をお姫様抱っこしてベッドまで運んだ。

「ちょちょちょっとまって、話したいことがあるの。」

私は冷蔵庫から水を出して、彼にも勧めた。一気にペットボトルの水を三分の一位飲み干して、漸くその言葉を口にした。

「圭吾、経験はある?私は無いんだ。」

「僕も無いよ。玲子さんが初めての人で凄くよかった。」

「じゃあ、初めて同士でして、そのことで頭がいっぱいになって、受験の妨げにならないかしら。」

「確かに、毎日したくなるかも。でも大丈夫、玲子さんが我慢していると思えば、僕も楽勝に我慢できる。」

「何そのふざけた理由。」

と他の誰かだったら、殴り合いの喧嘩になりそうなところも、圭吾が相手だと思わず噴き出してしまい、喧嘩にはならない。

「じゃあ、さっそくしたいことをしよう。」

初めて同士でそう簡単には行かなかったけど、段々分かってきた。それから私たちは沢山愛し合った。私は時々『これ犯罪だよね。』と自分に問いただしながら、それでも彼と愛し合うことを止められなかった。こんなに圭吾を愛していたことを今更ながら思い知らされた。郷ひろみの歌に「会えない時間が愛育てるのさ」という一節があるが、本当にその通りだと実感した。圭吾の陰りの理由も私と同じだったようだ。私は犯罪を犯したのかもしれないけれど、圭吾のためなら喜んで捕まる。


 それから1年半後、遂に、東大の合格発表が行われる。インターネットでの発表も同時に行われることになっているが、こんな機会は二度とないだろうから、私たちは現場に行くことにした。在校生による合格者の胴上げが有名だが、圭吾が受験してくれたから、発表に立ち会うことができる。

 私は前日から東大近くのホテルに泊まり込んだ。圭吾とお父さんも一緒だ。明日正午に発表予定。ここから大学までは歩いて20分ぐらいだそうだ。夕食の時に、何時にホテルを出発するか決めよう。圭吾のお父さんには、圭吾の高校の卒業式に再びお会いして、圭吾のことについて話をした。私たちは圭吾が合格しないとは誰も考えていなかった。今更じたばたしても意味のないことである。明日の合格祝いを夢見て眠りについた。翌朝6時ごろ目が覚めた。顔を洗って、歯磨きをしてから圭吾起きてるかなと思った。ホテルの周りを散歩しようと思って電話を掛けた。少し早いかなと思ったけど、きっと圭吾は起きている。確信があった。

「ごめん、まだ寝てた?」

「イヤ、30分前から起きてたよ。朝食は?」

「その前に一緒に散歩行かない?」

「いいね。10分後に正面玄関で。」

まだ化粧をしていなかった私は、待ち合わせ時間を5分延してもらって、15分後に圭吾におはようといった。ホテルの前庭を散策して、植木やちらほらと咲いている花の名前を調べたりしていたら、7時半になってしまったので慌ててレストランに向かった。

「お父さんは朝食どうするの?」

「昨日の夜、遅くまで一人で飲んでたから食べないんじゃないかな。」

「でも、一応お誘いしてみて。」

「はいはい。」

「もうちょっと寝てるって。」

分かりました。と言って空いているテーブルに向かった。椅子に座ってメニューを見ようとしたがどうやらバイキングらしい。私が先に食事を取りにいくことにした。クロワッサンとおかずを4種類ぐらいとそれに牛乳を持って席に帰ってきた。私は食べるのが遅いので席に着くと「お先に」と言って食べ始めた。暫くして、彼がお盆から溢れそうな食料を持って帰ってきた。それから飲み物を取りに行った。彼は中々の大食漢であるが、今のところ体型はやせ型だ。彼は本当にモリモリパクパク美味しそうに食べるので私も食事がおいしくなって嬉しい。しかし、つられて食べ過ぎて太ってしまわないか心配だ。

