今昔陰陽師集 〜若かりける時〜
今となってはもう昔のことだが・・・
一
遠くの空で、時折小さく太鼓音がする。
耳障りではなく、寧ろ音楽を聴いているようで好ましい。
ひと雨来ることを知らせるその音は、この時代に於いては慎ましやかに空に広がっている。
菅原道真は目の前に座る男、安倍晴明を見ながら、ふと思った事を口にした。
「保胤からお前や保憲を紹介された時にも思ったが、お前の家系はへん、ん、んんぅん・・・ユニークなやつらばかりだな。幼い時からそうなのか?」
賀茂保胤
保憲の弟で、道真が専攻している学部の助手として勤務している。
副業で執筆活動を行い、活動時のペンネームは慶滋保胤
助手として働いている時は、まともな人物だと思ったんだがなぁ・・・予想は呆気なく外れた。
道真は二人を思い浮かべ、関わった出来事を思い出すと、苦笑した。
「賀茂家の兄弟たちの事を言っているなら、変な方々なのは認めますし、幼少期からそうですよ。ですが、俺を含めないで下さい。俺はあの人達と兄弟ではないので」
「はぁ?またそんな事を・・・」
いくら認めたくないからとはいえ、その言い方は如何なものか・・・
そして、俺が敢えて濁した言葉を躊躇なく使ったな・・・
「まず、苗字が違います」
晴明の表情は変わらないが、一つため息を吐き、心底呆れたという声を出した。
道真は、手を口元に持っていき、そういえばそうだな、とポツリと呟く。
道真はハッとした。
「婿よう「結婚もしてないですし、婿養子でもないですよ」」
「っっ・・・・・・」
有り得る限りの可能性を、被せるように除外され、道真は言葉に詰まった。
道真は湯呑を持ち、眉を寄せる。
湯呑の縁を指で撫でながら、目線を下に下げ、下唇を噛んだ。
「何故兄弟ではないと言うんだ?別に嫌なら答えなくてもいいが」
「道真さんにしては塩らしいですね。別に大したことではないですよ」
晴明は、さして気にもしていないという雰囲気でいる。
道真は、湯呑と床を見ていた目線を、晴明に合わせた。
「俺にしては、とはどういう意味だ。人が気を使ったのに」
「そうですね、ありがとうございます。で、兄弟の件でしたよね」
晴明は、風が流れるように礼を言い、話を進めようとする。
お前、それは、本当に、感謝の意を込めて言っているか?・・・
道真は、そんなことを一々気にしていては話が進まないと、自分に言い聞かせ、落ち着きを払った。
「あぁ」
「一緒の家で育っていますが、あの二人は血の繋がった兄弟でも、俺は血が繋がってないです」
表情は変わらないが少し目線を斜め上にし、簡単に言うと居候ですかね、と晴明が呟く。
保胤に紹介された際に、『兄弟の・・・』と言ってなかったか?
道真は眉を寄せ、一点を見つめたまま動かなくなった。
晴明は床に置いてあった湯呑を持ち上げると、目線を道真に移し、湯呑の中の茶を一口飲む。
「分かってないですね・・・師匠の実子でも、養子でもなく、術を学ぶ為に、賀茂家に住んでいたので、賀茂家が学校兼下宿先です」
「保胤はお前の事、晴兄さんって呼んでなかったか?」
「保胤が小学校にあがる前から居ますから・・・保胤の中では兄弟枠になってるのでしょう。それに、その呼び方をやめてくれ、と言っても聞く性格ではないですよ」
あぁ・・・それは、わかる、あいつは言っても意味がないな。
ん?ちょっと待て・・・
「お前と保胤は十も違わなかっただろ?いつから居たんだ?」
「多分、十歳くらいからですよ」
じゅっさいっ?!本当に、ちょっと待て。
十歳ということは小学四年か?
親はどうした!
普通一人でそんな所にいかせるか?
