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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

王子に愛されない侯爵令嬢は、千年に一人の大魔法使いに溺愛されていたようです

作者: 玖遠

体内に秘めた魔力が枯れると、人は干からびて死ぬ。

魔法陣の上で横たわる父の手足は、枯れ枝のように細く、骨と皮だけになっていた。

その腕はつい昨日まで、双子の私と兄を同時に持ち上げてくれるほどに力強かったというのに。


「無理やり抽出すると、すぐに蒸発しちゃうのね」


女の冷淡な声が聞こえた。

父の亡骸のそばで声も出せず呆然とすることしかできなかった私と兄は、同時に、声のする方を振り返った。


仮面とローブを身につけた宮廷魔法使いを従えた王妃が、期待外れだという顔をしてこちらを見下ろしている。

このときたったの5歳であった私たちは、王家という強大な権力を前にして、何もすることができなかった。


◇◇◇


次に王家の人間に出会ったのは、3年後のことだった。

祖父の元で育てられた私たちは、ある日ピクニックに出かけたとき、湖のほとりで女神の祝福を受けた。


「良い色の魔力してるわね〜ふふ、気に入っちゃった。私の魔力も分けてあげる」


女神は気まぐれだった。

それからしばらくして、膨大な魔力量を検知したとして、私と兄は王家に召集された。

豪華な椅子に座り、鳥の羽がふんだんにあしらわれた扇子を優雅に仰ぎながらこちらを見下ろす王妃の冷酷な瞳と、その傍らに立ち、王妃のドレスの袖を掴みながらこちらを睨みつける王子の顔を、今でも忘れることはない。


「あぁ……あの女のところの双子ね。婿がすごい魔力だったから、このガキどもも覚醒したってことかしら」


あの女、とは私たちの母のことである。

王妃の妹で、百年に一人の魔法使いとの呼び声が高かった父と結婚し、私たちを産んですぐ、流行病で亡くなった。


「母上、宮廷魔法使いというのは、王家を主人としているのですか」

王子がよくわからない質問をした。

「そうよ」と王妃が答えた。

「じゃあ、この者たちを宮廷魔法使いにしましょう」

王子が言った。

「そうね」と王妃が答えた。


「魔法塔に暮らしてもらって、その能力で、私たちの生活を豊かにしてもらいましょう」


そうして、私と兄は祖父と暮らしていた屋敷から離れることになった。

王はずっと、王妃の隣に座り、興味のなさそうな顔をして頬杖をついていた。


◇◇◇


あれからさらに、いくつかの年月が過ぎた。

育ての親だった祖父は、老衰で亡くなった。

「この国の王家はもうだめだ」そう漏らしてしまった兄は、それが王家にバレて、殺された。


水をワインにする魔法。

暑い夏に、冷たい氷を生み出す魔法。

道端の石ころをダイヤや真珠に変える魔法。


王家に命じられるままに、くだらない欲を満たすだけの魔法を行使する日々。

「この国の王家はもうだめだ」私もそう思っている。

女神に愛されたこの身には、その気になればこの国を滅ぼせるくらいの魔力が秘められている。

しかし、この国の王家がいることで、幸せになる者もいることを、私は知っている。


だから私は、王家に刃向かうことなく、彼らの生活を満たすために魔法を使う。

——いくらこの胸の内が、憎悪に満ち溢れていようとも。




◇◆◇◆◇




フィオナ・サリンジャー侯爵令嬢は、アレックス・ギルモア王子の許嫁だ。二人は同い年で、貴族階級や財閥の子息令嬢が多く通う王立学園に通っている。


アレックス王子は「秀才」と称され、勉学も魔法学も優秀な成績を修めていた。プラチナブロンドの髪とサファイアブルーの瞳を持ち、氷のような冷たさを感じさせる怜悧な顔立ち。才貌両全の王子となると、男女問わず人気を得そうなものだが——しかし学園の生徒は皆、どこか怯えていた。


この国の王族は容赦がなかった。機嫌を損ねた相手は即座に切り捨てる。優秀な人材が意図せず不興を買ってしまい理不尽な末路をたどることも少なくなかった。貴族階級の者たちは皆利口なので、当たり障りのない態度でアレックスと接していた。それは婚約者のフィオナも同じで、二人が会話をするのはアレックスに話しかけられるときだけで、それすら滅多にあることではなかった。フィオナから話しかけても怒られることはないが、笑いかけてもらったこともない。些細なことから不興を買ってしまったらどうしようという怯えが勝り、いつしかフィオナから話しかけることはなくなっていた。アレックスもフィオナからの歩みよりは求めてはいないようで、その態度に苦言を呈することはなかった。


事務的な婚約関係、フィオナはそこに愛を感じたことは一度もない。

幼少期に婚約を結んで以来、月に一度の形式的なお茶会以外で、二人が逢うことはほとんどなかった。フィオナを婚約者に指名したのはアレックスだと父から聞いているが、その真偽はわからない。