 荷物の整理をしている間に待ち合わせの11時になった。お父さんは明日仕事があるため、今夜新幹線でA県に戻らなくてはいけないそうで、フロントに荷物を預けていた。

 私たちは大学まで歩いていくことにしていた。大学に近づくにつれどんどん人が多くなってきた。迷子にならないように、私は圭吾と腕を組んだ。お父さんとも腕を組んだ方がいいかなと思ったが、ちょっと恥ずかしくてやめた。昨日や今日みたいに圭吾と一緒にいる日は、婚約指輪を着けて婚約者気分を高めるようにしている。職場では花壇や畑仕事もあるので着けないことにしているから、うっかりすると婚約者がいることも忘れそうになる。おかげで仕事をしている間は恋の浮き沈みも遠距離の辛さも感じることがなくて快適だ。その代わり圭吾と一緒にいるときはベタベタいちゃいちゃバカップルになる。照れるとか恥ずかしいとかそう言う気持ちは実家の押し入れに隠して来ることにしているから。圭吾はホントに飄々としていて感情が読めない。ので、読まないことにしている。大体のことは私発信で行い、彼が気を悪くすることはない。(と思っている。)

 合格者発表板の前まで来たら、ちょうど職員の方々が目隠ししてあった紙をはぎ取った。合格者の人数が多すぎて、私は何処を見ればいいかも分からなかったが、圭吾が

「玲子さんあそこ!受かったよ!」

いつもとは違った弾んだ声でいった。私もお父さんも心底ホッとして、

「よかった!」

と皆でだきあった。

 圭吾はひとしきり、自分の受験番号を撮影したり、周りの様子を撮ったり、私と二人の写真やお父さんとの写真を撮ったりした後、漸く気が済んだのか、

「ホテルに戻って合格祝いをしよう!」

と言い、私の手を掬い取るようにしてつないだ。私はお父さんが人混みに紛れてしまわないか心配だったけど、大丈夫そうだったから、気持ちを圭吾に集中した。繋いでる指に力が入って痛いぐらいだったけど体全体で喜んでいるのがよく分かった。

 三人でホテルのレストランで昼食を摂った。三人そろうのは今日が最後なので簡単にお祝いをすることにした。豪華なものは予約が必要だったから、簡単なコースランチにして、シャンパンを頼んだ。肝心の主役はまだアルコールが飲めないが、私とお父さんで美味しくいただいた。お父さんは夕方の新幹線で帰る予定だったので、あまりゆっくりはできなかったが、幸せな時間だった。お父さんがいる間に圭吾はマンションや生活費のことを話していた。これから少なくとも6年間は払い続けなければいけないお金だ。他に学費もある。医学部はよくお金がかかると聞くがいくら位かかるのかな。私の場合は、教員になれば返さなくてもいい奨学金を貰い、学費は母子家庭のため免除されていたので、親からの仕送りはゼロだったが、教育実習に着ていく服を買ってもらったし、入学したときに支度金として20万円貰ってきたから、やはりそれなりに親には負担を掛けたと思っていた。

 お父さんが、コーヒーを飲み終えると、

「そろそろ駅に行くよ。色々決めなきゃいけないこともあるから、今月中に一度帰ってきなさい。」

そう言うと席を立って荷物を取りに向かった。

「送ってくるよ。」

圭吾が後を追いかけた。私はひとりぼっちになったが圭吾の合格を噛みしめていた。出会った日のことから二人で映画デートばっかりしていた頃、卒業と遠距離恋愛、彼からの結婚の申し込み、そして長い遠距離恋愛。東京までの新幹線が開通してホント良かった。そして、軽井沢。犯罪を犯してしまった私。彼も今は18歳になったので、罪悪感を持たずに愛し合える。     


