006 月下の少女
「第二王子とはあまり仲良くしない方が良いよ」
「え?」
授業が終わり、寮室に戻ったミレイユとシスティ。
人目が無くなったところでシスティは真面目な表情でミレイユに言った。
「それはまた、どうしてですか?」
「あんまり良い噂聞かないから……」
何か気に入らない事でもあったのか、ぶすっと膨れっ面をするシスティ。
「そうなのですか。なら、気を付けますね」
「うん。そうした方が良いよ!」
ミレイユが素直に頷けば、システィは表情を一変させてにこっと愛らしい笑みを浮かべる。
直接この人が第二王子ですと言われた訳では無いけれど、お昼に相席をした少年が第二王子なのだろうと察しを付ける。対面に座っていた少年に殿下と呼ばれていた事だし。
ともあれ、そもそも誰かと関りを持つつもりもそんなに無い。
向こうから声をかけられない限りは、ミレイユも用が無ければ声をかけないようにすればいい。
無用なトラブルは、ミレイユも望むところではないのだから。
夜。誰もが寝静まった頃。寝る必要のないミレイユは、いつもならば朝陽が昇るまで縫い物をしたり、月あかりを頼りに本に目を通す事だろう。
けれど、今日だけは違う。
ミレイユは静かに寮室を抜け出し、寮の外へと出る。
基本的に、就寝時間を過ぎた後の外出はしてはいけないのだけれど、ミレイユは特別に許可を貰っている。夜は長い。部屋に閉じ込められたままだと気も滅入るだろうという事で外出を許可されている。
普段であれば寮室でゆっくりと縫い物をしていたところだけれど、今日だけは別だ。いや、特別なのだ。
雲が遮っていた満月の月明りが外に出たミレイユを照らす。
直後、ミレイユの姿が薄く発光し、みるみるうちに人の姿に変わる。
月光のように淡い光を持つ髪と瞳。小柄ながら、女性を想起させる身体つき。
月明りの下に現れた少女こそ、ミレイユ本来の姿だ。
どういう訳か、満月の夜だけはミレイユは本来の姿に戻る事が出来る。とはいえ、戻れるのはガワだけであり、本当に人間に戻れている訳では無い。
それでも、自分の姿で出歩ける限られた時間。森の魔女に大切にしろと言われた時間だ。
骨になってからは感じる事の無かった空気が肌に触れる感覚。
生垣の葉に触れれば、硬い骨が突くような感覚ではなく、きちんとした柔らかな感覚が返ってくる。
柔らかく口角を上げて、ミレイユは学園を散策する。
気分が高揚し、自然と口を開く。
「夜の女神 夜の母 遍くやすらぎの光
稚児の泣き声を 安らかな寝息を 貴女は優しく見守るでしょう
人と木々と生き物と 貴女は全ての夜を見守るでしょう
ああ 月よ 貴女は……貴女は……」
そこまで歌って、ミレイユは考え込むように口を噤む。
満月の夜。ミレイユはこうして月に感謝を示す歌を歌う……のだけれど、この呪いはミレイユだけのもの。つまり、人々が感謝するくらいの歌では届かないと考えて、ミレイユは月を賛美するための歌を作っているのだ。
彼女だけの月光賛歌。
満月の夜にだけ、彼女は月のために歌を作るようにしている。人に戻れているからか、常より感情の機微が大きくなっている。
今の状態がミレイユにとって正常であり、その正常な感情のまま歌う歌こそ、本物の賛美になると考えている。
ただ、長い事考えているけれど歌は未完成だ。加えて、今の歌にもあまり納得できていない。もうちょっと良い歌にならないものかと思案している。
学園の庭園にある噴水の縁に座りこみ、月を見上げて考える。
「ありがとう。優しい。憂愁。宵闇。夜空――」
思いついた単語を羅列する。しかし、どうにも納得できる単語が見つからない。
「……」
単語の羅列を止め、ミレイユは黙って月を眺める。
「佳月、清月、月夜、静謐、悠揚……まだまだ使えそうな語句はあるぞ」
月を眺めるミレイユに不意に声がかけられる。
びくりと身を震わせて声の方を見やれば、そこには第二王子――ガルシアが立っていた。
寝間着姿に上着を羽織っているだけの無防備な姿。まぁ、ミレイユもそれは変わらないのだけれど。
何故ここにガルシアが居るのかは分からない。が、彼は第二王子だ。特権的に就寝時間後の外出も許されているのだろうと考える。
「それに、先程の歌も妙に空虚だ。称えながらも熱が無い」
言いながら、ガルシアはミレイユに歩み寄る。