◇◆◇◆◇




アレックス様の隣にはいつも、マリアさんという方がいます。

彼女は平民のため、苗字はありません。膨大な魔力と回復魔法の適正を認められ、今年からこの王立学園に特待生として入学されたとのことでした。


マリアさんは新入生、アレックス様と私は最終学年。当然クラスも異なるため学園生活のなかでの接点はほとんどありませんが、アレックス様は平民階級の彼女がいじめに遭わないよう、生徒会長として心を配っておられました——とはいっても特別なことはしておらず、食堂や廊下などで見かけたら声をかけ、「アレックス王子はこの者を気にかけている」ということをそれとなく周囲に知らせる程度でした。アレックス様は、ご自身の影響力と王家として国民に向けるべき優しさというものを十分に理解しておられます。


アレックス様をはじめ、王家の皆さまは玉座に君臨する者としての慈しみを臣下や国民に向けてくださります。しかしそれはあくまで「与えてやっているもの」であり、王家と我々のあいだには、絶対的な隔たりがありました。


王家の皆さまにとって、我々は花と同じです。

慈しみの目を向けてはくださりますが、棘を刺してきた花は切り落とされます。色褪せた花弁に興が削がれればその蕾は捨てられます。そのとき、花の痛みを思って涙を流すことはありません。


王家との接点が多い貴族階級や貴族と会話することの多い財閥出身の方たちは、王家の皆さまの内に秘められた冷酷さを知っています。しかし、平民のマリアさんは王族の為人を知らないため、アレックス様を恐れません。彼女にとって王族とは、「建国祭などで民衆の前に立ち、にこやかな笑顔で手を振る尊き人たち」なのです。


マリアさんは、「王子様」が気さくに話しかけてくれるのはアレックス様がご自分に好意を抱いているからなのだと思ってしまったようです。そのお気持ちはわかります。婚約者である私への態度よりも、マリアさんに対する態度の方が、柔らかなものでしたから。


◇◇◇


「……とはいえ、あまりに侮られた態度をとられるのは、いささか気分が悪いものですわ」


魔法学についての書物や呪文書ばかりが並ぶ資料室の中で、私は備えられた椅子に座り、テーブルに頬をくっつけて気を緩めた格好をしていた——今日はとても疲れることがあったのだ、許してほしい。

私の正面に座るローブ姿の青年は、呆れたように笑って、右手を上げて指を振った。資料室の奥の扉からティーカップとポットがお茶を注ぎながらふよふよと飛んできて、私の顔のすぐ前に着地する。ふわりと華やかな茶葉の香りが鼻をくすぐった。


アレックス様と同じ髪の色と、どこか似ている顔立ち。


彼は宮廷魔法使いの一人で、千年に一人の天才と呼ばれている。幼い頃に女神の祝福を受け、それにより魔法の才能が開花したという。年齢は私たちとそこまで変わらないが、何十人といる宮廷魔法使いの中でトップに君臨する存在だった。アレックス様の在学中は、王家の命令によりこの学園で魔法学の講師を勤めるらしい。


彼の肩に乗ったフクロウが口を開く。

『今日もお疲れのご様子で。よろしければお茶をどうぞ』

「ありがとうございます、先生」


このフクロウは、先生の魔法で生み出された幻獣である。先生はこの学園の中で声を発することはなく、代わりにこのフクロウが言葉を紡ぐ。先生の声が、アレックス様の耳に届くことがないように。女神の祝福を受けたときから、王家の人間と言葉を交わすことは禁忌になったという。曰く、『私が高貴な血とお近づきになることを、女神は嫉妬するから』と。


この資料室の奥には、先生の講師室がある。

授業がない時間、先生はいつもそこにいる。私はたまに資料室を訪れては、今のように先生に心労を吐露していた。


私が先生と交流するようになったのは、マリアさんが入学して3ヶ月ほどが経ち——マリアさんとアレックス様との距離がいささか近すぎるのではないかと囁かれるようになった時期のことだ。


マリアさんはなかなかお強い性格のようで、「平民なんかの私に負けてしまうだなんて、フィオナ様のお気持ちを思うととても心苦しくてお詫びに来たの。王子様の寵愛を受けてしまってごめんなさい」と婚約者である私をわざわざ訪ねてきた。


アレックス様のお人柄をよく知っている学友たちは、それがマリアさんの勘違いであることをわかってくれている。しかし、仮にも王子の婚約者が、勘違いした平民に真正面から見下されるという現実ははなかなか心にきた。私には向けられたことのない穏和な笑みを、マリアさんは受け取っていたとなればなおさらだ。たとえそれが、「優しき王子」という仮面であろうと。割り切っているつもりではいたが、どうやら私は未来の伴侶からの愛を無意識に求めていたらしい。


マリアさんには及ばないが、私が得意とするのも回復魔法であった。このことがさらに、マリアさんを付け上がらせていた。そして、なぜだかアレックス様は勉学よりも、魔法学においてより優秀な成績を修めることに執心されている。きっと私も魔法学で優秀な成績を修めれば、アレックス様との関係も今より良好なものになるだろうと思い、自習のため魔法学の資料室を訪れた。このとき、たまたま講師室から出てきた先生に見つかって、今のように紅茶を振る舞われながら慰めていただいたのだ。当時の私は、なかなかに思い詰めた顔をしていたらしい。