 圭吾がお父さんの見送りを終えて、6時ごろホテルに帰ってきた。圭吾は真面目な顔で、

「玲子さん長い間辛い思いをさせたね。経済的にも大変だったと思う。僕は、玲子さんと婚約したお陰でどれだけ励まされたか分からない。あの時婚約してもらったおかげで、僕を愛して、心配して、応援してくれている女性がこの世にいると思うだけで、受験勉強を頑張ることが出来たし、入試に受かることができたんだ。本当は今すぐ結婚したいけど、最低6年、僕はここを離れられないし、収入もない。他の学部だったら、バイトをすることも可能だったかもしれないけど、医学部はその時間がとれないと思うんだ。」

「圭吾、分かってるから。あなたにバイトをしてもらおうとは全く思ってないから。せっかく東大医学部に入学できたんだから、今日、受験に落ちて悔しい思いをした人の分も頑張ってちゃんと勉強して立派なお医者さんになってね。」

 微笑むつもりだったのに、涙がこぼれた。13歳だった圭吾が遂に東大生になったのだ。足掛け6年。22歳だった私は、もうすぐ28歳になる。嬉しいだけでは済まない様々な感情がぶつかり合って、ただただ涙が溢れた。こんな日に泣いちゃいけないのに。気付いた時には彼はもう私をぎゆっと抱きしめてくれていた。

「泣かせてごめんね。」

「泣いてごめんね。ただ…ずっと一緒に居たかった。あなたが成長する様子を毎日見ていたかった。」

そして、二人で号泣した。暫く泣いたら気持ちがすっきりした。彼もそんな顔をしていた。それから圭吾はこう言った。

「こっちで一緒に暮らす?」

そうできたらどんなに幸せだろう。でも、それは出来ない。

「ううん、ただ私は母に婚約者として挨拶してほしいの。出来ればお父様と一緒に。こそこそ会うことに、うんざりしちゃった。」

「勿論、お母さんにお会いしたいな。学校が始まって、軌道に乗ったら、いつお伺いできるか予定が立つと思うから、一か月ぐらいまってて。お願いします。」

「わかったわ。」

そう言って思いっきり抱きついて、派手な音を立ててキスした。

「さあ、食事にしましょう。」



 あれから2年。

「こっちで一緒に暮らす?」

と言った圭吾の言葉を私への思いやりと受け止めていたが、よくよく考えると圭吾自身が一緒に暮らしたかったんじゃないだろうかと思い始めてきた。勿論無理なことは分かっていて、私に一蹴される前提で。それまでの過酷な受験勉強で張りつめていた糸が緩んだのかもしれない。弱音も吐かず一人で頑張ってきたのだ。あの時、彼の髪をくちゃくちゃにして思いっきり甘やかしてあげればよかった。今日は圭吾の成人式。やっと一緒に酒が飲める。


 圭吾は約束通り、去年のゴールデンウイークにお父さんと私の実家に来て、母に話をしてくれた。それだけでなく結納もしてくれた。多分お父さんにきちんとしなさいと言われたのだろう。そんなことは聞いてなかったので、こちらは何も用意してなかった。

 お父さんが帰った後、午後から圭吾の成人式用のスーツを買いに行った。本来ならば着物を仕立てて返すべきところだが、今は着物を着ることもない。それで、成人式があるじゃないかと思いついて、