道真は驚きで目を瞬かせた後、眉間に皺を寄せて固まった。
晴明は、道真の表情を目の端で読み取る。
「母はどうしているのか分かりませんが、父と呼んでいた人は、俺を師に預けてから蒸発しました。多分生きてないでしょうね」
困惑している道真を他所に、晴明は、淡々と、道真が気になっているであろう事を答えた。
十歳からという事はそれ以前にはもう、そのような力があったのか?・・・
そしてなぜ賀茂家に預けられたのか・・・
気にはなる、が、聞いて良いものか・・・いや、でもな・・・
道真があれこれと考えているのを横目に、晴明は湯呑の茶を飲み干した。
晴明は、空になった湯呑を床に置き、外の様子を伺った。
晴明が床に置いた湯呑には、勝手に急須から茶が注がれる。
先程小さく響いていた太鼓音は段々と大きくなり、雲で厚く覆われていった空は、まだ午後三時を過ぎた頃だというのに赤黒く広がっていた。
晴明は、外に向けていた目を、いまだ考えこんでいる道真に向ける。
「俺の事が、気になるのであれば、教えますよ」
道真の前に置いてある皿の上の団子を指差し、晴明はニッコリとした顔を作り、小首をかしげる。
皿の上には串に刺さった団子が一本。
道真は、団子と晴明を交互に見比べる。
しばし思案した後、眉間に皺を寄せ、ゆっくり、ゆっっくり皿を晴明の前に置いた。
晴明は皿から団子を取り、一口口に放り込み、リズムをとるように咀嚼すると、ゆっくりと飲み込んだ。
「あまり覚えてはいませんが、俺の父親は大阪で有名な料理店に務めるシェフでした」
そう晴明は話し始めた。
ーーーーーー
二
男児が五歳になるか、ならないかの年に母親が突如として姿を消し、寂しさを紛らわせる為なのか、父親は酒とギャンブルにのめり込んでいった。
給料分で足りなくなった時は、金を借りてきて、それに費やしていく。
そして、塵も積もれば山、とでもいうように、父親の借金が返済できるようなものではなくなっていた。
大阪、和歌山、奈良、兵庫、・・・そして京都。
もう何度目かになる転居に、男児は何処に行っても無駄だろうと思っていた。
夜が長くなり始める節の手前、男児とその父親は夜逃げしようと、少ない荷物を抱え、一進に歩く。
いくら日中に人が往来する通りとはいえ、三日月が輝き、日もまたいでいる時刻では誰一人として見えない。
そのような通りを、親子は足早に過ぎ去ろうとしていた。
「さっさと行くぞ」
父親が後ろを振り返ることもなく、後ろを歩く子どもの歩みを早めようとする。
そんな時、道脇から一人の男が、フラリと出てきた。
ドンッ
「ぃっっ!」
「ぁっ!・・・」
急な事だったため、男児と男はぶっかった。
ぶっかった勢いがよかったのか、男児は地面に尻と手をつく様な体勢になっている。
それを見た男は、慌てて男児を引き起こした。
男は眉を八の字にさせ、心底申し訳なさそうにしている。
「ぶつかってしまってすいません。怪我はなかったかい?」
男が、男児の服の埃をはらっていると、ようやく父親が戻ってきた。
「何をやっているんだお前は!こいつが申し訳ありません。ほら、お前も謝れ!」
「ごめんなさい。ケガはないです」
男児の答えを聞くと、男はホッとしたように息を吐いた。
男の背は高く、細身で、熱血漢にも見えそうで、冷血漢にも見える。
目だけは印象的で鴟梟を思わせるように大きく鋭い。
「それなら良かった。すいません、あまり来ない所なので物珍しくて、上を見ながらウロウロしてました。・・・というか、うっかりウロウロしすぎましたね。方向が分からなくったので道を教えて頂けますか?・・・此処に行きたいのですが」
男は着ていた上着のポケットから一枚紙を取り出して父親に見せた。
見せられた紙を、父親は、訝しむようにジッと見てから、周りをぐるりと見回す。
「あぁ、それならこの道を真っ直ぐ行って左に行ったところだ。ただ、こんな時間に行ったところで誰も起きてないんじゃないか?」
「いえ、お気遣いなく。そこの主人に、この時間に伺いますと伝えてありますから。では、これで失礼します。教えていただいて、ありがとうございました」
道を聞いた男は、チラッと晴明を見てから踵をかえし、また上を見ながらウロウロと、目的の家に向かおうとしていた。