今では週に1回ほどの頻度で、この資料室を訪れている。


『今日はなにがあったのですか』

フクロウが小さく首をかしげる。

そのフクロウを肩に乗せた先生は頬杖をつき、優しい笑みを向けてくれている。


「いつもとおんなじです。食堂でマリアさんが私の座っていたテーブルを訪れて、『アレックス様が食後に一緒に魔法の訓練をしようと言ってくださったの。早くランチを終わらせたいのにどこも混んでて待たないといけないから、席を譲ってくれます?』って。さすがに無礼だとお断りしたら、『フィオナ様のせいでアレックス様とのお約束に遅れてしまうわ。嫉妬して私に嫌がらせするのはやめてください』って」

『それはそれは……』


先生は苦笑いをする。

マリアさんは嘘はついていないだろうが、彼女が匂わせているような「アレックス様が積極的にマリアさんと交流しようとしている」事実はないのだろう。おそらくマリアさんが「魔法をもっと上手になりたい」と泣きついて、アレックス様が「それならば空いている時間に練習に付き合ってあげよう」と言っただけのことなのだ。アレックス様はそういうお人だ。マリアさんが思っているよりもずっと、冷淡で合理的なのだ。


『民草に愛されるよう努めるのは当然だろう。私たちの施政はそれで成り立っているのだから。それに彼女は有用な才能を持っているのだから、王家に好意を持たせておくに越したことはない』

これは、この前のお茶会でそれとなくマリア様へのお気持ちを伺ったときの、アレックス様の台詞である。


マリアさんは「王子様に愛される平民の少女に嫉妬して嫌がらせをする貴族令嬢と、嫌がらせに負けない強くてけなげな少女」という構図がお好きなようで、私を悪役に仕立て上げて「やり込めてやろう」と絡んでくることが多々あった。最近ではシンデレラストーリーに憧れる男爵家や準男爵家の御令嬢も引き連れて、マリアさんはなかなかの存在感を示すようになっている。彼女等は、王家との接点が少ない。


力のある貴族家の者たちは事情をわかっている。彼女等の主張はおとぎばなしに憧れた子供が「自分もお姫様になれる」と舞い上がっているだけのことで、所詮は平民や弱小貴族の戯言だ。意に介する価値はない。だからこそ、友人やアレックス様に相談することは憚られた。未来の王妃たる者の器が図られる。


私はサリンジャー侯爵家の令嬢であり、アレックス・ギルモア王子の婚約者だ。

平民のマリアさんや取り巻きの男爵令嬢たちに対しては、堂々と接すればよい——だけど、やっぱり、疲れるものは疲れるのだ。


はじめて紅茶を振る舞ってくれた日、先生は(というより、フクロウは)

『学生の悩み相談も教員の仕事ですからね。弱音を吐くだけでも心は楽になるでしょう。いつでもここに来てください』

と言ってくれた。私は今も、その言葉に甘えている。


先生は紅茶を飲む。その傍らで、フクロウが口を開いた。

『彼女たちも夢見がちなお年頃ですからね。そのうち現実を知って、慈愛と愛情の違いも理解するでしょう。まぁ、アレックス殿下が……』

フクロウはここでいったん口を閉ざし、先生は資料室の扉に視線を向けた。誰の気配もないことを確認して、言葉を続ける。

『……アレックス殿下が、婚約者なりの態度であなたに接していれば、そもそもこんな勘違いは起きないでしょうけどね』


その言葉を聞いた瞬間、涙が急に込み上げてきた。

——そうなのだ。アレックス様が「平民にも優しい王子」の仮面だけでなく、「婚約者を愛する王子」の仮面もつけてくれたならば。表面上だけでも構わないから、笑顔で会話ができる程度の関係性でいられたならば。

未来の伴侶に愛されない寂しさやマリアさんに侮られる悔しさ、それを誰にも相談できない孤独感を理解してもらえた気がして、瞳に溜まっていた雫が、つぅと頬を流れた。


目の前にハンカチが浮かんでいた。

受け取って、目元を押さえる。


それはティーカップのように呼び寄せられたものではなく、急に目の前に現れた。無詠唱で有機物を生成する——それをさらりとやってのけるところに、千年に一人の天才の片鱗を見た。


「……アレックス様に怯えて距離を置いた私にも非はあります」

『それが言えるだけ、あなたは賢いですよ』


こうして相談ができて、優しく接してくれて、慰めてもらえることはとても幸運なのだと思った。

そして、ふと気になった。


「先生。もし私がアレックス様と婚姻して王家の一員になったら、私と会話することは禁忌になりますか」


先生は少しだけ目を見開いた。しばし考える様子を見せて——フクロウが『きっと、そうかもしれないですね』と答えた。「曖昧なんですね」と言うと、先生は困ったように笑った。思えば私はこのときすでに、先生に惹かれていたのかもしれない。今だけでも先生の声が聞きたい。そう思ってしまったのだ。


「先生、ひとつだけわがままを言っても良いですか」

『なんでしょう』

「声を、聞かせてくれませんか。この資料室で、二人でいるときだけ」


——このときの先生の表情を、私は見ていない。

直視することが怖くて恥ずかしくて、うつむいてしまっていたから。


しばしの沈黙の後、耐えきれなくなっておずおずと顔を上げると、目の前のフクロウは消えていた。


「良いですよ」

先生は静かに笑った。その声になぜだか私は、懐かしさを覚えていた。


◇◇◇


「最近、頻繁に魔法学の資料室に通っているらしいな」


アレックス様とのお茶会の日、彼はなんでもないような顔をして問いかけてきた。

全身が一気に冷える心地がした。


疾しいことなど何もない。

悩み事を聞いてもらったり、授業の相談をしたり。健全な先生と生徒の会話しかしていない——しかしそれを、客観的に証明できるだろうか?