「成人式羽織袴にする?」

と圭吾に聞いたが、

「嫌、それはない。」

といわれたのでそれじゃあ成人式用のスーツはどうかと思ったのだ。

「入学式には何を着たんだっけ。」

圭吾の入学式の頃は、私も仕事が忙しく見に行くことができなかったのだ。

「高校の制服、ネクタイだけ替えて。」

ということだったので結納返しはスーツにすることにした。

 今の季節だと冬物のスーツが置いてない所も多いと思い、スマホで紳士服の店を検索し、オールシーズンの商品を豊富に揃えています。というお店を見つけた。老舗の紳士服店で在庫もあるという。私は紳士服なんて買ったことないから圭吾に成人式に着たいと思うものを選んで、と言った。温かくて派手目なのがいいよ、と。圭吾はなかなか素敵なのを選んだ。ネクタイはど派手なものにしてチーフと色を合わせた。靴とバックもそろえて買うつもりだったけど、バックは要らないんじゃない。というので、冬用のコートは?と聞くと流行りもあるし、成人式前になったら自分で買うよ。とのこと。一応目的は達成したので帰ろうと思ったが裾直しがあった。今日中に持ち帰りたいので今すぐしてもらえると助かるんですが。と言って、すぐに直してもらえることになった。1時間ほどかかるそうだ。圭吾に着せてみたい服がいっぱいあって、つい着たところを想像していたら、1時間なんてあっという間だった。

 ゴールデンウイークの間、圭吾がこっちにいるということで、明日から二人で近くの温泉に行くことにした。食事のことやなんやかんや母が気を使うだろうと思ったからだ。勿論、二人で居たかったからもある。本当は海辺の民宿の方が安いし、蟹も食べられるのだが、いかんせん以前その校区で働いていたことがあり、ちょっとした騒ぎになるかもしれないので、そこはやめた。

 次の日から2日ほど温泉でゆっくりすごした。トロッコにも乗って自分でお風呂が作れる河原にも行った。新緑が美しかった。明日、彼が帰ると思うと心がつぶれそうだった。また、暫く会えないのだ。


「こっちで一緒に暮らす?」

という言葉が何度も蘇っていた。すぐに否定したくせに、一緒に暮らせたらどんなに幸せだろうと思ってしまう。そのためには、私は仕事を辞めなくてはいけない。母を一人残して行くのはとても心配だ。収入も無くなる。東京で講師として働くという選択肢もあるが、どうも気が進まない。他にも塾の講師や家庭教師なら私でも出来そうだが、やはり東京で暮らすことに抵抗があるのかもしれない。彼と一緒に暮らすことと天秤にかけたとしても。


 圭吾の成人式の日、私もA県まで出かけた。というより冬休み中ずっとA県に滞在した。それも圭吾の家に。やはり私の実家とは寒さが違う。大学時代寮のお風呂が壊れて、暫く銭湯通いをしていたことがあるが、真冬の銭湯通いは鼻水が凍るし髪も一本一本凍るし大変だった。雪は相変わらずサラサラで横殴りに降っていた。お父さんが是非にとおっしゃったし、圭吾と2週間も一緒に暮らすなんて初めてだから楽しみ95%不安5%だったけど、お世話になることにした。圭吾には、私にしてほしいことがあったらはっきり言ってね、と念押しておいた。察するという能力は全て仕事に使っているので、プライベートで気を遣うのは止めている。

 食事は主に圭吾が作ってくれるので、私は味見や後片付けをした。洗濯や掃除は圭吾がササッとやってくれる。自分の分の洗濯だけは私がした。彼の家事能力の高さに感服した。買い物は一緒に行って荷物持ちをした。学生時代、料理上手な友人に付き合って市場に買い物に行ったことを思い出した。卒業してから7年、町の様子も変わってきている。学生だった4年間は色々なことがあって、ものすごく長い時間だったような気がする。卒業してからどんどん時間が加速しているようだ。圭吾と会えない時間が短くなるのはありがたい。

 成人式当日、私は持ってきていた訪問着を着た。勿論、近くの美容院を予約して。私は5時入りだったけど、本物の新成人が大勢いたし私が行ってからも沢山来た。私の着物はこの前の夏休みに呉服屋さんで、友人に見立ててもらったもので帯が素晴らしい。彼女はお茶をやっていて、着物を着る機会が多く、そのため着物を沢山持っているし、自分で着付けもできるし、着物に関する見識が広い。未婚の女性の最上位の着物が振袖でそれに対して既婚女性の最上位の着物は黒留袖、次が色留袖で、次は色無地だったかな。でその次が、既婚未婚問わず訪問着と呼ばれるものだ。訪問着は着物全体に模様が入っていてなかなか派手な着物で、振袖の次に華やかかもしれない。私が訪問着を着ることにしたのは、圭吾を喜ばせたかったからと、新成人本人でもないのに、振袖を着るのは憚られたからだ。自分のお気に入りの着物を着ると、テンション爆上がりで、アラサーの私も会場で臆することなく居られた。圭吾はあのスーツに光沢のあるダークグレーのシャツを合わせ、あの時一緒に買った派手なネクタイと同じ色のチーフを胸に入れ、控えめに言っても最高だった。