「なんだあの男、こんな時間に気味が悪い。ほら、行くぞ」
男児は、空を見上げる男の背を見ながら、その先をじっと見ている。
動こうとしない子を、父親はイライラして小声で叱りつける。
「おいっ!何時までそうしてるんだ!!」
それでも男児は動こうとせず、じっと道の先をみている。
父親がこれでは埒が明かないと思った時、男児が男に向かって走り出した。
「あっ!おいっ!待て!!!」
突然の行動に父親は、深夜だと言うことも忘れて大声で叫んだ。
男児は男に追いつき、ひしっと、腕を掴み引っ張った。
「すいません。めんどうだと思いますが、この道ではなく、あの道をまっすぐ行って、一つ目の十字路で右に行ってください。前の方から何かが来ます」
上を見て歩みを進めていた男は、男児にそう言われると、男児の目を数秒見つめる。
男児から目を逸らすと、目を凝らして歩みを進めようとしていた道の先を見つめた。
追いついた男児の父親が、男に声をかけようとした時。
男が鋭い目つきで親子を見た。
「私が良いと言うまで、一歩も動かず、一言も発しないで下さい。出来なければ生きていない、と思ってください」
鬼気迫った男の声色に、男児も父親も頷くしか出来なかった。
男が踊るように軽いステップで足を進め、何かを小さくブツブツ、ブツブツと呟いている。
何かを終えたのか、男二人に向かって口元に人差し指を当てて合図した。
三
合図した数秒後、前方からワラワラと、モヤモヤと、得体の知れないものがやってくるのが見える。
ヒトの形に近いが皮膚の色が赤、黄、黒と違い、頭から角が生えているものども。
目が三つ。
首がとぐろ。
頭が二つ。
腐魚に脚。
甲冑を着た首なし。
軍服を着た首なし。
生首。
黒い人型。
もとは人のようなものから、そうでないもの。
近ずいてくるにつれ鮮明に見えてくる。
父親は目を見開き、声が出そうになるのを必死に手で押さえ込んでいる。
晴明は、怖がりも、身動ぎもせず、数が多いな・・・という目線を向けていた。
男はその行列を横目に、目線を下に向け晴明を眺めている。
ボソボソと気味の悪い声がざわめいて聞こえる。
「昔はそこらに、うしが転がってたな」
「うしだけでなく、ひとも」
「いまは転がっても烏か猫」
「それとゴミ」
「ふくれない。ふくれない」
「ひもじい。ひもじい」
「腹が減った」
「橋の下の奴等をたべよう」
「そうしよう。そうしよう」
「一つ減ってもわからない」
「二つ減ってもわからん」
「三つ減ったら・・・」
あれこれと話しながら、三人の横を通り過ぎていく。
四
行列が通り過ぎ見えなくなると、男は二人に微笑んだ。
「もう声を出してもいいですよ」
「・・・・・・・・・」
大丈夫と言われても父親は恐怖からか、声を発することが出来ずにいた。
男は、男児の前に膝を折り、目線を合わせる。
ふふっと、もらすように笑みを浮かべて男児を見た。
「ありがと、君のお陰で助かったよ。あのまま気づかなければ、私も君達も危なかった。今までも、ああいった物が見えてたのかい?」
「おい、あんた。そいつと同じなんだろ。だったらそいつをもらってくれ。女房が居なくなったのはこいつのせいだ。いつも何処かをジッと見つめて人形のようだと思ったら、急に笑い出す。終いには何も無い所を指さして『あれはなに?』ときたもんだ。気色悪い。連れて行ってくれ」
声を出せるようになったらしい父親が、男に早口で捲し立てた。
男は父親の前に掌を掲げて静止を求める。
子どもは表情を変えず男を見つめている。
そして、再度、男は男児に問いかけた。
「私の質問に正直に答えてください。君は今までにもあの様な物が見えてたかい?」
「みえてました」
「もう一つ。君は私のところに来て、あれの事を学ぶ気はあるかい?」
「俺と同じような人は、他にいるんですか?」
「ふふっ、今、確実にうちの家には二人いるよ。どうする?」
男は腕に抱えた膝の上に顎を乗せ、小首をかしげ、楽しそうに微笑みながら、男児の返答を待っている。
男児はチラリと父親に目線を向け、男に目線を戻した。
男を見つめ、子どもは凛とした声を出した。
「あなたと一緒に行きます」
「ふふっ、では決定。ではお父上殿?この子の戸籍等々の書類があれば全て揃え、五日後の夜に此処の上に置いて下さい。なければ、それでもいいです。何とかします」