心臓がばくばくと鳴り始める。迂闊だったかもしれない。下手したらサリンジャー家ごと、不敬罪で処罰されてしまうかもしれない。焦る心の片隅で、アレックス様は私の動向に興味があったのだなと冷静に考える自分がいた。


「……週に1回ほど。魔法学は難しいので、自主勉強をしていたのです。書物を読んだり、キース先生のお時間があれば、ご相談に乗っていただいたり。私もマリアさんのように魔法が上手になりたくて……」


アレックス様に対して、嘘をついてはいけない。王家の影がどこまで何を把握しているのかはわからない。私にできる

ことは、仮に処分されるとして、その範囲を最小限に押さえること——私の命だけで済むように。


「なるほど」

アレックス様の口の端がわずかに歪んだ。

「あの男と交流しているのか」

「疾しいことは何もございませんわ。でも……殿方と密室で二人きりになることは、アレックス様の婚約者としての自覚が足りませんでした。申し訳ございません」

「謝罪はいらない。別に怒ってなどいない」


アレックス様はティーカップを揺らしながら、波打つ水面をじっと見ていた。その口角は釣り上がっている。


「あの男が外に出られるのも今だけだからな。魔法塔での監禁生活に後戻りする前の今だけは、フィオナとの逢瀬を許すだけの慈悲はやろう。今が満たされる分だけ、その後の人生が辛いものになる」

「…………アレックス様?」


仄暗い笑みと憎悪に満ちた声。

それは私に聞かせるために発せられた台詞ではなかった。私の呼びかけに対する返事はない。

カチャリ、と音を立ててティーカップがソーサーに戻された。


「魔法を上達したいという心意気は応援する。これからも研鑽するといい」


アレックス様はそう言い残して、席を立った。ティーカップには、紅茶が半分以上残っている。

にこり、と感情のない笑みがアレックス様の顔に貼り付いていた。


——たとえ表面上だけであっても、殿下から笑顔を向けられるマリアさんのことをどこかで羨ましいと思っていた。しかし、いざ同じ笑みが自分に向けられて感じたのは、虚しさと、真意の見えないアレックス様への空恐ろしさだった。マリアさんは、この笑顔を見て勘違いをしたのか。だとすると、人の裏を考えることのない彼女はなんて幸せなのだろうか。


◇◇◇


資料室に行くことをやめる。それが私にとっても先生にとっても最良の選択肢であることは明らかだった。しかし、私はそれをすぐに決断することができなかった。


アレックス様は、「魔法塔での監禁生活に後戻りする」とおっしゃっていた。

これは考えるまでもなく、アレックス様の卒業後に先生は宮廷魔法使いに戻り、魔法塔にこもりきりで王家のために魔力を尽くす日々に戻るという意味だろう。


その生活がどのようなものなのかを私は知らない。

しかし、アレックス様の口ぶりからあまり楽しいものではないだろうことが容易に想像できた。


宮廷魔法使いは王家直轄の魔法使いだ。

きっと、私がアレックス様と結婚して王家の一員になったときに再会することができるかもしれない。ただしそのとき私の隣にはアレックス様がいるし、言葉を交わすのはフクロウだ。


その未来を想像したとき、寂しさと切なさで胸が詰まり、張り裂けるように痛くなった——やっと、声が聞こえるようになったのに。王家と宮廷魔法使いという関係にはなりたくない。その痛みで気づいた。どうやら資料室で先生と過ごすあの時間は、私のなかでとてつもなく大切なものになっていたらしい。

しかしその感情は、アレックス王子の婚約者として捨てなければならないものだった。


◇◇◇


あの日のお茶会以来、私はずっと陰鬱な表情を浮かべていたらしい。

何人かの友人が心配して声をかけてくれた。クラス担任の先生にも呼び出され、何かあったのかと尋ねられた。私が何に悩んでいるのか唯一知っているアレックス様は、私への興味はないご様子だった。


資料室へ行くのはあと1回だけだ。そこで私は、今までのお礼ともうここを訪れないということを伝えなければならない。その覚悟を持つことができず、先生とは授業で顔を合わせるだけの日が続いた。


しばらく経ったある日、アレックス様は魔法学の授業終わりに帰ろうとする先生を呼び止めた。そして怪訝そうに立ち止まる先生に近づくと、耳元で何かを囁いた——フクロウは何も言わなかったが、先生は一瞬だけ私を視界に映して、すぐに目線を逸らした。その眉間には皺が寄っていた。アレックス様はこちらに背を向けている。しかし、きっとあのときと同じ仄暗い笑みを浮かべているのだろう。


不思議なできごとが起こったのは、その日の放課後である。

家に帰るためにサリンジャー家の馬車に乗り込み御者によって扉が閉められた瞬間。その空間は、見慣れた資料室に変わっていた。馬車に設置されたクッションに身を沈めたはずが、硬い木の椅子に座っている。目の前には、千年に一人の大魔法使い様。壁に寄りかかり腕を組んで、私を見下ろしていた。難しい表情をしているが、その瞳は優しい。フクロウはいなかった。