 その日の晩は3人でべろべろに酔っぱらった。

 その冬休みずっと圭吾と居られてとても幸せだった。

でも、冬休みが終わればまた遠距離である。

もううんざりだった。ただの婚約者でいることにも遠距離で居ることにも。そして、そのことを圭吾に打ち明けた。彼は、

「じゃあ一緒に暮らす?」

と言ったけど、

「住むところはどうするの?私が仕事を辞めたら収入がなくなるけど、お金は?何より私東京で暮らせるのかな。」

と自分の不安を圭吾にぶつけた。圭吾は、私を抱き寄せて、

「大丈夫。今住んでるマンションに一緒に住めばいい。一人でも二人でも家賃は同じだから、親父に今のまま払ってもらう。そして、最低4年間は親父から生活費を貸してもらう。出世払いでね。研修医を2年間しなければならないから、それをT県かA県で行えば玲子さんも安心できるだろ。取り合えず仕事を辞めて、一緒に暮らそう。東京で暮らすのが辛くなったら、実家に戻ればいいんだから。」

彼が私と一緒に暮らすことをずっと考えてくれていたことが良く分かる。15歳から親元も婚約者の元も離れて、ずっと一人で頑張ってきた彼は、いい加減家族と暮らしたいと考えているのかもしれない。この時私は、仕事を辞めることを決意していた。

 しかし、問題が一つある。私の母だ。働きづめに働いた母も私が就職し、家にお金を入れる事ができるようになって漸く仕事を辞める事が出来た。もしかしたら、教師になったことを私より喜んでいたのかもしれない。採用になった年、私が赴任していた学校の運動会を見に行きたいとさえ言ったのだ。私が恥ずかしいのでそれだけはなんとか止めさせたけれど、親の気持ちは親にならなければ分からない。

 私たちは、春になったら結婚することを決めた。そして、圭吾も一緒に私の実家へ行き、母と話してくれた。母は私が仕事を辞めることに兎に角反対した。東京へ行っても、講師をすれば今までと変わらない収入が得られるし、圭吾が医者になったら、安定した収入が見込めると言って何とか納得してもらった。お父さんにも色々頼みごとがあったし、二人でお願いに行った。

「あと4年我慢すればいいことなんですが、もう離れていることに我慢できなくなってしまって。最近は情緒不安定気味で、精神疾患を発症する恐れもあるので、発症する前に原因を取り除いた方がいいかと思いまして。」

ほとんど脅迫だ。

「それで、父さんにはお願いがあるんだ。家賃や学費それから生活費を今まで通り払ってもらいたいんだ。医者になって収入ができたら必ず返すから、お願いします。」

「それだったら、今までと同じじゃないか。生活費を少し上乗せして出してあげるよ。玲子さんも慣れない土地で働くのは大変だろうから。」

神様、仏様、お父様である。


 私たちは、その年の5月に結婚した。式は二人の思い出の軽井沢のホテルの教会で二人だけで行い、後日披露宴を会費制で3か所で行った。

 ウェディングドレスはとても気に入ったのが見つかったがレンタル料金が40万円だった。打ち合わせの時、二人で目玉を飛び出したまま、ウエディングプランナーの話を聞いていると、