男児の答えを聞いた男は、父親に向き直り、体温の乗っていない笑顔で一枚の紙を懐から取り出し、早口で説明した後、父親に渡した。
受け取ったその紙には何か文字が書かれていたが、父親には読むことは出来なかった。
「ふん、精々捨てられないよう、行儀よくしとけ」
「それでは五日後に」
男は、父親に冷たい目線を向け、男児の横に立ち、掌を取ると歩き出す。
「では、行きましょ。あっ・・・・・さっき行ってた家まで連れていってくれるかな」
「あの・・・」
「なんだい?」
トっ、トっ、トっ・・・
男は手を繋ぎながら、子どもの歩幅と速度に合わせて歩いていく。
「あなたの名前を聞いてないのですが、聞いてもいいですか?」
男は突然ピタッと足を止めると、目を見開き、横に歩いていた男児に目線を合わせるようにしゃがみ込む。
目を見開いたまま、男児を見つめ、口を開いた。
「言ってなかった?」
子どもは頷く。
「一切聞いてないです」
「あら〜、これはこれは」
男は、堪忍、というふうに片手で男児に謝った。
「私は賀茂忠行といいます。君の名前は?」
「苗字は安倍だったと思います。名前はないので、こいつとか、お前とか、好きなように呼んでください」
忠行は一瞬片眉を器用に上げ、それから眉を寄せた。
男児は何か不味いことでも言ったかな、というように忠行をみつめる。
忠行は空を見上げて思案した後、一人で深く頷く。
「よし。とりあえず、晴明にしよう。天気が晴れるの『晴』に、光が明るいの『明』。安倍晴明。うん、いいね、名前一つくらい明るくしよう。そうしよ、そうしよ」
晴明が呆気に取られている隙に、次々と決めていく。
忠行は一人でニコニコと楽しそうに、息子が増えたみたいだな、と独り言を呟いた。
それから忠行は晴明と目を合わせた。
「ふふっ、これからよろしく。ところで、今から行くお宅で何か見たり、聞いたりしても、黙って見てて下さいね」
「わかりました」
そうして二人はまだ暗い道を歩き始めた。
五
二人は用事を終え、忠行の家に向かう。
忠行は話好きな性格なのか、電車とバスに揺られる道中、止まることなく話している。
「私には三人息子がいてね。あ、来年には四人になるか。今、奥さん妊娠中なんだ。長男は修行中。ふふっ、次男と一番下はどうなるかな。家長の私が言うのもなんだが、面白い奴らだよ」
忠行は、息子たちを思い出しているのか、瞳が柔らかい。
「・・・・・・四人もお子さんがいるのに、何故俺を?」
晴明は、出会ってから幾ばくもせずに懐に入れようとする忠行の意図が、ずっと測れずにいた。
忠行は睫毛を羽ばたかせ、晴明を見た。
それから、ニンマリと口角を上げる。
「ふふっ・・・もったいない!なんたる宝の持ち腐れ!あの男は、君の力の大きさ・価値を理解してない!ましてや、子どもから得る物の重要性を一粆もわかっていない!それなら、いっそ、うちに連れて帰ろう!と、思って」
忠行の鴟梟を思わせる目は、獲物を見つけた時のように輝いている。
晴明は、公共交通機関の中、小声ではあるが舞台上のような忠行の言動に、しばし言葉が出なくなった。
それが二十年近く前の事。
ーーーーーー
六
「あとは賀茂家に住んで、忠行さんからその道の教えを教わりました」
話終えた晴明は、外にやっていた目を道真に移した。
話をする前に注がれていた道真の湯呑の中の茶は、減ることなく冷めきっている。
その茶を道真は一気に飲み干すと、少し柔らかな目を晴明に向けた。
「そうか」
「道真さん、自分から聞いといて、『そうか』ってもう少し感想ないんですか」
「ない。あったところで誰が言うか」
母に置き去りにされ、父に捨てられ、賀茂家に貰われ、今がある。
良いのか悪いのか。
それを決めるのは晴明であって俺ではないな・・・
道真は少し腰を浮かせ腕を伸ばすと、大きな掌を晴明の頭に置き、グシャグシャと撫でた。
道真の行動を、予期していなかった晴明が、珍しく表情を変え、目を見開き固まっている。
それを見て、道真は声を上げて笑った。
ーーーーーー
そんなことがあったなぁと自分の日記に書いてあった。
終
『今昔物語集 巻第二十四 本朝付世俗』
「安倍晴明、忠行に随ひて道を習へる語」
をお読みください。
*道真さんは出てきません。