「……事情は察しました」

「えっと……先生、これは……」

「ここ最近暗い顔をしていると思っていましたが……あの王子も相変わらず性格が悪い。私への嫌がらせが目的だとしても、これではフィオナさんが可哀想だ」


先生は目を伏せて、長いため息を吐いた。状況がわからずきょろきょろする私に、「転移魔法です」と淡々と答える。


「私は女神に愛された魔法使いです。あなたが思っている以上になんでも叶えることができる。こうやって別の場所と研究室を繋げることもできますし、本人だけを移動させることもできますし、目撃者がいればその者の記憶処理をすればいい。一人で思い悩まずに私に相談してくれれば良かったのに」

「そんな……空間魔法も記憶魔法も超高度呪文です。私なんかのためにそんな大それた魔法なんて! それに、私はアレックス様の婚約者なので……これからも会いたいなんてわがまま、言えないです」


自分の淡い気持ちに気づいてしまった。この思いは断ち切らないといけないと分かっているのに前に進めない。アレックス様が怖くて開き直ることもできない。後ろめたい気持ちばかりが強くなる。視界が涙でうるうるとぼやけた。半ば恋心を自白しているようなものだったが、先生は茶化すことなく、真面目な顔をして私をじっと見ていた。


「どれも私にとってはたいした魔法じゃない」


先生はそっと私に近づくと、右手を私の頬に添え、目元の涙を親指で優しく拭った。

間近にある顔を、まじまじと見つめる。白く光る金髪が、目鼻立ちの整った顔に影を落とす。紫水晶のような瞳は細められ、優しげな視線を私に向けていた。


「王子に知られず会うことなんて簡単なことです。婚約していたという事実をなかったことにだってできる。ギルモア家が怖いなら彼らを抹消することだってできるし、この国から遠く離れたところで穏やかに暮らすこともできる。私はね、あなたの幸せのためならなんでもできるんです。あなたの願うことなら何でも叶えてあげられる。だから、そんなに悲しい顔をしないでください」




◇◆◇◆◇




魔法の才能は、努力によって埋められる差もありはするが、基本的には生まれ持った魔力によって決まる。

プライドの高いアレックス・ギルモア王子は、その才能に恵まれた双子の従兄弟の存在が許せないらしく、私と兄は幼いころからずっと敵意を向けられていた。


私たち双子は、父が亡くなるずっと前から、父と同等の才能があると評されていた。

父が亡くなったとき、自分の体の中に満ちる魔力が強くなったことを自覚した。王妃によって無理やり抜き取られ、空中に発散した魔力は私と兄の中に満ちたらしい。無情な姿に変わり果てた父を目の前にした私も兄も、魔力量の変化を口に出すことはなかった。


一人の人間の中に、二人分の——それも強大な魔力が混ざりあっている。その器が二つ。その珍しさを女神は気に入り、「祝福」として彼女自身の魔力をさらに分け与えてくれた。魔力量の変化は凄まじく、王家に隠し通すことはできなかった。ある日祖父と兄と王都を歩いていたとき、ローブを着た男に呼び止められた。「素晴らしき才能が感じられます」そして私たちは王宮に呼ばれた。

父を殺した憎き王妃の傍には、鋭い眼光でこちらを睨むアレックス王子の姿があった。


これまでの王妃の言葉の端々には、姉妹である私たちの母への張り合いが滲んでいた。アレックス王子が王妃からどのような教育を施されていたのかは知らない。しかし、魔法の才能において、私や兄と比べられていたであろうことは想像に難くない。


女神の祝福により、私たちと王子の差は圧倒的なものになった。面白く思わないに決まっていた。アレックス王子は、その埋められない差を「王族と臣下」という関係性で打ち消した。その日から、私と兄は宮廷魔法使いとして「魔法が使える奴隷」のような日々を送ることになる。


さて。

私と兄だけの秘密が二つある。

——女神が与えた祝福は魔力だけではない。そして、祝福を受けた私たちが王家の人間と言葉を交わすことは禁忌ではない。


それが判明したのは、兄が王家に殺された日のことだった。


『この国の王家はもうだめだ』

終わりのない陰鬱な日々のなかで、兄は耐えきれないといった様子で漏らした。

このとき、私と兄は王家の欲望を満たす傍で、生きている人間から魔力を抽出して別の人間に還元するための研究を命じられていた。父を死に追いやった研究への協力を命じられる苦痛。あの無慈悲な亡骸を忘れた日はない。二人とも、心は死んでいた。逃げ出すという発想は湧かなかった。私たちには首輪が巻かれていた。それは、王家の許可なく魔法塔から離れると、片割れの首を捻じ切る代物だった。


兄の発言は私たちを監視していた騎士によって王家に報告され、その日のうちに玉座の前に引き出された。

平伏して、大理石の床に額をつける。伺い見ると、豪奢な玉座に王と王妃が座っていた。王は相変わらずの無表情でこちらを見下ろし、王妃はどこか嬉しそうに残忍な笑みを浮かべていた。今日は王子はいないのだな、と思った。