「このドレス、レンタルですと1回40万円ですが、買取価格が意外にお安くて80万円なんです。高橋様は今後3か所で披露宴をなさると言うことですので、その時に同じもので良いと思われるのでしたら、このドレスはとてもお安いと思います。ただ、いろんなドレスを着てみたいと思っておられるのであれば、こちらでレンタルしていただければ全国何処でも配送無料、一週間以内に返品いただければOKですので、レンタルの良さもあると思います。」

今後のことを考えると少しでも節約しておきたいところである。しかし、一生に一度の晴れの日。けちけちしていていいのか。

「一度持ち帰って考えてみます。」

「よろしくお願いします。次回が最終打ち合わせとなりますので。」

 圭吾のマンションに戻ってから、二人で話し合った。

「圭吾、ドレスどうしようか。一回40万円は大きいよね。」

「玲子さんはどうしたいの。」

「それが決められないから困ってるのよ。」

「じゃあ、お母さんかお姉さんに相談してみたら。」

と言われ、母に相談しよう思い、電話してみた。結婚式や披露宴のことについては、大体のことを話してあったので、ドレスのことのみを相談した。

「80万円も違うからどっちにしようかと思って。」

「玲子のしたいようにしられ。結婚式2回せんがいろ。お金はお母さんが払ってやるからい。」

と思召したので甘えることにした。

 一週間後、式場で最後の打ち合わせをした。

 私は4か所すべて違うドレスを着ることにした。全部で160万円。元気で働けば1年足らずで稼げる。一生に一度の私の覚悟の証として、あえて違うドレスを着ることにした。母には、出してくれると言っていたお金を自分に使って欲しかった。私は、「そのお金で、お母さんの黒留買ってね。」

と言った。

 二人きりの軽井沢のホテルの結婚式は本当に素晴らしかった。私と圭吾は結婚式の前日にホテル入りして、結婚式を終えた後ハネムーンとして3日間宿泊することにした。参加者は、私と圭吾の二人きり。とにかく記念となる結婚式を目指した。ちょっと寂しかったけど、これからの人生を二人きりで築いて行く覚悟をする場としてはとても良かった。お互いが掛け替えのない存在だと素直に思えた。

 5月の末に全てが終わって、漸く二人の生活が始まった。私がまず慣れなければいけないのは、家に鍵を掛けることと、外出するとき鍵を持ち歩くことだった。


 圭吾が、

「行ってきま~す。」

と大きな声で家を出て行った。私はいつも、行ってらしゃいを言うのが間に合わない。玄関まで荷物を持って送るべきなのか、分からない。自分がされて嬉しいことはするように心がけているが、経験のないことは、マジで分からない。そういう時は「本人がどうして欲しいかを聞く」だったな。今日、圭吾が帰ったら、ちゃんと聞いてみよう。朝食の後片付けをしようとして台所へ行ったら、圭吾が作った自分用のお弁当が忘れてあった。どうしよう。まず圭吾にラインで連絡したが、既読にならない。今日は忙しくてお昼食べに行けないかもしれないから、お弁当を持っていこうと夕べ言ってたな。届けてやるか。そう思って、電話を掛けた。

「玲子さん良く気付いたね。ホントにありがとう。今すぐ持って来てくれると有難いんだけど。」

「分かった、届けます。」

大学に行って、圭吾に聞いた教室番号を言うと守衛のおじさんが親切に場所を教えてくれた。国立東京大学。腐っても鯛。日本の最高学府である。合格発表の時門をくぐったが、外で発表板を見ただけだった。中に入るのは初めてである。ちょっと緊張する。守衛さんに教えられた通りの建物に入って看板を目印に圭吾のいる教室を探していると、