その様子をミレイユは少しばかりの警戒を滲ませながら見やる。
白銀が煌めき、ひんやりと冷たい色を持つ刀身の切っ先がミレイユに突き付けられる。
どうやらガルシアは帯剣していたらしく、その切っ先を冷静にミレイユに向けていた。
「貴様何者だ。この学園の生徒では無いようだが」
冷たいガルシアの視線を、ミレイユは真正面から受ける。
「全員の顔を憶えているのですか?」
切っ先を向けられながらも、ミレイユは物怖じする事無く訊ねる。
「教員、生徒、全ての顔と名前は頭に入っている。その中に、貴様の顔は無かった。答えろ、貴様は何者だ」
切っ先が少しだけ前へ伸ばされる。
「ミレイユです」
「ミレイユ? 馬鹿を言うな。彼女は魔女の呪いで骨になっている」
「月に一度、満月の夜だけ人の姿に戻れるのです。一応、ベルメールさんには報告してあります。お疑いになられるのでしたら、ベルメールさんに問い合わせてみてください」
ミレイユの言葉を聞いて、ガルシアは考え込むように口を噤む。
ガルシアはミレイユの報告の一切を聞いていない。アッシュはミレイユの調書に目を通しているので先程の言葉を信用できるだろうけれど、ガルシアには確証が無い。
警備の者に突き出すか、このまま信じるか。
警備の者に突き出せば、調書に目を通さなかった怠慢を問われ、もしこのまま信じて彼女が賊だった場合はそれを見逃したという事になる。どちらにせよ、自身の失態になり、兄の足を引っ張る事になる。
「……そうか。それはすまなかった」
言って、ガルシアは剣を収める。
完全に信じた訳では無い。このまま彼女と行動を共にすれば時期に真実は分かる事なのだ。
黙ってミレイユの隣に座り、夜明けまで待つ事を選ぶ。こうなってしまえば、それが一番賢い選択だと判断したからだ。
何故隣に座るのだろうと思いながら、ミレイユは困ったように眉尻を下げる。なにせ、システィにガルシアとはあまり関わらない方が良いと言われているのだ。
頷いたその日の内にまさか関わる事になるとは思っていなかった。
「歌を」
「はい?」
「歌を作っているのか?」
ちらりと視線を向けて訊ねるガルシア。
間を持たせるためだけの問い。そこに、興味も関心も無い。
「はい。満月の夜だけこの姿になれるので。お月様に感謝をと思いまして」
「感謝、か……それを言うなら、魔女に怨み言の一つでも吐いたらどうだ?」
「どうしてです?」
訊き返せば、ガルシアは呆れたような顔をする。
「お前……魔女に呪われているのだろう? 年頃の娘が骨の姿で居るなど苦痛以外のなにものでもないはずだ」
例えそれが男だったとしても、きっと魔女を恨んだことだろう。
少し考えるようにして、ミレイユはゆっくりと首を横に振る。
「少し面倒だとは思いますが、殊更に嫌という訳では無いです」
「どうしてだ?」
「夜通し針仕事が出来ますから。趣味に耽っていられる時間が長いのは良い事です」
年頃の少女とは思えない言葉。先程ガルシアが言った通り、人として化物に見られる事は耐えられる事でないだろう。
奇異の目に見られ、遠巻きにされ、酷い時には虐げられる。
趣味に耽られる時間があるという利点と差し引いても、到底受け入れられるものではないはずだ。
他の者と同じ生活が出来ないという事は苦痛でしかない。それをガルシアは知っている。
苛立ったような様子を見せながら、ガルシアはさらりと靡くミレイユの髪を掬い上げる。
「この髪も、その顔も、この身体も、全て無かった事になるんだぞ? 元々持ってしかるべきだったはずのものの全てをお前は奪われているんだぞ? なぜ怨み言の一つも吐かないで良しとする」
問いというにはあまりにも責め立てるような口調のガルシアに、ミレイユは穏やかな声音で返す。
「私を受け入れてくれる人が居ますから。それだけで、私は――」
「そんな訳が無い!!」
ミレイユの言葉を声を荒げて強く否定をするガルシア。
急に大声を上げるガルシアを見て、驚いて目をまんまるにするミレイユ。
「――っ……すまない」
「いえ……」
気まずそうに口を噤むガルシア。
何か思い当たるふしがあるのか、それとも何か同じような経験があるのか。
そうは思うけれど、突っ込んだ事を聞けるような程の間柄ではない。
黙りこくったガルシアに、特に口を開く事も無いミレイユ。
夜の静けさだけが、二人の間に流れた。