王が口を開く。


「どちらが申した」


発言した方が殺されるのだと察した。

私と兄は双子である。王家に楯突いたのはどちらなのか、彼らには判断できないのだろう。

兄を死なせたくない私は顔をあげ、「私が申しました」と言おうとして——固まった。声が出ない。


どういうことかと混乱するうちに、兄が自分だと申告していた。


時よ止まってくれ。

兄の発言を忘れてくれ。

せめて兄一人だけでも、この場から逃げ出させてくれ。


いくら女神に愛されたとは言え、その願いを実現できるだけの力は宿っていなかった。

時間魔法、記憶魔法、空間魔法——そのどれもが、魔法陣を書き、何人もの魔法使いがそれを囲んで呪文を唱えることで実現するような超高度なものだった。


「あらあら。兄か弟かわからないけど、そっちが言ったの」

玉座の王妃が、冷たい瞳で兄を見下ろしていた。

「本当は今すぐにでも首を切っちゃいたいんだけどね。でも、今あなたたちがやっている研究の成果に、私はとても期待しているのよ。だってそれを実現できれば、この国の魔力は全部私たちのものになるのだから」

王も口を開いた。

「お前たちの才能を失うのはいささか惜しい。だから……そうさな。そこで頭を垂れたまま、発言を撤回し今後も我がギルモア家へ絶対の忠誠を誓うというなら、許してやろう」

「まだ研究を続けられるのよ。感謝なさい」


王妃の笑みの意を理解した。死の救いは与えない。地獄のような研究を続けさせることに、嗜虐的な喜びを見出していたのだろう。とはいえ、これで兄の命は助かった——『この国の王家はもうだめだ』この言葉を撤回すれば、この場を終えられる。


私と兄は、再度額を床につけた。

「このたびの私の妄言、撤回申し上げ……」

兄の言葉が切れた。

何事かと目線を横に向けると、兄は目を見開いて固まっていた。指先が震え、大粒の汗が額を流れている。

「……兄さん?」

小声で呼びかけると、兄は絶望した声でつぶやいた。

「………………嘘がつけない」


そして、兄は痺れを切らした王妃の命令で切り捨てられた。

目の前に転がる兄の首を見ながら、数年ぶりの感覚が私の全身を走っていた。兄の——そして、兄の体に満ちていた父と女神の魔力が、私の中に積もってゆく。


魔法使いが死ぬと、その体に秘められた魔力は空気中に発散する。行き場を失ったそれは、近くによく似た器があった場合、その中に戻ろうとすることを、私はこのとき理解した。


絶望で体が動かない。

血だまりがゆっくりと広がる床を呆然と見つめる。


ふと、周囲を取り巻くすべてが無になった心地がして、私はゆっくり顔をあげた。音も、温度も匂いも感じない。目の前には、あの日湖のほとりで出会った女神がしゃがみ込んで兄の頭を抱え上げていた。

その奥には玉座に座った王と王妃がいるはずだが、白いもやがかかったように何も見えなかった。


『なんだか、ひとつにかたまったなーという気がして来てみたら、あらららら……』


女神の気の抜けた発言に憤りを感じるほどの気力は残っていなかった。ただ、目の前の神を見つめることしかできない。涙がとめどなく流れ落ちる。


「……かえしてください。それは、大切な、ただ一人の兄なのです」

嗚咽をこらえた喉から出た音は、かろうじて声になった。

『とらないわよー』

この場に似合わないふくれ面で返される。そっと、兄の頭は大理石の上に戻された。女神の着ていた白いドレスは血みどろになっていた。彼女がそれを意に介した様子はない。


『元に戻るかなーって見てみただけ。でもやっぱり無理ね。人間って死んじゃうと、すぐに空っぽになっちゃうみたい。でも、どうしてこんなことになっちゃったんだろう』

「……嘘が、つけなくなったんです。私も、兄も。それでころされた」


女神は、なぜだかパッと顔を明るくした。


『そうなの! 私の魔力をあげるついでに、嘘なんてつかなくてもいいようにしてあげたの』

「……………………」

『嘘をつくなんて人間の業を背負わないといけないなんてあまりに可哀想で。私はあなたたちのことを気に入っているから、そんな真似しなくていいようにしてあげたの。でも、それで殺されちゃったの? 人間ってやっぱり、愚かな生き物ねー』


女神の言葉は響かなかった。心が死んだように、怒りも悲しみも感じない。目の前で兄の頭を抱える女性は、圧倒的なまでに別次元の常識のなかで生きていた。これが、神と人間の隔たりか。


『嘘つけた方が良かった? でも、やっぱり私、あなたたちにはそんなことしてほしくないわ。それは精霊や使い魔にでも任せればいいんじゃないかしら』


呆然と目の前の兄の首を見つめることしかできない。

女神は、そんな私の様子を見て困ったようにため息を漏らした。血にまみれた手のひらで私の頭を撫でて慰める。


『私の大好きなあなたのお兄さんの魔力は、すべて私の大好きなあなたの中にいるわ。だからあんまり落ち込まないで』


——あまりにも生きている価値観が違っていた。

きっとこの先ずっと、神と人間が理解し合うことはないのだろう。


◇◇◇


いつの間にか、感覚が戻ってきた。全身が血の匂いに包まれる。光を失った紫色の双眸がこちらを見つめている。その奥に、二つ並ぶ玉座が見えた。

女神の姿はもうどこにもない。


彼女が最後に言った言葉を思い出した。兄の魔力は、すべて私の中にいる。生きなければならない、と思った。せめて、この身に魔力が残るうちは。


兄の頭の横に幻獣を生み出し、平伏する。

女神に出会う前、兄や祖父と一緒に飼っていた灰色のフクロウ。


『祝福を与えてくださった女神様は、私や兄が高貴な血とお近づきになることに嫉妬なされるようです。兄は、それゆえに言葉を失ってしまったようで。ご無礼大変申し訳ございませんでした』