「すごい素敵ね、圭吾。」

という声が聞こえてきた。声を頼りに教室を探していると、圭吾の後ろ姿が見えた。声を掛けようとしたら、圭吾の右側に張り付くように小柄な女性がいた。私は思わず隠れた。なんで隠れたりしたのだろう。何だか胸がドキドキする。隠れてないで早く圭吾にお弁当を渡さなきゃ。なのに足が言うことをきかない。見慣れてしまってうっかりしてたけど、圭吾ってイケメンだし、スタイルいいし、めちゃくちゃ優しいし、東大の医学生で将来有望だし、女の子の方がほっとかないよな。今まで受験のことで頭がいっぱいで友達の話を聞いたことがなかったことに気付いた。私も職場の話をしたことがなかった。もう、中学生じゃないんだもんな。と自分に言い聞かせて、漸く圭吾のいる教室の入口に立つことができた。

「圭吾、お弁当。」

精いっぱい虚勢を張って、見くびられないようにそう言った。圭吾と隣の女性は笑いながら振り返った。

「玲子さん、ありがとう。途中大丈夫だった?教室迷わなかった?」

「圭吾君の奥さんですか。私、圭吾君と同期の岬友梨奈といいます。圭吾君には、勉強教えてもらったり、実験手伝ってもらったりしてお世話になっています。」

「いつも、夫がお世話になっております。」

私はそう言いながら、本当に同期っていうだけの関係?と疑いの気持ちが芽生えていた。二人が笑いながら振り返ったことも気になった。

「圭吾君て、女性の気持ちに鈍そうだから、何かあったらいつでも相談に乗りますよ。そのうち女子会開きましょう。」

「ぜひ、お願いします。じゃあ圭吾、勉強頑張ってね。」

そう言って、教室を出ようとしたら、圭吾が左腕を差し出して、

「僕が門のところまでお送り致します。奥様。」

と言って送ってくれた。別れ際、圭吾が私の左耳にキスした。彼は耳にキスするのが好きだ。しかし、それすら何か胡麻化されているような気がして、わざと素っ気なく

「じゃあ。」

と言って家に帰った。家に帰ってからも、圭吾と岬さんのことがなんだか引っかかって、もやもやしていた。夕方帰ってきた圭吾に、ついツンケンしてしまった。こんなこと付き合ってから一度もなかったのに。自分が情けなくなった。きちんと圭吾から二人の関係を聞こう。

「圭吾、岬さんとはどれぐらい仲良しなの?教室で振り返った時、笑っていたのは何故?」

と聞いた。すると圭吾は嬉しそうに笑って、

「玲子さん、焼き餅やいてくれたの。初めてだね。何だか嬉しい。」

とニヤニヤ笑い続けている。もやもやしている自分が馬鹿らしくなった。漸く笑いの波が収まった圭吾が、

「友梨奈は高校からの同級生で、彼女には同級生の彼氏がいて、僕らの結婚に触発されて自分たちも結婚しようかなんて言ってる。二人とも大きな病院の跡継ぎだからどうしようか悩んではいたけど。

笑っていたのは、僕たちの結婚式の写真を見ていたからなんだ。幸せオーラが凄いって。奥様、焼き餅は収まりましたか?」

「焼き餅なんて焼いてません。」

 二週間ほどして、友梨奈さんから女子会の連絡があった、友梨奈さんの他に他の学部の人が二人参加するそうだ。どうしようか少し迷ったけど、こっちに友達もいないし、飲み会そのものが久し振りなので参加することにした。イタリアンレストラン風の居酒屋で、料理もワインもとても美味しかった。それに、私が知らない圭吾の一面を知ることができた。

「圭吾君は、高校に入学した時から『僕には中学生の時に結婚の約束をした婚約者がいるんだ。正義感が強くて真っすぐで凄く素敵な人。大好き過ぎて、中学生なのにプロポーズしちゃったんだ。』ってしょっちゅう言ってたから、覚えちゃったぐらいです。本当に素敵な方で中学生なのにプロポーズしたくなる気持ちも分かります。」

最後は年上に対しての気遣いだろう。まだ、打ち解けてはいないけど、そうなる可能性を秘めた飲み会だった。

 あれから1か月。私は何とか東京の暮らしに慣れてきた。スーパーやドラッグストアは近くにあるし、最寄り駅も徒歩5分圏内である。何より圭吾の学校が近いので、それだけで安心できる。車の運転ができないので時々ぶっ飛ばしたくなる。今度自動車をレンタルして、首都高を走ってみようかな。

 私は東京の教員採用試験を受けてみようと思い、コンビニに必要書類を提出しに行くところだ。正規採用じゃない方が仕事がきつくないだろうとは思ったが、母の気持ちを考えると試験を受けてみるのもありかなと思い、今年だけ受けてみることにした。勿論、試験勉強もしている。受けるからには受からないとね。家事は基本的に自分が得意なものをすることにしている。圭吾は家事全般が得意なので、家事全般。私が得意な家事は特にないので、特になしというわけにもいかないので、ごみ捨てとトイレ・お風呂掃除。ということにした。圭吾は、にやにやしながら、

「無理しなくていいよ。今まで一人でやってきたことだから。」

と言った。私は、何が何でも私がやる。と思った。


 採用試験は7月末に行われて、11月に内定が出る。私は運動不足で太りそうだったので、近くのスーパーでアルバイトをしていた。体を使う仕事もいいなと思って始めたバイトだったが、教員よりよっぽど頭を使う。食べ物ってこんなに沢山あるんだ。今までほんの一部しか食べてこなかった事が明白になった。

 11月になって内定通知が来た。信じられないことにA採用だった。ま、私が本気を出せばこんなものよ。圭吾に電話で内定のことを伝え、今夜は近くの居酒屋で祝杯を挙げようと誘った。時間を確認して、あとでねと電話を切った。

 約束の時間になったので居酒屋に行ったが、圭吾はまだ来ていなかった。今まで、彼に待たされたことがないので、違和感を覚えた。その時、テレビで臨時ニュースが流れた。この近くで電車が脱線事故を起こして大勢のけが人が出たというのだ。店を出て外に見に行くと線路の回りに消防車やら救急車やらパトカーが沢山集まっていた。その外側にはマスコミが群がっている。暫く見ていたが、どうしようもないので居酒屋に戻った。何もわからないのに心配しても仕方がないと思い、ビールを飲み始めた。しかし、心配な気持ちが湧き上がってくる。彼から連絡がないのはおかしい。事故にでも遭ったのなら私の所に連絡が来そうなものだが・・・何だかモヤモヤしたまま、さんまの塩焼きと冷ややっこ、チーズの包み上げを頼んだ。頼んでからタンパク質ばかりだったことに気が付いて、ポテトサラダも頼んだ。その後、生ビールとレモンチューハイを2杯頼んで飲み終えたが、まだ彼は来ない。連絡もない。しかたがないので家に帰って、お風呂に入って寝ようとしていたら、圭吾が帰ってきた。

 それも血だらけで。

「圭吾!どうしたの。」

「直ぐ近くで電車の脱線事故があって、医学部の3年以上が駆り出されたんだ。国家試験に受かっていないから医療行為は行うなとの命令だったけど、あんな惨状をみたら何もしないでは居られないよ。けが人は全員運ばれたから、帰ってきた。連絡できなくてごめん。」

「あなたが無事で良かった。何かあったのかと思った。」 

「心配させたね。」

「お腹空いてない?雑炊なら作れるけど。食べる?」

「じゃあ、お風呂に入ってからいただくよ。」

彼がドライヤーを使っている音がする。後は溶き卵を入れるだけだ。                                        

「はい、雑炊。」

「わあ、美味しそう。」 

彼は一口食べて、

「え、何これ。すっごく美味しいんですけど。」

と言ったきりすごい勢いで食べている。

「私の得意料理。沢山作ったから、いっぱい食べて。」

私の言葉が終わる前に、もうお代わりしていた。と思ったらもう鍋が空っぽになっていた。あまりの速さに呆れていたら、

「だって、玲子さんのこんなおいしい料理初めて食べたよ。」

むむむ。

                                          〈了〉





 

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