たしかに女神の言う通り、使い魔の声は祝福をすり抜けるらしい。幻獣の嘴から語られる心にもない言葉は、私の耳を空虚に通り過ぎた。

王と王妃は征服欲と矜持を満たされたらしく、満更でもない顔をして威丈高に頷いていた。


◇◇◇


王の許しを得て、謁見の間を後にする。

王宮の離れにある魔法塔に戻るため、裏口を出て芝生しか生えていない殺風景な道を歩いていた。


両足が鉛のように重い。

項垂れながらのろのろと歩を進めていると、後ろから声をかけられた。


「魔法使い様!」


ゆっくりと振り返ると、王宮を背にして少女がぱたぱたとこちらに駆け寄ってくるのが見えた。立ち尽くして彼女が近づくのを待つ。少し幼い風貌をした彼女は、血みどろのローブに身を包み、絶望に染まった光のない顔をする私を心配そうに見上げた。


「あの……大丈夫ですか。お怪我、しているんですか」

『………………ご心配には及びません』


大丈夫か、の言葉で片付けられるほどの易いできごとではなかった。しかし、純粋に心配をしてくれる少女にその憤りをぶつけるのは酷であることは理解していたし、それを抑えるだけの理性はかろうじて残っていた。必死に表情を取り繕って、作り笑いを返す。声は出せなかった。

急に出現したフクロウに一瞬驚いた顔をしたものの、少女は心配そうにこちらをまっすぐ見上げていた。


「私、回復魔法が使えるんです。良かったら、傷を見せてください」


ふ、と思わず笑みが溢れた。

それを魔法使いに言うのか。無邪気で無知な優しさが微笑ましい。


『怪我はしていません、ありがとう』

少女は血まみれのローブと、おそらく返り血がついているであろう顔を見る。彼女はずっと泣きそうな顔をしていた。彼女は、私のために心を痛めているというのか。

——可哀想に。心優しいばかりに。

「じゃあ、どうしてそんなに辛そうな顔をしているのですか」

「……っ、」

思わず、少女から目を逸らす。涙は堪えきれているだろうか。いつの間にか、フクロウは消えていた。

「ご心配には及びません。ただ、今日は……とても、とても……とても、悲しいことがあっただけです」


あぁ。こんな少女に弱いところをさらけ出すなんて情けない。しかし、虚勢を張れるほどの強さも残っていない。

私をじっと見上げていた少女は、手に持っていた小さな木籠をこちらに差し出した。


「良かったら、これ、もらってください」

「……これは?」

「私が作ったクッキーです。今日はアレックス様の婚約者候補を集めたパーティーで、本当はアレックス様に差し上げる予定だったのですが、でも、お兄さんをそのままにしておけなくて。私の自己満足だとはわかっていますが、これを食べて、少しだけ元気な気持ちになってくれると嬉しいです」


さすがにそんなものはもらえない。

王子へのプレゼントを横流しするなど、私もこの少女も、どんな目に遭うかわからない。まっすぐな優しさに縋りたくなる気持ちを、ぐっと堪える。


「——フィオナ、どこだ? そろそろパーティーがはじまってしまうぞ」


王宮の渡り廊下から、紳士の声が聞こえた。おそらくこの少女の父親だろう。


「……その気持ちだけで私は十分救われます。ありがとう」

最後の気力を振り絞って笑顔を返す。そして少女の返事を待たず、私は魔法塔へと向き直った。少女はしばらくその場に立ち止まっていたようだが、やがてぱたぱたと足音が遠ざかってゆくのが聞こえた。


ふと、視線を感じて後ろを振り返る。

王宮の2階の窓から、白金色の髪をした少年がこちらを眺めていることに気がついた。その冷淡な表情を、私はよく知っている。


◇◇◇


その日の夜。

従者を数人引き連れて、アレックス王子が魔法塔を訪れた。王族のために作られた客間で、彼と向かい合って座る。

2人を挟む机の上に、フクロウを佇ませている。


「婚約をしたんだ。()()()従兄弟にはそれを報告しようと思ってね」

『わざわざお越しいただきありがとうございます。誠におめでたい限りです』


頭を下げてフクロウに祝辞を述べさせる。

無表情を保つので精一杯だった。王子の顔を見たら、怒りと憎しみで我を忘れてしまうという確信があった。


今日、兄が死んだ。王家に殺された。

昨日まで——いや、つい今さっきまで隣にいたというのに。

そんな日に、祝意を表さねばならない苦痛がどれほどのものか。王家の人間は、はたして人の痛みを想像したことがあるのか。


アレックス王子は悠々と足を組み、ゆったりと笑っていた。


「相手はサリンジャー侯爵家の御令嬢で、名前をフィオナというらしい」

その名前には聞き覚えがあった。渡り廊下の紳士は、あの少女をそう呼んでいた。

「彼女は、私の婚約者に選ばれてとても喜んでいた。『王子様のお嫁様になれるなんて、とても幸せです』と。なんともいじらしいと思わないか?」

『……良きお相手を見つけられたようで何よりです』


アレックス王子が今日ここを訪れたのは、私をさらに苦しませるためであることは明白だった。なぜ、彼はそこまで闇を抱いているのかはわからない。魔法の才能への嫉妬が拗れた結果かもしれないし、王妃譲りの嗜虐性がそうさせているだけかもしれない。


「お前にもそういう相手ができるといいな。まぁまずは、研究の成果を出すことが先だが」

そう言って、アレックス王子は去っていった。

彼は最後まで、兄の死を悼むことはなかった。


◇◇◇


百年に一人の天才と言われた父と、同等の才能を持つと言われた兄と、兄弟二人分の女神の祝福。それを一身に受け取った私は、どんなに難しい魔法であっても単独で行使できるようになっていた。詠唱も魔法陣もいらない。その事実は秘めている。溢れる魔力に気づかれないように、まずは自身に秘匿魔法を施した。


「この国の王家はもうだめだ」この思いは今も変わらない。

女神に愛されたこの身には、その気になればこの国を滅ぼせるくらいの魔力が秘められている。

しかし、この国の王家がいることで、幸せになる者もいることを、私は知っている。


もはや私に希望や夢はない。ただ、あの日の少女が幸せになれるというのなら。あの王子の隣で生きることがあの少女の笑顔につながるというのなら、私はこの国のために尽くそう。いくらこの胸の内が憎悪に満ち溢れていようとも。




◇◆◇◆◇




アレックス王子が王立学園に入学する年、私は魔法学の講師として勤めることを命じられた。アレックス王子の希望だという。彼の真意はわからないが、きっと、兄が殺された日の夜に魔法塔を訪れたのと同じ理由だろうと思っている。


入学式の日、王子の隣にはフィオナがいた。

あの頃よりも大人びて、無邪気な少女から淑やかな女性に成長していた。しかし、普段の学園生活の中で二人が寄り添っているのをほとんど見たことがない。アレックス王子はフィオナを特別扱いしている様子はなく、一方フィオナは他の生徒と同じかそれ以上に、王子の機嫌を伺って過ごしている様子だった。


未来の王妃として研鑽を重ね、彼女なりに王子と良好な関係を築こうとする努力を邪魔することはできない。三年間、見守ることしかできなかった。そして最終四学年を迎えた年。マリアという平民の特待生が入学し、状況が変わった。


王子の振る舞いは、「国民と交流する王族」としては間違っていなかっただろう。しかしあまりにも、それ以外の者へ与える愛がなさすぎた。マリアという平民が図に乗ってしまったこともフィオナを追い詰めた。それでも婚約者に振り向いてもらおうと努力を重ねようとする彼女が放って置けなくて、彼女が資料室を訪れたあの日、耐えきれず声をかけた。私と話す時間が彼女にとっての安らぎになっているのなら、それ以上望むものはなにもない。


フィオナは一定の頻度で資料室を訪れていたが、ある日急にその足は途絶えた。講師として彼女のクラスを訪れるときだけ、顔を合わせることができる。彼女の表情はずっと暗いままだった。心配の声をかけても、彼女は大丈夫ですと答えるだけであった。


しばらくして、授業終わりにアレックス王子に呼び止められる。彼は暗い笑みを浮かべ、耳元で囁いた。

『資料室に行くことを少し咎めただけであの様子だ。お前も罪深い男だな。私の婚約者を苦しめて楽しいか』


その一言で、おおよそを察した。

フィオナは、アレックス王子に資料室での逢瀬について指摘されたということ。そして彼女は、もう資料室に行くべきではないと判断したこと。その判断が、彼女の心をここまで沈ませているということ。そこまで思い悩むほどに、彼女は資料室での時間を大切にしてくれていたということ。

そして——『声を、聞かせてくれませんか』そう言ったときの彼女の表情は、見間違いでも勘違いでもなかったということ。


きっと王子は、私が無闇にフィオナに近づいたせいで彼女をいたずらに悲しませることになったと、私に苦悩を与えたかったのだろう。

しかし王子は知らない。私の魔力は、彼女の悩みを無に帰せるほどに強大だということを。


◇◇◇


「私はね、あなたの幸せのためならなんでもできるんです。あなたの願うことなら何でも叶えてあげられる。だから、そんなに悲しい顔をしないでください」


これはただの慰めでもたとえ話でもないということに、あなたは気づいてくれるだろうか。頬を私の右手に委ねる彼女と、じっと目を合わせる。



「あなたが幸せならそれでいい。アレックス王子の隣にいるあなたは、幸せですか?

——あなたの、願いを教えてください」

 

 

 

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[一言]  この後の展開をいろいろ考えて、楽しんでいます。良いお話をありがとうございました( ◠‿◠ )
[一言] ぇ、これで終わり?
[気になる点] なんか尻切れトンボ
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